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書かれたものと書かせたもの / 青木淳悟論 (3)「ふるさと以外のことは知らない」

古谷利裕


4.「ふるさと以外のことは知らない」


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 「ふるさと以外のことは知らない」が、青木のそれ以前の小説と最もことなっているところは、そこでは物語上での「現在」がとうとうほぼ完全に消失してしまったという点であろう。 確かに、この作家においては、最初から「現在」は明確な位置を確定できない。この論考の冒頭でも触れた通り、「四十日と四十夜のメルヘン」にいきなり書きつけられる 《今日》が、一体、物語上の時間の流れのなかのどの点に位置するのかは明確ではない。しかし、「四十日と四十夜のメルヘン」では、記述の上で時系列がいかに混乱しているとはいえ、日記が書き始められる日から、主人公が上井草とともに都営住宅を後にする終幕までの時間の進行があり、それぞれの位置での「現在」を想定し得る(想定し得ると思うからこそ混乱する)。「クレーターのほとりで」でも、時間は過去から未来へ向かって流れているし、「いい子は家で」でも、物語の時間と記述の順番とはほぼ重なっていて、父親の変身は、孝裕の変身よりも後に起こっていると言ってよいだろう。

 勿論、「語り」という次元で厳密に考えるのならば、小説の「現在」がどこにあるのかは常にあやしい。話者が語っている時間こそが「現在」であるとすれば、(「クレーターのほとりで」で歌われる歌の内容が、常に過去の出来事であるように)物語内容は常に過去の出来事であり、語りの現在と物語の現在とは決して重ならないだろう。あるいは、読者が、今、読んでいる部分こそが「現在」であるとすれば、小説は常に、読みつつある現在が推移して行くだけだ、ということになろう。それでも読者は、小説を読みつつ、今、自分がそこで語られている物語の時間の線的な流れのなかでどの場所にいるのかを想定しつつ読むことが出来る。つまりここで「現在」とは、読者が今まで読み終えたところまでで、物語上での最も新しい時間(未来に接している時間)のことだと言えるだろう。このような「現在」が想定出来るからこそ、例えば、この場面は回想である、ということが理解できる。ごく一般的な小説技法にのっとれば、冒頭で印象的な場面が現前的に(現在として) 示され、そこからその場面なり小説の設定なりの説明(つまり過去)へと遡ってゆき、それが再び現在へ戻って来る、 というような時間の操作が安定してあり、読者がその操作を理解出来るのである限り、物語上での「現在」が想定さ れていることになる。

 では、「ふるさと以外のことは知らない」に「現在」がないというのはどういうことなのだろうか。言葉としてある小説は、書き出しがあり、それに続く部分があり、終わりがある、という風に、時間的に、線的に連なっている。 つまり必然的に時間的展開を必要とするはずの小説において物語としての時間的展開をどのようにして消すことが出来るのだろうか。それを可能にするのが、この小説が主に 「家」という空間を軸に記述を組み立てているということによるだろう。

 例えば、玄関という場所について書かれる時、そこは、毎朝家族が外へと出かけてゆく場所であり、家の内側と外側とを隔てる境界であり、そこには下駄箱があり、靴があり、スリッパがある。それらは玄関という空間を構成する要素であり、全ての要素は玄関において「同時」にある。今、家族の誰かが外へ出かけたり、帰って来たりしてはいなくても(玄関に誰もいなくても)、そこは常に、家族がそこから家を出て行く場所であり、家へと入って来る場所でありつづけている。今、靴が脱ぎ散らかしてなかったとしても、そこが、いつも靴が脱ぎ散らかされる場所であることにかわりはない。玄関という場所は、その家が建っていて、そこに人が住んでいるかぎりにおいて、それらの全ての時間を常に同時に含み持っている。だから、玄関という空間を軸に、その家に住む家族の姿が記述される時、物語として一直線に進む時間の秩序は必ずしも必要ではなくなる。そしてさらに言えば、物語としての 「現在」が消失することによって、「読むことの現在(読ん でいる時間)」が逆に際立つ。

 ただし、この小説で、物語上の現在がほぼ完全に消失しているという時の「ほぼ」という保留を忘れてはならないだろう。この小説においても「現在」が今にも立ち上がろうとする瞬間は何ヶ所かあり、それがとてもスリリングな のだ。

