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冥界と身体、冥界の身体/『ゼーガペイン』と横尾忠則 (1)

古谷利裕

1.空間的イメージ=メビウスの帯
 まず、本稿の出発点となる一つの空間的イメージをアナロジーとして示すところからはじめたい。それはメビウスの帯のイメージだ。
 メビウスの帯は、紙テープのような細長い帯状のものを半回転分ねじって(一八〇度回転させて)、その両端をつないで環状にすることでつくられる。この帯の特異性はまず、裏と表が連続しているという点にある。面上のある点から出発して縁に平行して面上を行く者は、知らぬ間に裏側を通り、二回転して出発点へ戻る。連続性は面にだけあるのではない。左右の縁も連続している。たとえば、左側の縁の、ある位置から出発する縁の上を行く者は、いつの間にか右の縁を通って、二回転して元の位置に戻る。メビウスの帯には面が一つしかないだけでなく、縁も一つしかない。
 もう一つのおもしろいところは、全体と部分との関係にある。メビウスの帯は全体としては裏表がない一つの面といえる。しかし、たとえば帯の表面にペンを突き刺したとする。表から刺されたペンは貫通して裏側へ出るだろう。つまりその突き刺された部分だけを注目するのならば、裏表が確かに存在する。ここで、裏表のある「部分」(三次元)と裏表のない「全体」(二次元)との間で矛盾が生じているように感じられる。部分をみれば裏表があるが、全体をみると裏表がない。

2.『ゼーガペイン』の世界観(対立)
 メビウスの帯のイメージから想起されるのが『ゼーガペイン』という二〇〇六年に放映されたアニメーション作品だ(原作・矢立肇/伊東岳彦、監督・下田正美、シリーズ構成・間島眞頼、製作・サンライズ)。なおここでは、アニメーション作品としての『ゼーガペイン』総体ではなく、その設定=世界観のみを問題とする。以下でその世界観の概要を示すが、それは作品としての『ゼーガペイン』が完結した地点からみられたもので、いわゆるネタバレを含むことになるので(というか、ネタバレ全開になるので)、未見の方は注意されたい。
 『ゼーガペイン』では人類滅亡後の世界が描かれる。ウイルスによる滅亡が避けられないと悟った人類は、実体としての身体を捨てて自らをデータ化し、量子サーバ内に保存されることによる生き残りを選択する。しかし人類はこの時、二つの異なる道(存在=データの形態)に分かれることになる。
 一方では、個々人のデータから個体性という仕切りが取り払われて集合化され、一体化した「人類」という形でデータが保存される。全体化した人類は、量子コンピュータという環境下で不死を得、無限の時間のなかでの果てしない進化を実現しようとする。いわば、人類という集合体が、その全体性のなかから自分自身に対する差異を果てしなく生産しつづけようとする世界だ。ここでは、身体という限定性をもっていた頃にあった通常の時空構造は既に成立せず、時間も空間も、自己も他者も混じり合っているが、自分自身(人類という全体)に対する差異が果てしなく生産される(進化する)ことによって時間が前へと進んではいる。
 もう一方は、個体性が維持されていて、個体が個体として成立するための三次元+一次元(時間)という時空構造も維持される世界だ。ここで幻体と呼ばれるデータ人間は、実体としての身体をもっていた時とそっくりにシミュレーションされた空間(都市)のなかで、実体として存在していた時と同様に再現された物理的ルールに従って生きている。しかし、人間(精神と身体)のデータ保続だけでなく、都市空間や物理法則のシミュレーションのための演算がコンピュータに要求する負荷は大きく、人々はごく限定された空間に閉じ込められ、ごく限定された時間の反復のなかに閉じ込められている。人物たちはサーバやコンピュータが物理的に破損しない限り不死ではあるが、舞浜市という架空の市の外へ出ることは出来ず、同じ年(人類が滅亡する直前)の四月から八月という同じ五か月間をシミュレーションした世界の(同じ時間の)反復から出ることができない。同じ時間のくりかえしのなかに生きる彼らは、個体性の維持のために時間の進行(変化や成長)を犠牲にする。
 進化や変化をとるのか、個の特異性をとるのか。『ゼーガペイン』の物語はこの両者の陣営の戦争である。そもそも人類を滅亡させたウイルスは、前者の世界を理想とする狂信的な科学者によって生み出されたとされている(つまり彼が人類を滅亡させた)。そして(集合化によって「彼ら」となった)彼は、地球全体を自らの理想の場として統合するために、後者を滅ぼすか、あるいは取り込むかしようとしている。「個」を尊重しようとする後者はそれに抵抗する。一方に、自身を無限に差異化しつづける全体があり、他方に、変化のない同じ個の永遠のループがある。これが『ゼーガペイン』の基本的な構図だ。
 このような構図は、実在論と唯名論との間でなされた中世の普遍論争を思い起こさせる。実在論(スコトゥス派)とは、普遍そのものがそれ自体で存在するという立場で、唯名論(オッカム派)は、実在するのはあくまで個物であって、普遍は「名」としてのみあるとする立場であるという程度の雑駁な認識しか筆者にはないのだが。例えば、坂部恵は『ヨーロッパ精神史入門』でそれぞれの立場での「個」の捉え方の違いについて次のように書いている。

