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冥界と身体、冥界の身体/『ゼーガペイン』と横尾忠則 (2)

古谷利裕

5.横尾忠則の小説(消失と充填、男性原理と女性原理)
 横尾忠則の絵画作品は、あらゆるイメージ、あらゆる技法を無差別に呑みこんでしまう底なしの器のようにあり、あまりに融通無碍なので形式的には分析困難である。もし、ある一時期の作品の傾向を分析できたとしても、それは次の時にはあっさり捨てられて別の場所へと移動してしまっているように見える。その奔流に圧倒されるものよいが、本稿は、その奔流の原理のなかからわれわれの生における「身体」の位置づけを探り出すヒントを掴むことが可能ではないかという直感によって書かれている。
 そこで、流れの中の仮の固有地域、一つの足掛かりとして、二〇〇七年から二〇〇九年にかけて集中的に書かれ、『ぶるうらんど』と『ポルト・リガトの館』という二冊の本としてまとめられることになった小説群に視線を限定してみたいと思う。
 これらは、七篇の独立した短編というより、相補的な二つの連作小説というべきものだ。『ぶるうらんど』と『ポルト・リガトの館』のどちらも、表題作でもある連作最初の短編で生と死の中間に位置する場所での出来事が描かれるが、その後、連作はそれぞれ逆方向へと進行するからだ。『ぶるうらんど』では、最終的に個的な存在の完全な消滅(=死)へと至るのだが、『ポルト・リガトの館』では、生命エネルギーの身体(個)への充填(=生)へと至る。まるでガルズオルムとセレブラントのように逆向きにすすんでいく。
 『ぶるうらんど』では、あらゆる緊張や抑圧が解消された究極の脱力状態としての存在の消失に向かってゆくが、『ポルト・リガトの館』の最終作では、「射精の禁止」という抑圧と性的レッスンという鍛錬を通して、身体という個的な場に非人称的エネルギーが溜まって存在の濃度が増してゆく。これを本稿のこれまでの文脈上に整理するならば、前者がアクチュアルなもののバーチャル化(個から普遍へ、現実性からの潜在化へ)、後者がバーチャルなもののアクチュアル化(全体から個へ、潜在性からの現実化へ)というベクトルをもつと言い換え得る(しかし、出発点はどちらも「中間的な場」である)。そしてこの、脱力-拡散‐消失と抑圧-凝集‐充填という、相反する方向への移動は、どちらも女性を媒介とする性的で官能的な行為をつうじて完遂されることになる。
 少し詳しくみていきたい。『ぶるうらんど』の第一作「ぶるうらんど」も、『ポルト・リガトの館』の一作目「ポルト・リガトの館」も、どちらも既に亡くなっている夫婦が生と死の間で漂っているという話だ(そしてどちらも、順番は逆だが夫の死と妻の死の間には七年のズレがある)。ただ、「ぶるう…」は主人公とその妻の話だが、「ボルト…」は既に死んでいるダリ夫妻のところに主人公が一人で尋ねてゆくという外からの視線が入っている点は違う。そしてどちらも、夫の方が生へのより強い執着をもっていて、妻はそれを相対化する位置にいる。これはそのまま、この二つの連作が基本として「男性原理」(現実性への意志)と「女性原理」(潜在性への意志)というような二元論的対比によって組み立てられていることを示す。
 だがここで二元論は、物事を明確に切り分けて、世界観上に安定的に配置するような類の二元論ではない(「本来、男性は……」という類のものではない)。そうではなく、一を二へと分離し、また二を一へと接合するという、分離し接合する果てしない動きを制御する基本単位としての二元論なのだ。
 特に『ポルト…』の連作において、刻々と位置を換え、分離し重なり合う二元論の錯綜は、小説に描かれるめくるめくイメージの奔流によって覆い隠されがちだとはいえ、それこそが読まれるべきものであるように思われるほど重要だと思われる。

