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マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析(3)

古谷利裕

 マティスの絵(Pink Nude 1935)の生成過程で何が起こっているのかを、四回に分けて、一枚一枚の変化について考えてみる。第三回。ただし、写真はモノクロなので、色の変化があまり分からないという致命的な欠陥があるのだけど。
 画像は『MATISSE A RETROSPECTIVE』(Edited by Jack Flam)より、スキャンしました。
(この記事は、「偽日記@はてなブログ」2018年4月18日からの転載です。)
https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180418

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9枚目(State 14)

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 前の段階(State 12)では体のなかに埋まっていたような頭部(顔)が、適切な位置に移動される。とはいえ、首がこんなに垂直に立っていて、かつ正面を向いているというのは人体の構造上かなり無理がある(ただ、顔の正面性はこの絵においてとても重要な要素だろう)。
 顔の立ち上がりに対して、右の乳房が適切な位置に移動される。顔の描き込みは、最初の「State 1」の写実されたような自然な表情から、目鼻立ちのくっきりした堅い表情の彫刻のような顔つきに変化する。

 前の段階でずん胴だった体型に、胴の部分にくびれがもたらされるが、体全体(体の軸)の方向としては水平的であることが保たれていて、当初の、上半身の方へと体重がかけられている状態は破棄されたと分かる。
 「State 8」の段階からフレームを大きくはみ出ていた左腕が、フレーム内に収められる。フレーム内へと収納された左腕のフォルムもまた、体の軸の水平性と共働したものだろう。そしてこの左腕は役割として、マット(地面)との関係で体の重さを支えているというより、フレームとの関係で体(重さ)を支える機能を担っている。
 右脚の折り曲げの角度が緩められ、結果として、左の脇の下、尻、右脚とフレームの交差する地点という三点が、ほぼ水平に横並びになる。全体として、前の段階で示された方針(水平性---人体の軸---と、垂直性--頭部と右腕の立ち上がり----の交差による、画面の制御)に基づいて、様々な細部が調整されているという感じ。

 そして、人体の軸の水平化と同期するように、背景のフィールドの格子模様が、垂直と水平に描き直されている。人体の後ろにある、花と花瓶、それが置かれたイスの背凭れは、対象性をほとんど失って抽象化されている。つまり、この画面で対象性を保っているのは、人体だけという感じになっている。

十枚目(State 15)

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 この段階での、前の段階に対する大きな変化は、ほぼ垂直に立っていた頭部(顔)が、やや傾けられたことと、それに対応するように、人体の軸が、水平だった状態から、やや下半身に重心(重さ)がかかった状態へと変化していることだろう。
 きりっとした形で引き締められていた胴から腰、尻のフォルムが、洋ナシのようになめらかな形になって尻の重さを感じさせ、かつ、腰の角度が少しだけ画面側の方向に開くように変化していることで、腰から尻のあたりの重さが強調されている。
(最初、上半身の方へ重さがかかる状態としてはじめられたこの絵は、途中---「State 12」---で軸が水平になり、ここに至ってとうとう逆転して、下半身に重心がかかるようになった。)

 ただ、どちらかというと重心が下半身より、ということで、頭部の傾きにより、上半身(頭部、肩、胸のあたり)の重さも感じさせるようになっている。つまり、「State 12」で極端に変更された方針が、ここではまた、やや後退して、少しだけ元の方向へと戻ろうとしている感じ(方針の揺れ戻し)がみてとれる。
 人物の背後のイスの背凭れは、完全に抽象的な装飾模様と化している。

十一枚目(State 16)

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 ここではまた、(「State 11」以来に)人体の「捻じれ」が復活している。抑圧されては、何度も回帰する「捻じれ」。
 腰の角度が、また画面奥の方へ倒れる方向に変更されて、それと逆向きの「捩じる」力として、左腕がフレームの外に飛び出るくらい開いている。ただ、以前の「State 11」と決定的に違うのは、(少しだけ下半身の方への重心の傾きがあるものの)人体の軸の水平性をほぼ保ったままで、「捻じれ」を導入しようとしているところだろう。
 頭部(顔)の角度がまた、少し立ち上がっているのも、水平性、垂直性による制御と、人体の「捻じれ」とを共存させるための、画面全体としての力の配分の調整によるものだろう。

 人体の洋ナシのような滑らかな形は廃棄され、また、引き締めのあるフォルムに戻されている。ここらあたりの段階では、様々な方針の行き戻り(揺れ)がみられるが、それでも、基本方針として「水平性と垂直性による画面の制御」という方向性はほぼ定まっていて、その絞られた方針のなかで、様々な可能性や力のバランスの調整が試されて(試行錯誤がなされて)いるという感じだ。

十二枚目(State 17)

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 ここまでの展開のなかで、画面に描き込まれた様々なものの対象性が次第に失われ、抽象化していったものの、人体だけはずっと一貫して、生々しい表情を失わずに来たのだけど(その生々しさのあり様は、様々に変化したけど)、ここでは、人体もまた、背景の格子模様に引っ張られるように、生々しいニュアンスを欠いた、パキバキッとした線と、記号的というか抽象的なフォルムに還元されている。
 それによって得られている最も大きな利得は、水平性と垂直性による画面の統御と、人体の「捻じれ」との共存だろう。つまりここでマティスは、人体の表情の生々しさと引き換えに、「捻じれ」の導入を狙っていると考えられる。

 右腕は垂直に立ち上がり、左腕の肘の部分は直角に降り曲がり、左脚も垂直により近い角度で立ち上がって、背中のラインもほぼ水平な直線に近いものになっている。これにより、「捩じれ」と水平、垂直性が馴染み合う。右脚のつくる角度も、まったくの水平ではないものの、背中のラインと連続的にみえるようになっていることで、背中のラインの水平性を強調している。顔はのっぺらぼうの卵型になり、乳房は二つとも単調な半円の反復になっている。
 このような人体の幾何学化(生々しい肉感の後退と、幾何学的形態への接近)により、背景の平面的フィールドや格子模様との親和性が強くなり、画面の統一感が増している。
 ただ、ここで人体の「捻じれ」は、滑らかに方向が変化する捻じれから、パキバキッと折り曲げるような堅い感じの捻じれに変化している。とはいえ、人体の幾何学化によって、確かに画面の完成度は増しているように感じられる。
 イスの背凭れだけでなく、花瓶の花も、ここでは対象性を完全に無くし、大きなフキダシのような感じのものになっている。

 水平性と垂直性による画面の制御は、背景の格子模様とだけでなく、絵画のフレームの形そのものとも、うまく響き合う。

マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析(4)、へつづく。

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