個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心なところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものとみなすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか。
「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます。
(『ヨーロッパ精神史入門』)

 しかし、両者は対立的であるというよりむしろ相補的であり、相手がいなければ成り立たず、単純にあちらかこちらかという問題ではないのではないか。ここで、ドゥルーズの現働化と実在化という概念についてライプニッツのモナドロジーを通して論究する西川アサキによるコメントを引用することで考えを整理したい(『魂と体、脳』)。以下、ドゥルーズを参照した西川の用語では、現働化は「全体(潜在性)のなかから個物があらわれる」こと、「実在化」は、「個物同士の関係性から共可能性として再び全体的ネットワーク(潜在性)がつくられる」こととして捉えられている。つまりここでは、「現働化」が実在論に近い概念で、「実在化」の方が唯名論に近い概念なので(一見、逆転しているので)、用語法による混乱に注意されたい。

つまり、「現働化」は、モナド=精神の中での「明るい部分(「特権的な帯域」)と暗い部分の配置」を決めることだ。その意味で、全体は先に与えられ、その上のどのゾーンが明晰でどの領域が混濁したバックグラウンドなのかという分布、つまりクオリアの強度分布(本書でフレームと呼んでいるもの)を配分してゆく。一方、「実在化」は、「物質」の中での出来事の実現であるという。「実現」が何を意味するのか解釈は難しいが、本書ではそれをとりあえず「共可能性の探索」として考える。ある出来事と別の出来事は、矛盾なく共可能なのか? そうではないのか? それは手探りの過程であり「部分から部分に、近いものから遠いものにいたる」からだ。
(『魂と体、脳』)

