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土俵に上がってないなら勝ちも負けもない

・湖畔に住みたい。そこそこ広い洋館に、美しい妻と娘と一緒に。定期的に舞踏会を開いて客人を招きたい。客人の中には必ず名探偵を入れるようにして…何も起こらず普通に楽しく過ごして帰って欲しい。

・行く先々で事件が起こるって辛いよな。たまには普通に旅行を楽しんだりして欲しい。名探偵。

・土日のテレビって全く面白くなくなってしまった。正確にいえば平日ゴールデンタイムも。22:00過ぎないと面白い番組が無い。これが大人になるってことなのか?ファミリー向けに適合出来ない独り身故の感性なのか?だとしたらこの気持ちを忘れずに父となり、子供には「テレビは22:00になるまで見るな」と偏った教育を施したい。(ニュースと見たい番組は見てもいいよ。)

・ちなみに僕が言っているのは「ながら見」するという意味での面白さの話。僕らの少年期はテレビが面白かった。なんとなく見てても面白かった。幼さ故の感覚だったのか?とも思ったが、YouTubeに転載されている昔の番組のキャプチャを見てもやはり面白かったので、多分あの頃はテレビがいきいきとしていた。

・答えを言ってしまったけれど、今はYouTube見てる方が楽しかったりする。YouTubeは「見たいもの」がある程度決まってないと面白みに欠ける気が昔はしていた。ただ、関連動画のサジェストが秀逸。好みを学ぶし、なんとなく流れてくるものも面白い。

・何事も「選べる」時代になったのは良いことだと思う。同時にこれは、取捨選択の能力を持つことが必須になってしまったことのあらわれだ。流れのまま、自然に生きていたいとは思うが、明確な意思を持って「何かを選ぶ」ということが「自然」に組み込まれてしまった。

・昔は選択肢が少なかったから、それこそ「自然」に選べていたんだろうけれど。「青森から集団就職するために夜汽車に乗って東京へ行く」なんて、現代に於いてはロマンでしかない。

・通信技術の発達によって、僕らは24時間いつでも他人と繋がれる状態になった。なんなら監視すら出来る。夜な夜なTwitterに感情を垂れ流して、誰かに同調して貰えたり、インスタに載せた写真にイイネをもらって承認欲求を満たせたり、なんというかお手軽な時代だ。

・僕自身がインターネットに触れるようになったのは高校生の頃。今から15年以上前の話だ。あの頃は連絡こそいつでも取れるが、「リアルタイムで現状を広く認知してもらう」なんてのは無理だった。SNSはごく最近のもの。匿名掲示板やチャットルームが全盛期だった。それですら「なんかすげえ時代」と思えていた。この辺今度まとめて書こう。昔、僕のメールアドレスには「知らない人たち」からよくメールが来ていたので。

・何が言いたいって、SNSとか無かった頃の夜って割と苦痛だったなあ、と。圧倒的孤独。その中で歌詞を書いたりし始めたことが自分のキャリアに繋がってはいるから、それが良かった部分でもあるけれど。ただ、悶々とした気分でいることは多かった。外からの情報も何も入って来なかったから。刺激というか、「せっかく起きているのに何もしていない」のが嫌だった。寝ろって話なんだけど。

・そうなんだよ。夜は寝て、朝に起きて、学校や職場に行く。なんやかんやこの生活リズムは健全であり、ある程度完成されたタイムテーブルであることは間違いないんだ。大多数の人間はこれで救われる。

・ただ、コロナ禍、これも通用しなくなって、我々は変化することを余儀なくされているのもまた事実。

・「どうしてそうなってるのか」というのを理解することが一番大切だ。前述の朝起きて〜のくだりのタイムテーブルが完成されてる理由だって、自分が夜な夜な無駄な時間を過ごすこともなければ、その良さに気付きもしなかった。(別に自分の過ごした無駄が悪かったわけでもないけれど)

・表題「土俵に上がってないなら勝ちも負けもない」というのは、「勝ち組」やら「負け組」やら、人間はすぐに勝ち負けで物事を判断したがるので、根本的な考え方の部分で言及したまでだ。原因が無ければ結果は生まれない。そもそも土俵に上がってないなら、評価の対象外ということだ。

・逆に言えば、勝ち負けの対象となるには「土俵に上がる」ことが必要だ。うだうだ言っても自分が「土俵に上がれていない」なら勝ち負けの対象にすらなれない。「あの方は無関係なので気にせず!」という枠でしかない。

・そもそも土俵に上がること自体が難しかったりする。越えなくてはいけないハードルを自ら越えて、はじめて「評価対象」になれる。勝ち負けをするならそのくらいの気概があった方がいい。

