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マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析(4)

古谷利裕

 マティスの絵(Pink Nude 1935)の生成過程で何が起こっているのかを、四回に分けて、一枚一枚の変化について考えてみる。第四回の完結編。ただし、写真はモノクロなので、色の変化があまり分からないという致命的な欠陥があるのだけど。
 画像は『MATISSE A RETROSPECTIVE』(Edited by Jack Flam)より、スキャンしました。
(この記事は、「偽日記@はてなブログ」2018年4月19日からの転載です。)
https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20180419

十三枚目(State 18)

 前の段階で、パキバキッとした線とやや記号化された形にすることで、水平、垂直性的な制御と「捻じれ」との折り合いをある程度をつけることの出来た(上手く収まる感じになった)人体に、今度はまた、可能な範囲でやわらかくなまなましい感触(描写性)を付与しようという試みがなされていると思われる。
 ほぼ直線に近づけられた背中のラインに複雑な変化が見られるようになり、ざっくりとした線が引かれていたお腹のラインにも、より緊張感のあるフォルムが探られている。それによりパキッと折られたような「捻じれ」に、また滑らかさが戻っている。

 胴の部分の輪郭的なラインは複雑になったが、それに対して、右脚の伸びる方向がほぼ水平に変化することによって、胸元から(フレームの外にあって予測される)右脚のひざまでがまっすぐにつながるようになり、身体の軸の水平性は増している。さらに、垂直的に立ち上がる左脚の形がシャープになり、かつ、左ひざの先が尖った形になることで、垂直的な方向への動きもより強調されている。
 人体のなまなましさと、水平、垂直性による制御との折り合いはある程度ついているように思われるが、しかし、「捻じれ」の滑らかさが戻ってくると、今度は背景の平面性との折り合いが難しくなってくるように思われる。

 おそらく、身体のなまなましさを取り戻す方向の一つとして、あまりにもそっけなくノッペラボウだった顔に表情が描きいれられる。当初の、写生的で自然な表情とも違い、途中であった彫刻的な堅い表情とも違う、無表情に近いのだが独特の表情のある不思議な顔になっている。

十四枚目(State 20)

 ここは、肉感的ななまなましさをもち、滑らかな「捻じれ」をもつ人体と、背景の平面性との折り合いをなんとかつけようと---部分、部分で---色々と試みているうちに、人体のもつ、「一つの身体」としての連続性や統合性が少し緩んでしまった、という段階であるように見える。
 この人体の分裂を、(人体の部分だけを見れば)それ自体で面白いと見ることもできるが、水平性の軸はかなりあいまいになり、ゴムでできた身体のように見えるようになってしまっているとも言える(それを感じさせる最も大きな理由は、頭部と首の傾きの中途半端さだろうか)。

 それにより、(この絵を統合しているのはやはり「人体」であるので)画面全体での絵としての統合性はかなり緩んできていて、このまま進んでいくと破綻してしまう(背景と人体とが乖離してしまう)かもしれない、けっこう危険な状態に陥っていると思われる。
 たとえば、人体の軸の水平性が曖昧になってたいるだけでなく、右手や左脚のつくる垂直性も弱まってしまっている。

(人体と背景との折り合いを、部分部分でつけようとする試みが、全体としての人体と背景との関係を壊しかねない状態を招いてしまっているように思われる。)

十五枚目(State 21)

 前段階の危険性を受けて、ここではまた、大胆な軌道修正(飛躍)が行われている。人体の軸の水平性が、画面のほぼ真ん中を左右に貫くような形で、とても強く強調される。一方、右手や左脚のつくる垂直性はややマイルドに抑えられていることで、人体的なやわらかさ、有機的的な感じも失っていない。
 しかし、左腕の輪郭線がほぼフレームと縦と一致するなどして、左腕のつくる垂直性は強調されているので、人体の垂直性は全体としては保たれている。