 ここで、現働化とは、潜在性としてある全体=地のなかから、地と図の分離が起こって個物=図が浮かび上がることだとされる。その分離は一挙に(同時に)実現する過程だ。だからこの時、個物はそれ自体にそのバックグラウンドとして全体を含み持っていることになる(これがモナドという概念だろう)。要するに、坂部恵が書いている通りの実在論的な考えだ。対して実在化は、そのようにしていったんこの現世に個物としてあらわれたものたちが、(全体からは切り離されているかのようにみえる)物質的な世界の時空という約定のなかで、それぞれの切り離された特性が共存可能であるように、新たな関係(新たな地-全体)を模索‐探求してゆく過程だ、とされている。だからこの過程は、≪部分から部分に、近いものから遠いもの≫へと≪手探り≫に、一つ一つ順番にすすんでゆくしかない。要するにこれは個物による(個物を元になされる)世界の構成なのだから、唯名論的だと言ってもよいと思われる。
 (ただし、アトムとモナドという概念の違いは重要だ。アトムとは、レゴブロックのピースのような、点描画法の点のような、世界を構成する基本的で切片的な要素---最小単位---であり、まさに唯名論的であるが、モナドは、図としては限定された構成要素であるとしても、地としてそれ自身が宇宙全体を含んでいるような---最小単位であると同時に全体であるような---最小単位であり、実在論的な概念だと言える。しかし、その実在論的な「モナド」が、既にある全体性を前提とせず、個物という限定的なあらわれしか持てない「この現世」において、その個別性という限定のなかで、≪部分から部分に、近いものから遠いもの≫へと≪手探り≫に新たな「共存可能性」を探っていこうとする働きをもつという意味では、モナドは、唯名論的な傾向(唯名論的な「実在化」の過程)を同時に含んだ概念でもあるとも言える。つまり、モナドという概念こそが、ここで言おうとする、唯名論と実在論との相補関係を示していると言えよう。)
 つまり、両者は対立するのではなく循環する。バーチャルな全体性は個物へとアクチュアル化され(=実在論)、アクチュアル化された個物(身体)たちによって現世的約定的時空(俗なこの世)のなかで新たな個物間の諸関係(諸経験)が模索され、作り出され(=唯名論)、それが再びバーチャルなもの(それ自体としては目に見えず、触れもしない社会的なネットワーク、あるいはモノたちの相互作用のネットワーク)へと返されて、バーチャルな全体性(地)の再編成を促し、そこからまた新たなアクチュアル化(個物化)が生じ……、と循環する。この時、個物、あるいは身体は、バーチャル(実在論)とアクチュアル(唯名論)との対立を循環的に繋ぐものとして、もっと言えば、メビウスの帯の表と裏とをつなげる「半回転のねじれ」のようなものとして存在している。そしてこのような循環(ねじれ)は『ゼーガペイン』においてもはっきりと捉えられている。
 (通常は仮想的と訳される「バーチャル」が「実在論」と同じ立場だということが変だと感じられるかもしれないが、ここでの実在論とは、直接目にはみえない「普遍」こそが実在するという立場だということに注意されたい。)