 まず、連作『ポルト…』三作における男女二元論の推移を、登場人物の役割だけに注目してざっとみてゆく。一作目(「ポルト・リガトの館」)では、男‐画家(表現)/女‐ミューズ(霊感)というペアであった二元論的配置は、二作目(「パンタナールへの道」)において、男‐アートディレクター(管理)/女‐イラストレーター(表現)という形に変化する。どちらも男性が主体的で女性が客体的という傾向は変わらないものの、後者では、女性が能動的な表現を担い、それを男性が受動的に受け止める(「管理する」ともいえるが)、という形の逆転が示されてもいる。そして、二作目のラストではアートディレクター(男)がペアから脱落し、男‐カメラマン(視線)/女‐モデル(対象)という新しいペアが(彼岸に)あらわれ、女が再び、能動‐表現の位置から受動‐対象の位置へ移動する。三作目(「スリナガルの蛇」)においては、男の位置に、一、二作目より身体性を濃くした形で彫刻家(画家より肉体労働度が高い)がつき、一方、女の位置には、両性原理の統合としてゲイのカメラマンがつくことになる(男/女(≒男+女)という対比)。ここで、たまたまゲイというセクシャリティをもつ存在を、女性的、あるいは「男+女」的だと見ることに対する批判があることは承知の上で、「この小説上」では、そのような役割となっているということで話をすすめたい。
 男‐彫刻家に対する女(+男)‐カメラマンという属性は、作品制作時の身体性の度合いの低さの表現でもあり、実際、官能主義的な彫刻家と精神主義的なカメラマンのペアとして描き分けられているから、男(肉体)/女(精神)の対だともいえよう。しかし、二作目においては、アートディレクターである男が観念的で、イラストレーターの女の方が肉体的存在というニュアンスで描かれていたから逆転している(「精神」と「観念」とは異なるから、その対概念となる「肉体」の意味も変わってくるだろう)。さらに、二作目の男-カメラマンによる視線とは違って、三作目の女(+男)‐カメラマンは、特定のモデル-対象‐女への注目ではなく世界-風景を広く見る役割があるようだ。そして三作目には、男(実)/女(虚)というペアもみられ、実の存在である男は虚の存在である女によるレッスンで個的なエネルギーの高まりを得る。
 この連作における二元論的役割分担を、個々の場面のみで切り離してみるのならば、あからさまに紋切り型であり、安易で図式的に過ぎると感じることもあるし、フェミニカズム的に問題だという意見もあるだろうが、重要なのはそこではない。みてきたように、その時々の男性原理、女性原理にという二元論に固定的(本質論的)な内実や意味が込められているのではないのだ。そもそも「男性原理」「女性原理」などと言うことが間違っているのかもしれず、名や定義などどうでもよく、ただ、ものごとを二元論的に切り分け、その上でその内容を次々と入れ替えていくという働きこそが重要なのだ。物事の意味は常に二つに切り分けられて対置されるが、しかし、その切り分けの組成や境界はその都度編成し直され、二元論の担い手の役割や配置は移動しつづけている。内実ではなく、二元論という「切り分けの技法(切り分ける動き)」の方こそが重要であるようにみえる。
 つまりこの二元論は、『ゼーガペイン』におけるガルズオルム(実在論)的な全体性の表現(典型)としてのアビス(男性形)/シン(女性形)の対とも違うし、セレブラント(唯名論)的な個体性をもったペアであるキョウ(男性)/カミナギ(女性)の対とも異なる、より流動的で抽象的なものだと言える。意味の差異が対への分離を促すのではなく、何にしろ、何かを対へと分離させようとする力の動きが、事後的に意味の対を生んでいるかようなのだ。

6.横尾忠則の小説(「一」を「二マイナス一」としてみる二元論)
 ここで、連作『ポルト…』の二作目である「パンタナールへの道」について少し詳しくみてゆきたい。本作に『ぶるう…』、『ポルト…』両連作を貫く特徴が色濃く出ていると思われるからだ。「パンタナール…」は、湿原帯の中を走る褐色の一本道をバスが延々行くという小説だ。だが小説は、バスの窓から見える珍しい風景の描写ではなく、サンタナの『サンタナ/ローザス』のアルバムジャケットの強烈なイメージに導かれるようにはじまる。

観音開きの引き出しから飛び出した左右の翼には昼と夜が描かれていたわね。一方には天使に支えられて天空に昇天するキリスト、その下方には阿弥陀如来、地上にはマリアに受胎告知をする天使ガブリエル、その背後にはローズに染まった水平線上にビラミッド型のタントラのシンボルと天空に放射する虹色のビーム、もう片方の翼には星雲を背景に氷山の上でキリストを抱くマリア、さらに上半分にはアポロから見た地球の上空にマリアと幼いキリストが天使とチベットの仏に祝福を受けて(……)。
(「パンタナールへの道」)

