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【小説】はるかなる百名山

 「こんな美しい世界があったなんて・・・・・」
 諏訪原は谷川岳の稜線から眺める大パノラマを前に思わずつぶやいた。

 諏訪原政男は51歳、印刷会社で営業をしている。この会社に勤めて10年になる。前職は不動産会社の営業だったが肌にあわず辞めた。扱う商品が彼にとっては大きすぎたこともある。

 もう一つは社の体育会系の雰囲気が嫌だったのである。毎朝営業社員が、順番で壁に貼られた営業モットーを読み上げる日課があった。声が大きければ大きいほど良いという風潮だったので、社員は競い合うように大声を出していた。まるで怒鳴り合戦である。

 〈ばかばかしい。これで注文取れるなら苦労しないよ〉
 諏訪原は内心あきれていたが、営業成績も振るわなかった。半年間で辞めた。

 現在在籍する会社はもう大きなものは扱いたくないという思いで決めた。営業も得意先を回ることが中心であり、長いつきあいの顧客が大半だった。諏訪原には悪くない仕事だったが、ここ数年は会社の業績が芳しくない。取引先が櫛の歯が欠けるように廃業していっているからだ。

 仕事が減ったので事務社員が一人解雇された。以前とは変わり社内の雰囲気もギスギスしてきている。そうなって久しいが、ふた月ほど前の週末、何気なく見ていたテレビで、プロアドベンチャーレーサーと名乗る渡辺耀司のことを知った。

 渡辺は登山家であるが、カヌーで海峡をわたるなど、複合的なやり方で自然に挑戦している人物だった。渡辺は百名山と呼ばれる山々を制覇する活動をここ数年行っている。百名山というのは高い山だけではなく低山も含む。渡辺にしたらクリアするのにやさしいと思われる山にも敬意をこめて登っていた。必ず山頂の祠に合掌する姿にそれが表れていた。

 「低山は登りやすく少しの努力で自然の美しさを味わえるのでお勧めです」
 渡辺の視聴者への呼びかけは諏訪原にも届いた。

 諏訪原は手始めに小学生以来となる茨城県の筑波山に挑み、那須岳、安達太良山、そして今回の谷川岳と登り続けた。だいぶ身体が山登り体質に変わってきた。それに連動して生活が一変した。ほんの数か月前まで、「飲まなきゃ、やってらんねえ」が口癖だったのだが。

 次の週末、諏訪原は半ば強引に三連休を取得して、北海道は知床を歩いていた。阿寒岳を制して、次の目標である斜里岳を目指している。二座目に挑戦する自分は少しずつ渡辺耀司に近づいているように思える。まだ移動中であるが、道が険しくなってきた。

 〈さすが北海道。酷道というやつかもしれないが、俺はそれだからこそ挑んでいるんだ〉
 ひるまず進む。10メートルほど先の杉の木が大きく揺れるのが目に入った。

 茂みから姿を現したのは、ヒグマだった。立ち姿から察するに2メートル近い。諏訪原は立ちすくんだ。ヒグマは4つ足でゆっくり距離を詰めてくる。警戒の鳴き声に卒倒しそうになる。

 〈どうしたらいい〉
 諏訪原は後ずさりを始めた。ヒグマからは目を離さない。北海道に渡る前に死んだふりや背を見せて逃げるのはご法度であると、知識を仕入れていた。が、それからどうしたらいいのかがわからない。無理もない。
 
 もう目前まで来た。ヒグマは前足を上げ後ろ足で立ち上がろうとしている。考えるよりひらめきが先に来た。
 
 〈いまだ!〉
 諏訪原は少し助走をつけてフロントキックをヒグマの左頬に蹴りこむ。ちょうどプロレスラーの蝶野正洋が得意としているケンカキックのような形である。うまく体重が乗ったらしい。ヒグマは向かって左側に腹を見せてひっくりかえった。
 
 諏訪原は一時的にアドレナリンが沸騰している。アントニオ猪木のようなはすに構えたファイティングスタイルを取って叫んだ。
 
「来なさい!!」

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