 前の段階ではうねうねとしていた線によって描かれていた人体が、ここでは、思い切りのよいきっぱりした線によって形づくられた、きっぱりしたフォルムに置き換えられている。中途半端な首の傾きも修正されていて、あまり良いと思えなかった顔の表情も消され、人体からぐにゃぐにゃした感じは完全に払しょくされた。
 きっぱりとした線による単純化されたフォルムではあるが、「State 17」の時のようなパキバキッとした線ではなく、やわらかさと弾力性をもった線で人体が捉えられている。人体の後ろにある、イスの背凭れや花もまた、ここで改めて捉えなおされている。

 なによりここで、画面の中心に人体の軸の水平性がきっぱりと明確に通されることで、画面全体に活気が生まれ、そして、背景の平面性や格子模様との関係も、たんに折り合いがついているというだけでなく、互いに協働し合う相乗的な関係が発生しているように見える。この修正により、一挙に完成が見えたのではないかと思われる。というか、ぼくには、完成されたバージョンよりも、この段階の方が良いように感じられる。

 ここでは、平面化され、対象性もほとんど失って抽象化した背景と、ある程度平面化され、単純化されながらも、対象のリアルな生々しさや肉感性、立体感というよりは「ふくらみ」の感覚などを失っていない人体とが、画面のフレームそのものも巻き込んだ、水平性と垂直性による統合原理によって共存が可能になり、それもただ共存しているだけでなく、二つの異質なものが、互いに相手を活気づけ合っている状態が生まれているように思われる。

(ただし、このきっぱりした水平性の導入によって、人体の「捻じれ」は放棄されることになる。あるいは、「捻じれ」の感覚は、立ち上がる頭部とその正面性、右腕、左腕の---人体の構造上ではありえない---関係によって、胸より上の部分でのみ表現されている、とは言える。)

十六枚目(State 22) definitive

 この完成した状態で、前の段階から最も大きく変化しているところは、(顔が描き入れられたという以上に)背中から尻、右脚の下の線の連なりのつくる、下に向かってずり落ちていくような形態であろう。そして、この形態がこの絵に与えているものは、まさに「ずり落ちる」ような人体の肉の重さであり、重力の作用であろう。
 おそらく、この「重さ」の獲得によって(背景の平面性と、全体の水平、垂直の原理と、重力との共存の達成によって)、マティスはこの絵を完成としたのではないかと推測する。
 お腹のラインも、背中に引っ張られるように、すこしだけ沈んでいる(その反作用として左肩のラインがやや上向きに彎曲している)、この微妙な表情がより繊細に重力を感じさせる。

 背中のラインが、水平、垂直性の原理とは異なる動き(重力による沈み込み)を形作っている分、それ以外のところでは、前の段階よりもより水平、垂直性が(特に垂直性が)強調されている。左脚はより垂直に立ち上がり、腹から右脚がつくる水平線と十字にクロスしているし、右腕の立ち上がりも頭部(顔)の傾きも、前の段階に比べて垂直性が増している。

 顔の部分に、考えられる限り最も「そっけない」感じで表情が描きこまれているが、これは、顔が画面の方を向いているという正面性を強調するためだけに描かれていると思われる。
 頭部と首の立ち上がる角度は、前の段階と比べてもさらにいっそう、構造上であり得ない角度になっている(しかも顔は画面に対し真正面に向いている)が、この、頭部(顔)のあり得ない角度と正面性が、右腕、左腕のポーズとの間につくる関係によって、(自然に人体を描こうとすると「捻じれ」は「腰」のあたりに現われるのだが)人体のどこも「捩じれていない」にも関わらず、人体全体をみると、あたかも「捻じれ」の動きがあるように感じられる、という状態を生じさせているように感じられる。

 つまりこの完成した段階でマティスは、(1)格子模様によるフレームへの強い意識を感じさせる、抽象化された平面的な色面のフィールドのなかに、(2)なまなましい肉感性とふくらみをもった人体と、(3)その肉のもつ重み(重力)の感覚を調和的に共存させ、かつ、(4)平面的なフィールドのなかに、人体のなめらかな「捻じれ」の動きさえも可能にするということを達成した。
 三次元的な出来事である「捻じれ」を、きわめて平面性の高い状態で生じさせることに成功したと言えるのではないか。

(了)

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