今朝は布団を上げた後、朝のうちに洗濯物を干しにきて、しばらくして鏡台の前で念入りに化粧を施す姿が見られた。母親は午前中から外出するつもりらしい。

ふるさと以外のことは知らない

 ここで唐突に《今朝は》などと書き付けられるものの、 この《今朝》がいつなのか一向に分らない。しかし、《今朝》というからには、ここからようやく(小説が始まって十六ページ半以上経っている)物語上の「現在」が始まるのかとも思うのだが、「現在」を感じさせるのはこの部分のみで、段落がかわると、「母親が午前中から出かけること」についての、一般的な説明のような記述にかわってしまう。つまり、今日の外出のことではなく、外出する時はいつもこうだ、という話にズレてゆく。

 そして、いつ「現在」に戻ってくるのかと思って読んでいると、話は、家を留守にする時の鍵の管理の話に移ってゆき、それはいつの間にか家の立地の話になり、母親の「今日の外出」は立ち消えになってしまう。青木淳悟の小説において、一度提示された話題が、宙づりのままで着地することなく、別の話題に移っていってしまうのはいつものことだが、ここではたんに話題ではなく、立ち上がりかけた「現在」が、その萌芽だけをみせて、その都度すぐに立ち消えになってしまうのだ。

 つまりこの小説では、空間を軸にすることで、様々な時間が同時に存在し、その記述は一般的、習慣的なもの(いつもこのようである、あるいは、このようなこともあれば、あのようなこともある)に傾きがちで、それは取り扱い説明書のような紋切り型の言葉をも積極的に小説内に招き入れるのだが、そのなかでふいに、現前的な場面がむくっと立ち上がったりする。しかしその現前性は、未来へ向かう現在のような線的な秩序の持続性へと発展することなく、すぐに一般的、習慣的なもの(過去一般)へと、波が水面に戻ってゆくように、沈み込んでゆく。

 ただし、この小説においては、あらゆる過去が同等に扱われているというわけでもない。少なくとも、「現在」この家には父と母と次男の三人が住んでいて、既に長男は独立している。そして、将来は父と母の二人きりになるだろうと予想されている。つまり、四人で住んでいた過去と、 二人で住むであろう未来とに挟まれた、大きな幅をもった 「現在」が想定されている。ただしこの現在は、今、母親が洗濯をしている、今、父親が玄関から出動しようとしている、というような、現前的な現在という像を結ばず(結んでも一瞬でほどけ)、母が洗濯する時はいつもこうだ、 父が出勤するときにはこんなこともあった、というような 一般性のなかに溶解してしまうのだ。つまりここでは、新たな出来事、予想出来ない、驚くべき出来事が起こるよう な未来への接点としての「現在」はなく、現在でさえも既に先取りされ、記憶のなかから想起されるような性質をもつ。

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 ところで、先ほどの引用部分でとても気になる点がある。それは、《洗濯物を干しにきて》、《化粧を施す姿が見られた》、《外出するつもりらしい≫のような、話者の存在を強く想起させるような言葉だ。ここで母親は、家族が全て出かけた後、家のなかで一人で居る。だから、この母親の姿は誰にも見られていないはずなのだ。しかしここでは、一般的な三人称の話者が場面を世界の外側から見ているような記述ではなく、話者は実際に家のなかに存在しているかのようだ。母親の行動を見ている家族によって書かれたかのようですらある。このように、家に一人でいる母親の行動を、とても近い位置から(家族的な視線で)みている者がいるかのようなこの記述は、あきらかに異様なものだと感じられる。あるいは、この家族の次男が運転免許 を取得したという話の流れででてくる次のような記述。

免許取得当初、よく母親が次男の運転する車で買いものへ行っていたのを思い出す。ある日、めずらしく親子が連れ立って家を出ていったようだが、と思えば家の前まで車がバックで入ってきて、食料品とスーパーの浄水器から詰めてきたという水入りのタンクが家に運びこまれた。

ふるさと以外のことは知らない

 一体、ここで思い出しているのは誰なのか。それが母親でも次男でもないのは、それにつづく部分から明らかだろう。親子が連れ立って出かけるのを見ていた発話の主体は、出かけた《と思えば》とまで書いて自己の実在を主張している。明らかにニュートラルな話者とは言えないこの存在が、家のなかから二人の様子をみているのだ。ここで、「家」が見ているのだ、とすれば分かりやすいのだが、 この小説全体を読んでいる限り、「家」はあくまで記述の対象であって決して記述の主体ではありえない。

