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「諦め」こそわが人生

今年の秋になれば、満年齢で「古希」を迎えることになる。古希は「古来希なり」の意味だそうだから、むかしは70歳まで生きる人は少なかったのだろう。ところがいまは、70歳くらいで亡くなると早死にのように言われ、そう思っている人も少なくないのではないだろうか。それはそうだろう。75歳にならないと「後期高齢者」にならず、医療費が1割負担になる前に死んでしまったら、何だか損をした気分にさえなるというものだ。
 
しかし、世間の「常識」とは裏腹に、この歳までよく生きてこられたなというのが自分の実感だ。子どもの頃、この子は二十歳まで生きられないだろう、みたいなことを両親はよく聞かされていたらしい。そんな雰囲気というか気配というか、親の想いは子どもにも伝わっているものだ。自分が二十歳まで生きられないという実感があったわけではない。だけど、自分が他の子どもたちとはちがう人生を送っているらしいことは察していたような気がする。
 
いつ頃のことかはっきりしないが、幼稚園だか保育園だかに入る頃には、この子の心臓に異常があるらしいことを母親は気付いていたようだ。当時、県西部の中核都市にあった小児科医院で診てもらったり、なぜか数日間入院したりした記憶もおぼろげにある。そこで付いた病名は「心臓弁膜症」だった。弁に異常があるのはたしかなので、当たらずも遠からずだが、当時の小児科医院としては精一杯の診断名だったように思う。
 
いまになって考えてみると、自分の人生は「諦め」とともにあった。小学校1、2年生頃までは、たぶんできる範囲内ではと思うが、体育の授業にも参加していた記憶がある。しかし、すぐに息苦しくなることなどが多かったはずで、そこで自分が他の子どもたちとはちがうことに気付いていったように思う。通常の体育の授業は諦めざるを得なかった。自らの意思で選択した「諦め」ではない。「諦め」は「諦観」とも言われ、「諦観」は「悟り」とも解釈されるように、それは子どもなりの一種の「悟り」だったように思う。
 
小学校3年の夏休み、人生で初めての上京を果たした。完成してから数年しかたっていない東京タワーにも上ったが、目的は観光ではない。当時、心臓外科で有名だった医師(大学教授)の診断を仰ぐための上京で、二つの大学病院を受診した。どっちを先に受診したのか覚えていないが、有名国立大学病院ではその教授に診てもらえず、若い医師が聴診器をあてて困惑していた(ように見えた)。草分け的な女性医師が創設した私立医大病院では当の教授に診てもらうことができて、診断名が下された。「ファロー四徴症」もちろん親も初めて聞く病名だったと思う。それ以来「ファロー四徴症」は自分人生の代名詞のようになった。
 
その翌年の冬休み明け、一応手術を受ける予定で再び上京し、私立医大病院の方に入院。その後、良い意味でも悪い意味でもいろいろあって、結果的にカテーテル検査などの精密検査を受けただけで、心臓にはメスを入れることなく、4ヶ月近くに及ぶ入院を終えて帰郷。退院時に処方された「安息香酸ナトリウムカフェイン」(通称{アンナカ})を二十歳頃までのみつづけた。これは当時たしか強心利尿剤として処方されていたように思う。この薬のお陰なのかどうかわからないものの、心臓に大したトラブルを受けることなく、気が付けば二十歳を過ぎていた。
 
しかし、先天性心疾患を抱えて生きていく上で、ずっと「諦め」が続いていた。他の子どもたちのように外で走り回るような遊びは早々に諦めた。学校では、小学校3年くらいから中学、高校まで体育の授業(実技)も諦めて見学扱いになった。体育館やグラウンドで授業を見学していてもつまらないこと、この上ない。結局、教師に許可をとったわけではなかったと思うが(黙認されていたのかもしれない)、図書室で時間をつぶすことが多くなった。もう半世紀以上も前のことなので、細かなことは覚えていないが、いろいろな集団行動や遠足・修学旅行なども諦めたり、一部特別扱いされたりしたことも多かったように思う。
 