 一応、昼と夜という二元論が採用されてはいるものの、それはイメージを秩序づけるというよりも逆に収集がつかないほどに拡散させる。それは、既にあるイメージを二つに分類するのではなく、今ある一に、別の一を無理やり関係づけてプラスしようとする増殖の技法(欲望)であるようにさえ思われる。「一」がいつも「二マイナス一」に見えてしまうから、そこに別の「一」を付け足さずにはいられない、というような場当たり的な二元論だ。
 「一」が「二マイナス一」として見えてしまうから、不在のもう一つがどこかから適当に召喚されて付け加えられる。その結果としていい加減な二元論が生じる。だとしたら、サンタナのジャケットが窓の外の風景を召喚したのか、または逆に、窓の外の風景がジャケットを召喚するのだろうか。実際、バスの窓の外で繰り広げられるきらびやかな風景の描写もまた、別の「既に見たことのある何か(人工物)」とセットとして描かれる。

まるでモネが『麦わら』の連作で多彩な色彩のバージョンを描いたみたいに、刻一刻と目の前の風景がカレードスコープのように変化するのだった。まだ夜は遠くで待機していた。この光の色彩のページェントはミレーの『晩鐘』を彷彿とさせるバルビゾン的風景に変容して(……)
(「パンタナールへの道」)
いつの間にか道の両端は灌木の茂みに囲まれていた。その茂みの表面に無数の小さい光がクリスマスのイルミネーションのように点滅している。見るともの凄い数のホタルが密集していた。
(「パンタナールへの道」)
漆黒の天頂を星屑がベッタリ塗りつぶして、まるでアンディ・ウォーホルのダイヤモンドダストを使った作品のシリーズを思わせた。人工的なプラネタリウムも及ばない大自然のプラネタリウムに体ごと吸い込まれていくような感覚に貴誉は襲われた。
(「パンタナールへの道」)

 風景を描写するための喩えというよりも、自然の風景に対置するペア・イメージとして常に人工物を置いてゆくようなイメージの提示であると言える。これは、現地に滝を見に行く時、同時にその滝のポストカードを手に入れなければ気が済まないという『天と地は相似形』というエッセイ集に書かれた横尾自身のエピソードを思い起こさせもする。
 このような対置はイメージの明滅(裏/表)という形でもあらわれる。熱帯の湿原のきらびやかなイメージの裏側には、≪ブラックホールの中に吸い込まれたみたい≫な≪純粋の闇≫があるのだし、ホテルの部屋の窓の外にひろがる≪今にも部屋の中に飛び込んできそうな無数の星が点滅しながら呼吸している≫という光景は、部屋の内の≪白い壁のあちこちに≫、≪シミのようにへばりついている≫多数の「蚊」たちというイメージに反転したりもする。
 これは描写だけに限ることではない。主人公の貴誉(男)の認識は、何度も現実から幻想へと連続的に移行し、その度に自身の死を覚悟(幻視)する。彼は、表にある現実(生)の風景のなかに、裏側に貼りつく幻想(死)の風景を見ているようである(これはもう一方の連作『ぶるうらんど』において、既に死んでいる者たちが死後の世界でこそ「生きている」という実感を強く得ることとも相補的だ)。
 対して、貴誉と対の存在である美伽(女)は、自分が生まれる場面の夢を見たということを貴誉に話す。死を幻視する男と、誕生を幻視する女。だがこのような二元論は、決して本質論ではないので逆転も置き換えもいくらでも可能なのだ。その証拠に、この小説のラストで、二人の運命はクロスすることになる。もし貴誉が生きているのだとすれば美伽か死んでおり、美伽が生きているとすれば貴誉は死んでいる。世界が二つの異なる可能性に分離したかのようにして小説は終わる。二元論の内実はクロスして置き換えられる。
 確かに、『ぶるう…』と『ポルト…』を構成する七篇のうち六編は主人公が男性である。なので、これらの作品の視点(主体)は「男性原理/女性原理」で言えば男性原理の側にあるかのように思われるかもしれない。よくあるように、男と、それ以外(≒女)という二元論だ、と。
 しかし今までみてきたように、これらの二元論においては、既にあるものが二元的な役割に割り振られるというより、ある一つに対して、それにクロスする別のもう一つが(適当に)後から付け加えられるという形で構成されている。自然の風景があれば、それに人工物が対置される。あるいは、まず消滅に向かう『ぶるう…』が書かれたことにより、それに対して個の充填に向かう『ポルト…』が書かれる、という風に。つまり、男性/女性、虚構/現実という二元論の、どちらか一方に足場があるのではなく、どちらか一方があればとにかくペアとなる他方が探られ、それはいくらでも位置や内容や重点を交換可能であり、限りなく増殖していく二元論である。つまり、「クロスする(交差的に付加される)」という出来事を可能にする、二元論の中間にある第三項の原理こそが足場(主体)となっていると考えられる。