・故に、他人の想像で勝手に登らされたことになってる土俵での勝ち負けというのは、本当の自分には関係ない。不快な情報も簡単に流れてくる世の中だからこそ、この辺のことはしっかり整理しておかないと。勝手な他人の印象で、本来の自分が殺されてしまうおそろしい時代だから。皆さんどうかご自愛下さい。僕はあなたの味方です。金で買える味方です。(悪)

・バンドをやっているので、なんかよく知らんことを言ってくる人たちというのはたまにいる。「大体彼らのいうことは「…では、それを実現するだけの具体的なアクションプランと資金をご提供いただけませんでしょうか…?」の一言で片付けられたりする。慈善事業じゃない。何をやるにもお金と時間はかかっているし、限られている。というか、そういう人たちが「想像できること」は、とっくにこっちだって検討しているに決まっている。圧倒的資本や時間を費やせるアーティストと同一視して貰えるのは嬉しいが、残念ながら状況が違えば泣く泣く断念せざるを得ないことも多い。無知故に言ってきてるのもわかるけれど。

・あとは純粋に「そういうのは僕らやりたくないです」という、想像と現実の乖離。これが結構多い。どんな印象を持たれているのか知らないけれど、そんなこと僕らすると思います!?みたいなことを平気で「やりなよ」って言ってきたりする。同級生で組んだバンド、仲も悪くない、むしろ良い。ただ、僕らは僕ら世代の中では「影響を受けたバンド」が少し違っていたりする。違和感を活かしてシーンに残っていたりする。

・土俵に上がってない状態だからこそ好き勝手言えてるということ、現代だからこそ、その意見は直接本人にまで届くということ。この辺わかっておかないと、それこそ「あの人ねえ…」となる。わかってやってるなら全然良い。現代だからこそやれることだ。わかってないなら気を付けよう。ちなみに僕はこの考え方に則って動いている。

・みんながみんなを好きでないといけない、そんな息苦しい世界は嫌だもの。苦手な人、嫌いな人、全然いる。大抵は自分と価値観が合わない人だ。でも別に死んだりして欲しいわけではない。僕に関わらない場所で、たのしく暮らしてくれていたらそれでいい。重ならない世界で、知らないところで、お互いの価値観を持って生きていきたい。これが本当の意味での共存だと思う。

・嫌なものには近付かない。これに尽きる。「嫌…とかじゃないんです!でも、ちょっと気に食わない部分があって…」みたいなのは感情移入し過ぎ。片思いの相手に多くを求めてどうするんだ。伴侶じゃないんだから。

・距離感を見誤らないコツは、何事も「片思い」であると考えるのがいいと思う。何かを他人に言うのは告白と同義。覚悟してかかれよ。

・常に言っていることだけれど、自分ベースで生きていたい。くたびれてしまっている人の中には無意識に他人ベースな人も多いと思う。どうかあなたの人生を歩んでくれ。僕の音楽や言葉はその人生の、ひとりひとりの日々の暮らしの中でこそ活きると思うから。この気持ちでこれからも作り続ける。活動し続ける。

・また強い文章を書いてしまった…(またつまらぬものを切ってしまった…の口調)

・日常的なことをいえば、この間、Uber Eatsしたら配達員の方がピエロの格好をして来てました。マンション着いてから少し時間かかってたから移動時は普通で対面時に着替えてたんだと思う。割と深夜だったので不気味でした。(でもありがとう)

・Uber Eats頼んだあとに、「飲み物は家の前の自販機で買おう〜」って外に出ると「これ、このままスーパー行けば良かったなあ」って軽く後悔することが多々ある。

・でも、美味しいものが届くので、食べはじめたら「うーん最高!どうでもいい!」となる。

・金と時間、どんなふうにリソースを割くかは自分次第。コロナ禍でUber Eatsし過ぎて、気付けば相撲取り、土俵に上がるのも時間の問題!ってか!!がはははははは!!

・タイトル回帰。こういう文章で「おあとがよろしいようで!」感を出して終える旧時代のモノ書きたちを駆逐するのが僕の役目だ。なにもよろしくないぜ。本当に「終わらせて」やろうか…?

・曜日感覚、最早僕の中では死んでいるというのと、僕と同じく曜日に縛られずに働いている方も多いことでしょう。それでも週末という概念には少し安息の響きもあったりして、僕は好きです。

・土曜日、少し夜更かしでもして、あなたなりの素敵な時間をお過ごし下さいね。

fusetatsuaki

僕が良質な発信を行い続ける為には生きていないといけないので、サポートしていただけたらその金額分生きられます。主に家賃に使います。