3.『ゼーガペイン』の世界観(循環-ねじれ)
 『ゼーガペイン』は人類がいったん失った身体を回復するまでの物語だと言える。しかしそれが「バーチャル(情報)からリアル(実在)へ」というスローガンに還元されるような単調なものでないことは前述したことから明らかであろう。ここで回復されるべき身体とは、バーチャル(実在論)とアクチュアル(唯名論)との循環(往還)を可能にするためにこそ要請されるメビウスの捻じれのようなものだ。それは確かに個物=物質であるが、それ自体で実体(実在)を保証してくれるようなものではなく、メビウスの帯のねじれのように矛盾としての媒体として存在するものであった。
 『ゼーガペイン』において人類を滅ぼしたのは人間(ナーガという狂信的な科学者と彼がつくったガルズオルムという組織)である。人間がつくった「科学」そのものだと言ってもいいだろう。そして、そのガルズオルムに抵抗する組織(セレブラント)を作ったのは、もともとナーガの思想に心酔していた彼の側近と、ガルズオルム側の技術力によってつくられたオリジナルな人格(魂)をもたない(科学そのもの純粋な成果である)人工的な「データ(人造)人間」である。そして、ガルズオルムによってデータ化を余儀なくされた人類が再び身体化するための技術もまた、ガルズオルムによって開発されたものなのだ。
 つまり、人類を滅ぼしたのも復活させたのも、もともとはガルズオルムに内在する力(傾向)であり、人類は、人類に内在するガルズオルム的な傾向によって自滅し、しかしガルズオルム的な傾向から生み出された技術によってデータ化して延命し、ガルズオルムに抵抗する契機を得た。そして、反ガルズオルム派は、ガルズオルムの技術のおかげで実体化して復活することさえも可能となったのだ。逆に言えば、ガルズオルムは、ガルズオルム的傾向(思想)によってつくられた技術が内向きに裏返るように作用し、自身を攻撃することによって自滅したとも言える。敵(裏)と味方(表)は対立するというより入れ子的、交差的で、互いに互いを内包しており、地続きでもあり、食い合っており、きっちり切り分けることが出来ない。
 ここで、切り離された実在論(固有性をもたないガルズオルム)と切り離された唯名論(個の発展性=変化をもたないセレブラント)との戦争がどのように行われていたのかを少しみておきたい。
 セレブラント側は、個人としての身体や精神をデータとして保存してはいるが、あくまでデータであり、その身体が物理的身体として活動できるのはコンピュータによって仮想された空間に限られている。つまり、現実の地球(物理的空間)に介入する(触れる)ことは出来ないし、自身がその内部にいるコンピュータやサーバを物理的にメンテナンスすることも出来ない。彼らの生きている時空は物理的に存在する時空とは論理的な次元が異なり、このレベルの違いを越えることは原理的に不可能なのだ。しかし、(おそらくデータ化される前に製造された)ゼーガペインと呼ばれる物理的に存在するロボットへと精神と身体能力のデータを転送することで(あたかも物理的身体がロボットを操縦しているかのような体で)、その物理ロボット動かし、それを媒介として物理的な現実に介入することはできる。彼らはロボットを通じて現実の地球を見、そして触れ、自らの存在基盤である量子コンピュータのメンテナンスを行い、さらに敵と戦う。
 だから彼らの死は、ロボットのメモリの破損やデータの転送コストにともなうデータ破損という形で起こる。これはある意味、身体=ロボットという泥人形に魂(精神)が注入されるという図式のバリエーションだとも言える。ここでロボットという身体はあくまで身体一般としての身体であり、それぞれに異なる個物としての身体ではない(同じロボットを多数の異なる人たちが操縦する)ことが問題となる。
 一方、ガルズオルムの側は、精神や身体の個別性は保存されていないかわりに、一体化(普遍化)した全体の「表現形の一つ」として、物理的身体を製造する技術をもっている。個別性をもたない彼らの精神は、アビス(男性形)とシン(女性形)という二つの典型的な身体=精神によって表現される。彼らは典型であって個別ではないから死をもたない(死という意味が存在しない)。一人のアビスが死んでも次のアビスが再製造されれば彼らの間に違いはないから死んだことにならない。差異を全く持たない素粒子のように、アイデンティティをもたない彼らに死があるとすれば、それはガルズオルムという全体の消滅を意味するか、アビスやシンの再生産装置の破壊を意味する。
 唯名論において個物こそが実在だとされるのは、まさに物理的な「モノ」が個として存在するからだろう。セレブラント側では、データが「個」として存在している。つまり、量子コンピュータのデータはそれ自体オリジナルであり、修復はできてもコピーができない。故に彼らは、データとして「個物」なのだ。しかし、彼らがもつ「身体」はロボットであり、魂=操縦者をいくらでも入れ替えられる。一般性(技術の汎用性、普遍性)としての身体(ロボット)を通じてしか、唯名論的には「個物」たちの世界であるはずの物理世界に接することができない。
 一方、実在論において普遍が実在するとされるのは、個の背後に常に普遍(全体)がバックグラウンドとして貼りついているから、という考えであろう。しかしここではアビスやシンはあくまで全体性の表現(縮減された全体性・典型)であって個ではない。全体性(地)とは、そこから(否定と限定を媒介として)個物=図が零れ落ちることによって、その図(個)のバックグラウンドとして存在を顕わすしかないものだ。だとすれば、もし、全体(地)からそれを否定を通じて浮上する個=図が生まれないとしたら、そこには顕わとなるものは何もなく、全体はほとんど無と同等のものになってしまうのではないか。地はそれ自体だけでは無と同じなのだ。
 よって、全体性(地)は常に、それを否定する個(図)を必要とする。典型であるアビスとシンは全体からの否定性と限定性を媒介としておらず、よって個ではなく、戦争のためにに必要な物理的な人の「型」にすぎない。ガルズオルムは「個」を否定しているのだから当然だが、しかし、個ではないものは、実は全体(普遍)性を表現することはできないのだ。
 『ゼーガペイン』は、人類が滅亡した後にもまだ、亡霊たちによって果ての無い戦争がつづけられているという悲惨な話だとも言える。なぜそんなにまでして戦争がつづけられなければならないかと言えば、戦争こそが失われた身体(メビウスの帯のねじれ)の代替物であり、「唯名論と切り離された実在論」と「実在論と切り離された唯名論」が、戦争を通じて辛うじてその循環(交差、往還)を成立させているからだ。
 セレブラントの側では、個は個としてただ保続されるだけで、個が発展し展開し変化する機会を奪われている。つまり個はただ「~である」として固定的にしか存在し得ず、「~に成る」という変化が禁じられている。だが、戦争がつづいていることによって辛うじて、固定的な個(~である)から、戦士として「目覚める(~に成る)」少数の者が現れる。戦争という緊急事態が「成る(変化する)」ことを強いるからだ。
 一方、ガルズオルムが勝利して地球のすべてを覆い尽くしてしまえば、世界は全体=無として閉じてしまう。だから彼らもまた、セレブラントによる抵抗(全体に対する否定的媒介としての「個」からの攻撃)を通じて辛うじて、自らの全体性を確認することができているのだと言える。全体は、否定と限定がなければそれ自身を表現できないし、「個」は、変化という「個であることの否定」の可能性がなれば、「個であること」ができない。幽霊たちは、戦争という悲惨な方法によってそのような相補性の回路を辛うじて確保しているのだ。
 実体化の技術はもつが個をもたないガルズオルムと、個はもつが実体化の技術をもたないセレブラントは、どちらも一方だけでは充分ではない。セレブラントが身体をもつためには、自身の内にガルズオルム的な技術という毒(否定)を呑みこまなくてはならない。身体が、「~である」と同時に「~に成る」を含む媒介‐矛盾として成立するためには、個は個の否定(成る・変化する)をその内に埋め込まなくてはならなくなる。戦争状態を脱するためには、「~である」と「~に成る(変化する)」が両立する矛盾を含む身体(メビウスの捻じれ)が実現されなければならない。それはこの作品のラストにおいて、ヒロインであるカミナギの妊娠という形で表現(実現)される。
 わたしは、わたしの子供(わたしではない別のもの、別の個)に、未来を預け、そしてわたしは死ぬ。個がその内部に個の否定(変化)を含むという「実体化」は、そこまでいってはじめて意味をもつ。それ以前は、セレブラントとガルズオルムのどちらの側でも、新たな「別の身体(子供)」が到来することのない世界であった。