7.世界観と「わたし」の生成
 横尾忠則の小説はあきらかに二元論的な世界なのだが、しかし、それは二元論が世界観として採用されているということとは違う。これが今までにみてきたことだと言える。しかしそれはどういうことなのか。
 世界観とは何か。それは、「わたし」が、どのような構造をもつ世界のなかにいて、その世界のなかでどのような位置にあり、その世界に対してどのような手続きをすれば働きかけが可能なのかという(意識されたものであれ意識下のものであれ)地図や見取り図が成立しているという事であろう。
 世界観とは、「わたし」と「世界」との関係がわたしにおいて地図として織り込まれているということであり、だからそれは(わたしがそれを恣意的に動かすことは出来ないとしても)「わたし」の内部にある。勿論それは、「わたし」だけのものではなく、例えば、言語、法、社会、物語、思想信条、信仰、階級、ハビトゥス等という、共同性をもつものとして他者たちと共有されている。世界観はわたしのなかにあるが、同時に、わたしは世界観のなかのどこかに位置するものであるという入れ子状態にある。例えば本稿で『ゼーガペイン』の世界観=設定と書くとき、それは『ゼーガペイン』という作品内のあらゆる人物や出来事の成立を支えている約束事としての世界地図(配置図)であった。
 しかし、本稿で検討した『ゼーガペイン』の世界観は作品が完結した時点から組み立てられたものだ。だが実は、この作品を最初から順番に観てゆくという「作品経験」は、世界観が何度もひっくり返されるという過程を経ることになる。主人公のキョウは(そして観客も)、彼がデータ化された存在であることも、人類が既に滅亡していることも、彼が過去に戦士だったことがあること(それを忘れていること)も、事前には知らない。それらを知る過程が物語の進行であり、それはたんに今ある世界に未知の情報が付け加えられるのではなく、仕掛けられた謎が一つずつ開示されるというのでもなく、一つ新しく知る度に世界の土台がひっくり返る(世界観の基礎が崩れて編成し直される)という出来事として到来するのだ。
 『ゼーガペイン』の前半は、数話に一度の割合で世界観のどんでん返しが起こる展開となっている。そしてそのようにして土台が切り崩されることで浮上するのが、世界観には回収されない「わたしというパースペクティブの生成」という動きであり、その現場であり、「わたし」という基盤の根拠の無さなのだ。
 「わたし」という存在が、他でもない唯一の存在として、いま、ここという時空構造と一体となって成立しているという出来事。わたしはふと気づくと、ある時とつぜん「わたし」としてこの世界の内部(ここ)にいた。わたしは、多数のあなたたちと同類(人間)であるとともに、あなたとは別の存在(別人)であるようななにものかとして、「いま」という時間内での限定された点、「ここ」という空間内での限定された点に、ある程度自律的に(「そこ」にいる「あなた」とは別ものとして)存在している。「わたし」と「いま」と「ここ」とが切り離すことの出来ない渾然一体となった構造として、「わたし」が存在している。なぜそんなことが起きているのかは謎だが、とにかく気づいた時には既に世界のなかに「わたし」がいた。
 このような「わたし」が成立しているということそのもの(わたしの構成)は、わたしの外側で起こっている出来事であり、つまり「わたし」が「ある」のか「ない」のかは、「わたし以前」の問題であるのだ。
 「このわたし」と不可分でありながら「わたし」の外側の出来事である「わたしというパースペクティブの生成(成立)」は、わたしという場において(わたしと世界との関係において)、わたしの内部で構成されるもの(地図)としての世界観とは、その存在のレベルがそもそも異なる(そもそも、「わたしの生成」がなければ「世界観=わたしにとっての世界の地図」は成立しないので、世界観とは「わたしの生成」を暗黙の前提---地---として成立している)。
 しかし、世界観が正常に作動している時、「わたしの生成(成立)」という出来事そのもの働きは、特に意識されることなく世界観の背後に隠れ、潜在的に声もなく作動している。「わたしが成立していること」は謎ではなく、世界がどうなっているのかが謎なのだ。しかし、世界観が破綻した時にのみ、背後にあった「わたしの生成(成立)」という出来事が「謎」として顕わになる。
 『ゼーガペイン』の繰り返されるどんでん返しは、このような沈黙の働きを浮上させるものだ。『ゼーガペイン』とは「是我pain(痛み)」という意味であるということだが、ここで肯定される「痛み」とは、「わたしの痛み」ではなく、わたし以前にある痛み、「わたしの生成」が揺らぐという痛みなのだ。あるいは、非人称的な何かが「わたし化する」という出来事の「痛み」であり、「わたし化された何か」が非人称化されていく時の「痛み」のことなのだ。それは、普遍でも個物でもなく、普遍を個物化し、個物を普遍化する、二元論が成立するための基盤としての、二元的なものをクロスさせる第三項にある「痛み」だ。
 横尾忠則における二元論も同様に、世界観として重要なのではなく、二元論が生成それる場で働く原理としての第三項こそが重要であり、その効果として生じる二元論なのだと言える。めくるめく奔流するイメージは、イメージそれ自体、あるいはイメージの位置や配置そのものが重要であるのではなく(それは果てしなく、とりとめもなく姿を変えつづけるだろう)、その生成を支えるある種の抽象的な力が働く第三の場、あるいはその働きが生起しているこそが重要なのだ。
 横尾忠則の作品を観ることはおそらく、このような力の在り処を感知しようとすることだろう。そして『ゼーガペイン』のキョウが、そしてセレブラントたちが固執する身体=現実とは実は、物質としての、一度だけの死をもつ「この身体」という場のことではなく、そのような世界観=世界の背後で働いている(「このわたしの身体」の成立の前にある)、この世界の目に見えない生成の原理であり、いわば現実(設定=世界観の正常な作動)の下に隠れている見えない冥界の身体(メビウスの帯の捻じれ)のことなのだ。
 それは、二元論のどちらか一方にあるのではなく、二元論そのもの(結果として二元論にみえる何ものか)を出現させる力として、二つのものに先立つ、「わたし」でも「わたしではないもの」でもない、第三の項としてある身体としての冥界/冥界としての身体のことなのだ。