 この小説を注意深く読んでゆくならば、この家には三人の家族以外に、幽霊が住み着いていることが読み取れるだろう。幽霊とは、今では互いに敬遠しあっているが、かつては仲が良かった兄と弟の、子供の頃の姿をしている。家を出て独立している兄の様子が家族には把握できないという話の流れのなかで、兄の幽霊は、次のようにしてあらわ れる。

その後の太郎はいまごろどうしているだろうかと、次郎ならきっと思っているはずだ。兄の太郎でさえそうにちがいない。たとえ小学校の作文の時間に「将来なりたいもの」を書かされていたとしても、家を出たその後の自分の境遇まではわからないのである。なぜなら太郎という子どもはまだこの家のなかに留まっているのだから。太郎は十三歳になる年の四月はじめ、地元の公立中学の正門前で、そこを入るブレザー姿の自分の背中を見送って家に帰ってきたのだという。五つちがいの次郎はそのころようやく七、八歳になったところだった。

ふるさと以外のことは知らない

 引用部分での最初の文で示される太郎と、二つ目の文の 「太郎」とは分裂している。二つめの文の「太郎」は、現在は家を出て独立している太郎ではなく、今でも家にいつづけている「太郎」なのだ。中学の正門の前で、自分自身の後ろ姿を見送って家に帰ってきてしまったのだという「太郎」と太郎の分裂は、「いい子は家で」における孝裕の変身の場面を思い出させるだろう。この時から、子供時代 の「太郎」の幽霊はこの家に住み続けている。だが、ここで描かれているのは太郎の分裂のみであって、次郎の分裂はない。つまり幽霊は一人だけということなのだろうか。 引用部分の少し後に《こうして鍵穴から家庭内の様子をうかがったところ四人家族であることがわかった》と書かれていることを考えれば、それが正しいようにも思われる。 しかしそれでは、母と次男の買い物を思い出したり、一人でいる母を見ていたり、家族を鍵穴から覗いていたりする 視点がどこにあるのかは明らかにされない。太郎の幽霊でさえ も鍵穴から覗かれているのだから。

 どうやら次男の幽霊も存在するかのような書き方もされている。例えば、互いの部屋に自由に行き来していた仲の良かった兄弟だが、兄が中学生になると、兄の部屋が鍵によって閉ざされるようになる、というくだり。兄からの拒絶に、兄の部屋の前で泣いていた弟は、鍵のかかっている兄の部屋ではなく、自分(弟)の部屋から兄の手がのびてきて、自室に導かれる。兄の手に導かれて自室に入った弟は、自らの部屋のドアも閉じる。この部分の記述は非常に複雑なものだ。

それもわからないまま泣く次郎は突然ぐいと横から手を引かれたのでよろめきながら自室に入りこんだ。手を引いたのはなみだ目で見てもすぐに兄の太郎だとわかった。次郎はなみだをぬぐったその腕で今度は自室のドアを閉め、隣室の音楽とそしてやまない泣き声とを遮断したのだという。それから以後はドアではなく間仕切り壁 を通り抜けて太郎と次郎の兄弟は互いの部屋を行き来しているということだった。

ふるさと以外のことは知らない

 ここで、次郎の手を引いたのは、実在する太郎ではなく幽霊と化した「太郎」であることは間違いないだろう。し かし、手を引かれて自室に入り、自室のドアを閉じた次郎は、そのドアの外に、隣室で兄がかけている音楽だけでなく、廊下で泣いている自身の泣き声も同時に聞いている。 つまりここで次郎も分裂しているのだが、では、実在する次郎は、兄に手を引かれて自室に入った方なのか、それとも、廊下で泣いている方なのだろうか。この悲痛な場面で描かれているのは、おそらく仲の良かった兄と弟の永遠の断絶とでも言うべき事柄なのだろう。だとすれば、《ドアではなく間仕切り壁を通り抜けて》行き来している太郎と次郎は、共に記憶であり幽霊であると考えてよいのだろうか。