4.死と現実
 精神分析(フロイト)では、人の「心」においては現実と幻想の区別がないとされる。外から来る原因で起こる現実も、内側の出来事である幻想も、どちらも同じ強さで心に作用する、と。だから、幻想も、現実と同じくらい強く人を傷つける。では、何が現実と幻想とを分けるのか。それは「体」である、と言えるだろうか。幻想では何度でも死ねるが、体は一度しか死ねない。この「一度」が現実である、と。『ゼーガペイン』のセレブラントたちが獲得しようとして戦っていたのも、このような意味での、一度の死をもつ一つの身体によって構成される「現実」であった。そのように言えば確かにもっともらしくは聞こえるだろう。しかしそれは本当なのか。
 例えば『ゼーガペイン』において、主人公のキョウは戦闘によるデータ破損によっていったん記憶と人格を消失し、復帰後の戦闘の経験が重なることによって、二つの記憶と二つの人格が重ね描きされた者として存在することになる。彼とペアを組むカミナギは、データ破損により、量子サーバとロボットとの二か所に人格データが分散されてしまい、ロボットを操縦するコクピット内においてしか(ロボットを操縦するという行為を通してしか)分離された人格を統合できなくなった。普段のカミナギからは感情が失われる。キョウは、一であると同時に二の重ね合わせとして存在し、カミナギは、一であると同時に二への分離として存在する。そして、この二人の反転的な存在のねじれが、 「個」が固定されてしまった世界で何かを動かし、個による個の否定の内包(変化の可能性)へと導くことになる。だとすれば、身体は一であり、よって死も一であるというのが「現実」だというもっともらしい話を簡単に信じてよいのかという疑問に行き着く。このような疑問から、本稿は横尾忠則へと近づいてゆく。

(2)へつづく

初出 「ユリイカ」2012年11月号 (特集・横尾忠則)

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