進学する高校を選ぶ際も、列車通学(それも数十分の通学)する高校へ行きたかったのだが、担任教師や親は万一のことを考えて同じ町の高校をすすめた。そう言われると列車通学が不安になり、結局行きたかった高校を諦め、同じ町の高校へ進学した。その高校は自分の成績からすれば下位校だった。実際、高校入学後、相当上位の成績で合格したことを知らされた。ところがそれが災いし、高校の勉強をなめてかかり、ほとんど勉強しなくなったので成績は急降下。上位の成績で入学し下位の成績で卒業した。それでも列車通学する高校を諦めたことは結果的によかったと思っている。通学で体力を消耗することはなかったし、上位校の中の成績競争で劣等感に苛まれることも避けられたのだから。
 
小中高と、ふつうの子どもならば学校を休むほどではない風邪気味の症状でも、大事をとって休んでいた。熱が出たりすれば2、3日どころか1週間ほど休むこともあった。他の子どもたちからすれば、しょっちゅう学校を休む、身体に目に見える障害があるわけでもないのに、どこか変なところがある子どもに見えたはずで、特別扱いを受けているようにも感じていたことだろう。
 
6年生の終わり頃だったか、同じクラスの子から「中学へも行くが?」と言われたことがある。そんなに深い意味で言ったのではないかもしれないが、自分にしてみればイヤミを言われたように感じてしまい、そのときの空気感というかシーンがいまでも頭に残っている。高校では下駄箱に「そんなに休むなら学校へ来るな」と書かれた紙片が入れられていたこともあった。それでもいまのような陰湿なイジメを受けたことはなく、そこは幸いだったと思う。
 
卒業式や成人式(今年からは名称を「二十歳の集い」に変えた自治体が多いそうだが)などで、「君たちには無限の未来が待っている」など未来の可能性を鼓舞する言葉をよく見聞きする。若者たちが持つポテンシャルは高齢者と比較するまでもなく大きいのはたしかだろう。先天性心疾患を抱えた身の上でも、若い頃の自分はいまの自分と比較できないほど大きなポテンシャルを持っていたと実感する。ただ、自分の場合、この「ポテンシャル」とは可能性の意味よりも潜在的な体力や気力と捉えたほうが正確かもしれない。
 
未来に開けた可能性について、この歳になってあらためて考えてみると、それは必ずしも幸せなことではないのではないかと思うことがある。これまで多くのことを「諦め」て人生を歩んできた。それはある意味で必然の結果だった。
 
こんな人生を送ってきた人間が言うことだからあまり当てにはならないかもしれないが、目の前に多くの選択肢を示された場合、人は選択に迷うのではないだろうか。AにするかBにするか、あるいはCにするか、XとYならばどっちがいいか、いろいろ勘案して決めなければならない。自分で決められなければ友だちや親、教師などに意見を聞いたり、いまならウェブで調べたりSNSに投稿してみたり、占いに頼ることもあるかもしれない。そこで費やされるエネルギーや時間は意外とバカにならないのではないか。
 
自分の場合、選択肢は限られていた。そもそも選択肢がないこともあった。多くの選択肢から迷うのではなく、限られた選択肢しか示されなかったり、すでに進むべき道が一つしかなかったりしたとき、心の中では「迷い」よりも「諦め」が圧倒する。「諦め」をいかに納得するか、それは「諦め」を「悟り」へと導く。仏教などでいう「諦観」とはこのような心境を指すのではないだろうか。
 
自分がいま「悟り」や「諦観」の心境に達しているなどと言うつもりはさらさらないし、実際はその心境とほど遠いことは自分がよく知っている。それでも、いまの社会を眺めたとき、あまりにも可能性に言及する言説が氾濫している状況に違和感を持ってしまう。あれもできる、これもできる。未知の世界を切り拓くことにこそ価値がある。たしかにそれは一面の真理である。しかし人はいずれ老い、あれもできなくなり、これもできなくなる。そして死が訪れる。
 