 しかし、幽霊である兄の手に引かれて自室に入った次郎こそが、おそらく実在する次郎であり、実在する次郎はつまり、兄の部屋の前で泣く自分自身をそこで置き去りにして、自身もまた部屋へ籠るのだと思われる。ここで兄と弟の決別は完成する。この時、兄の幽霊を必要とするのは、 兄に置き去りにされた弟のみであって、自分一人で中学の 校門の先へと勝手に行ってしまった兄には、弟の幽霊など 見えていないはずなのだ。それどころか、自身の分裂に気づいてさえいないだろう。

 つまり、「次郎」の次郎からの分裂は、次郎自身にとってのものであるが、「太郎」の太郎からの分裂は太郎自身にとってのものではなく、次郎にとってのものなのだ。次郎の視線に立ってはじめて、太郎 と「太郎」の分裂の瞬間があらわれてくる。一人で勝手に先へ行ってしまう兄を見送る(置いてきぼりにされる)弟には、子供としての兄と、大人へと向かう兄とが分裂してみえるのだが、兄にとってはその分裂は意識されない。兄の変質によって、「(仲の良い兄弟〉の弟」としての位置を 失ってしまう次郎にだからこそ、かつての自分と今の自分との分裂が意識化される。このような兄弟の断絶以降に、《ドアではなく間仕切り壁を通り抜けて》行き来する幽霊の姿を必要とするのは、弟のみであろう。 しかしその時、兄の部屋のドアの前で泣き続ける「次郎」は、幽霊となってその場に置き去りにされる。

 「いい子は家で」において、兄や父に起こる変身は自動機械の変調のようなもので、孝裕にとってよそよそしいものなのに対し、孝裕に起こる変身は、彼の内的感覚(他所のウチにいること、そこでの習慣への違和感、あるいは便意)に原因があり、それは孝裕一人でいるときに起こる。そのことは、「いい子は家で」という小説が、三人称的な記述で書かれていても、あくまで孝裕の感覚によってたちあがる世界であることを示している。それと同様、「ふるさと以外のことは知らない」における兄の幽霊の有り様は、この小説の世界が基本的に弟(次郎)によってたちあがる世界であることを示しているように思われる(その記述は確かに、「いい子は家で」よりもずっと、他者の視点や他者の言葉に対して開かれ、錯綜してはいるのだが)。 だとすれば、母親と次男とが買い物にでかけたことを 《思い出》し、水入りタンクが家に運び込まれるのを《見て》いたとしてその存在が強調されるのは、次男である次郎だということになるのではないだろうか。だがこの次郎は、実在し成長した次郎ではなく(実在する次郎は母親と共に買い物に行っているのだから)、閉ざされたドアの前で泣いていた、もう一人の次郎であるだろう。鍵穴から 「四人」を覗いているのもまた、この、幽霊としての次郎なのだ。太郎からだけでなく次郎からも置き去りにされて子供のまま滞留する次郎の幽霊は、家族の誰からも切り離されて、ただ家族を見つめる視線となって言葉を呼び集める。

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 この小説を読んで誰にとっても目が行くのは、母親につ いての細かくて執拗な記述だろう。そのあまりの詳細さ に、驚きを感じるとともに、やや引いた感じさえもってしまうかもしれない。母親以外の家族が決して描かれていないわけではないのだし、母親の記述に比べて他の家族の記述の密度が劣るわけでもないのだが(例えば、前述した通り、兄弟の断絶の悲痛な感触が、記述の中心ではないところで、しかし決して無視できないような強さで描かれていたりもする)、にもかかわらず読後の印象としては、ただただ母親についての圧倒的な記述ばかりを読んだように感じられる。 

 この小説には、未来へと接している点としての「現在」 がほぼ消失している、と書いた。しかし同時に、「現在」 がいまにも立ち上がろうとしている瞬間があるとも。この小説で、最初に「現在」が立ち上がろうとする瞬間とは、 母親が外出しようと身支度をする場面だ。この場面で、趣味のサークルの仲間から電話で呼び出されて出かけようとする母親の記述は、いつの間にか鍵の管理の話に取って代わられて消えてしまう。そして、次に「現在」が立ち上がりかけるのもまた、母親が出かけようとする場面なのだ。