8.結び(ふたたびメビウスの帯)
 実は、幻想も現実も共に世界観というレベルでは別のものではなく、同じものの連続的な裏返しでしかなかった。メビウスの帯のある特定の場所にペンを突き刺すと、そこには確かに裏表があった。そのどちらか一方が現実であれば他方は幻想であろう。あるいは、一方が男性原理であれば他方は女性原理であろう。しかしメビウスの帯全体をみれば、それは地続きであり裏表はない。虚と実、男性原理と女性原理という二元論は、ペンを突き刺すという行為によって、たまたま刺されたペンのその周辺でのみ成立するこ仮象のようなものだ。
突き刺す場所によって、二元論はその都度、内実や配置を変化させ、その都度、様々な異なるイメージを対立により併置し、とりとめもなくペアを産出するだろう。
 突き刺すことで生じたメビウスの帯の穴に、ハサミの刃を差し入れ、縁に並行に帯を切り分けてみよう。そのとき、二つに分離されたメビウスの帯ではなく、一つにつながった、七二〇度のねじれをもつ細長い(裏表のある)帯が出現する。その切断線は、メビウス帯そのものの構造を、実の場所(帯)から、不可視の虚の場所に移動させる。メビウスの帯は真ん中から切断しても二つの帯にはならず、ねじれが深まった裏表の二元論へと生まれ変わる。
 そのようなハサミによる虚の切断線こそが、もともと連続的(循環的)であった現実と冥界とを、実在論と唯名論とを、わたし以前のわたしの成立と既に作動している「わたし」とを、裏表として分離させる、媒介としての虚の第三項であろうか。しかし切断線は、それを再び繋ぎ合わせればまたメビウスの帯となり、裏表は繋がるのだから、それは両者を縫い合わせる媒介でもあるだろう。裏表のある輪から裏表を消してしまう「捻じれ」と、裏表のないメビウスの帯に裏表を発生させる「切れ目」。この、表裏一体でもある「ねじれ」と「切れ目」との背中合わせが、冥界の身体、冥界の現実であり、二元論を生産する、二元論そのものよりもずっと重要な何かなのだ。
(了)

初出 「ユリイカ」2012年11月号 (特集・横尾忠則)

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