老いや死をテクノロジーの力で乗り越えようとする考えもある。いわゆる「ネオヒューマン」の思想である。諦めることなく、どこまでも進もうとする。しかしそれは欲望の連鎖を意味するように思えてならない。死は恐怖の対象としてだけではなく、究極の安息を意味するという考えもあったように思う。一分でも一秒でも長生きしようとすること、それもテクノロジーの力を借りてでも生きながらえようとすることに、死の瞬間まで生を諦めることなく、欲望に捕らわれ続ける人間の姿を見せつけられる。そこに安息はない。それでもいいという人はいるだろうし、こんなことを書いている自分だって死を前にしたとき、どんな醜態を見せるかわからない。ここまでくれば一種の美意識の問題なのかもしれない。
 
認知症(ボケ)は死の恐怖を和らげるための防衛本能だという説があったかと思う。人はボケることで死の恐怖から少しでも逃れることができるのだという。「死」とは心停止や脳死が意味するものではなく、自我が「死」を作り出す。「自我」とは難しい説明を抜きにして、「オレが、ワタシが」と思うこころの作用を意味するのだと思っている。たぶん「オレが、ワタシが」と思っている限り、死の恐怖から逃れることはできない。人はボケることで「自我」がどうなるのか、自分には答えられないが、防衛本能説が正しいとすれば、少なくとも生に対する執着は弱くなるのではないかと思う。つまり人はボケることで生を「諦め」るのかもしれない。
 
話を元に戻すと、高校卒業後、いくつかの大学を受験したが全滅。下位の成績で卒業したにもかかわらず上位の大学ばかり受験したのだから当然の結果であった。二浪までしたが結局行きたい大学には入れず、ほとんどヤケクソで入った大学もあっという間中退。その後、長くフリーターのような生活を続けた。地元の医院で処方されていた「アンナカ」は、もうやめてもいいのではないかという医師の助言で、二十歳過ぎにはやめていた。この頃からほんの数年前までの四十数年間、治療はおろか全く投薬も受けない日々だったが、意外にも心臓の調子はよかった。
 
もちろんフリーターの生活に満足していたわけではないので、職安(いまの「ハローワーク」)に何度か足を運んだ。しかし正規雇用はおろか非正規雇用の仕事さえ見つからなかった。それどころか、肉体労働はできないと言うと、小学生時代の同級生のように見た目の判断から「楽をしたいからそんなことを言っているのじゃないか」と職員に言われ悔しい思いをしたこともあった。その悔しい思いが、後年「障害者手帳」の取得につながった。
 
いずれにしても正規雇用で働くことなど諦めていた。ところが、ほとんど実家に寄生している生活を送っていたところ、友だちの紹介で個人経営の学習塾講師の仕事(アルバイト)が舞い込んできた。もともと教師志望でもなかったし、子どもを教えた経験もほとんどなかったが、この仕事がその後の自分の人生にどれほど役立ったか、はかりしれない。
 
人は可能性という広々とした大地に生まれるようなものだとしたら、自分の場合は生まれた大地が他の人と比べて狭く小さかったということになるだろう。さらに成長するにつれて、次々と現れる「諦め」によって自分の大地はさらに切り取られ、さらに狭く小さくなっていった。しかし、それと並行して自らの「世界」も狭く小さくなるわけではない。大地が自分の足下を支えるだけになったとしても、頭上には大きな空が広がっていた。その大きく広々とした空は自分を「世界」へと導いてくれた。
 
自分にとって「世界」へと導いてくれた「空」は文字どおり空や宇宙も意味しているが、人によってその「空」はちがった彩りをしていることだろう。それはアートかもしれないし、文学かもしれないし、何らかの活動や貢献かもしれない。日常の生活そのものや仕事を意味している場合だってあるだろう。まもなく古希を迎える、それも先天性心疾患を持つ身として思うことは、「進む」だけでは得られないこと、見えてこないものがあって、「諦め」ることで得られること、見えてくるものがあるということだ。一見「諦め」はつらい。しかし、いまの時代「諦め」こそ必要に思う。
 
とはいえ、それでも諦めきれないことがあるだろうと思う。それはそれでいい。禅問答みたいだが、「諦める」ことを諦めるのが、最大の諦めだろう。それに第一、そんな不自由な「約束」で自分の人生を縛るなんて、不自由きわまりないしね。
 
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