二階の子ども部屋で掃除が終わった。時計を見るとそ ろそろ出かける時間である。

ふるさと以外のことは知らない

 母親に再び出かけるチャンスが訪れた。しかしここでも、この一行のあとすぐさま、戸締まりについての一般的な記述に移ってしまう。だがそれでも、様々な一般的記述の闇を乗り越え、母親は玄関の鍵を外から閉め、ドアに背を向けてポーチの段を下りてゆき、郵便物でもたしかめるようなそぶりで郵便受けを開けるところまではゆく。 しかしそこまでで力つき、その後、郵便受けへの置き鍵の話、出かける時の所持品の話、この家の立地条件の話などに阻まれて「現在」は立ち消え、とうとう出かけることが出来ない。この小説で未来へと触れている現在を無理矢理特定しようとすれば、この、母親が出かけようとしている場面のみだと言えるだろう。だとすれば、この小説において「現在」がほぼ消失し、立ち上がりかけた「現在」がすぐに一般的な記述へと溶解してしまうのは、母親が外へと出かけてしまうことを妨害するためだとは言えないだろう か。

 この小説の世界全体の起源となっているのが、廊下で泣いている子供のままの次男の記憶であるとすれば、その記憶は、この家とほぼ一体となっている母親を、この家の外へと出すことを拒み、家のなかに留め置きたいと願っているのではないだろうか。この思いこそが、小説の記述を 駆動させているのだ。

結び


 この論考では、青木淳悟の小説において、そこで具体的に記述されている事柄と、その記述の外側にあり、記述そのものを駆動させる動機としてあるものとの関係について考察してきた。「クレーターのほとりで」で、過去を伝える神話や歌は、何かがあったという出来事の痕跡を伝えはするが、その出来事を正確には伝えない。しかし、正確には伝え得ず、そこに別の何かが隠されているという感触こそが、逆にその出来事のリアリティを示している。男たちは過去の記憶を無くして(あるいは抑圧して)いるが、彼らの歌う歌は、過去に何事かがあったことを示す証拠だ。 その出来事が、歌の発生を促すのだ。

 記述の外側にあり、書くことを促しているものは、「四 十日と四十夜のメルヘン」においては、失恋であり、新たな恋人の出現だったし、「いい子は家で」においては、女ともだちが出来たことであり、そのマンションルームでの排便問題であった。「ふるさと以外のことは知らない」では、未だ子供のままで家のなかに留まっている次男の次郎の記憶の一部が、母親が外へ出かけるのを阻むために、現在の時間を過去一般の記述によって包囲し、そのなかに溶解させようとしていた。いや、そうではなく、分裂した次郎の過去への執着が、母の外出という「現在」の成立を拒 んでいるといった方が正確であるかもしれない。

 いずれにしろ、記述を駆動する動因は、作品のテーマでも謎でもなく、作品の外側にある散文的な現実であった。失恋の失意と新たな恋愛への希望、恋人の家に泊まりにゆくようになること、自らがそのなかで育ってきた家族=記憶。これらは、誰にでもあてはまるありふれた事柄であり、「私」がそのなかで形成されてしまったということを否定できない、ありふれていながらも、解消不能でシビアな現実であるのだ。誰もが誰かから生まれ、誰かによって育てられ、そしていつの間にか色気づき、そこから離脱する。繰り返すが、これらの事柄は作品のテーマではない。青木淳悟の小説は、これらの事柄を描くのではない。そうではなくて、そのような解消不能な現実に「促される」ことによって、これらの小説が生まれるということなのだ。現実が物語化されるのではなく、物語という形には回収されない現実が書くことを駆動させ、言葉を呼び集め、書かれた言葉を振動させる。 

 だから、書かれた言葉から「現実(原因)」へと遡行することは、本当はそれほど重要なことではない。いや、「クレーターのほとりで」には、それが決して完璧にはなされ得ないことこそが示されていた。それは本当は不可能なのだ。名指され、示されたとたんに、それは「現実」とは別物になってしまう。しかしその現実こそが書くことを促し、言葉が生産される。書かれた言葉の裏地に、それを書かせた何ものかが確実に貼り付いているという、その感触を聴き取ることこそが重要なのだ。「クレーターのほとりで」の第二世代の子供たちが、男たちの歌から恐怖を感じるように。青木淳悟の小説作品にはそのような現実へと繋がる感触が確実にあるというのが、ここでの結論となる。
(了)


初出 「新潮」2008年2月号 (「フィクションの音域」所収)


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