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書かれたものと書かせたもの / 青木淳悟論 (2)「クレーターのほとりで」「いい子は家で」

古谷利裕


2 「クレーターのほとりで」


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 「クレーターのほとりで」の、森をさまよいつづける男たちは、数年もの間、日の光りを避けて生活しつづけること で、肌や髪の色を失うとともに、彼らが森に入る前の生活や、何故、森に入らなければならなかったのかという事情を、すっかり忘れてしまっているかのようだ。男たちだけ、十五人で群れをつくる彼らは、自分たちは木の洞から生まれたのだという神話をつくりだしている。《死んで土に還った魂のかけらが根によって吸い上げられ、樹幹を伝ってひとところに集まるとそこに瘤ができ、膨らみきった瘤が弾けて彼らを吐き出した。》つまり彼らは、森そのものから生まれ出て、男性だけで存在し、自身を再生産し、 女性のことなど何も知らないかのようだ。

 しかし、彼らには「森」以前の生活があり、そこでの記憶を完全には失っていないことも、すぐに明らかになる。 彼らはアブラハムについての「歌」をもち、その歌には鍛治労働が歌われているし、歌のなかには「つまとこども」 という言葉も聞かれる。あるいは彼らは、腰に二つの硬くて重い石をぶら下げており、それらはそれぞれ「おとこいし」「おんないし」と呼ばれ、「あわせるとひのこ」が生まれるという歌も歌う。そしてそれらの石は、家畜との交換によって手に入れたものだとされている。つまり、彼らは、女性の存在を知っているし、父と母との性交によって自らが生まれたことも知っているし、鍛治や牧畜を営むだけの技術をもち、集団のなかで生活していた過去の記憶を持っている。

 そうであるにも拘わらず、何故彼らは、あきらかに矛盾するような、自らの出自に関する神話をつくりあげなくてはならないのか。それはおそらく、彼らが何かしらの理由によって共同体を追われた集団であり、その事実を抑圧し、なかったことにしたいと願っているからだろう。彼らが絶対に火を使おうとはせず、《急に火をつけたら見たくないものまで見てしまいそうな気が》しているのは、火こそが、彼らが共同体を追われた理由と深く結びついているのか、または、火の記憶と共同体の記憶とが密接に結びついているからなのだろう(男たちは、アブラハムについての歌を持つので、「名前」というものを知っている。しか し、男たちは名前を持たない。あるいは剥奪されている。 男たちは、男女の交合について知っていても、実際の出産を知らず、赤ん坊をみたことがない。この事実は、男たちが、きわめて若い頃に、特異な理由によって共同体を追われたであろうことを、推測させる)。

 共同体から追われるような過去をもち、その過去から逃れるように森をさまよい、新たな存在として森から生まれ直したかのように、肌の色も髪の色も失うほどに森の間にとけ込んだ彼らは、ある日、白く美しい毛並みをもつ一頭の四足獣に出くわし、それに導かれて森の外へ出る。彼らがこの四足獣に魅せられたのは、以前に飼っていた一頭の白い牛を思い出させたからであり、その美しい牛への《懐かしさ》からであるのだから、やはり彼らは、完全に過去から切り離されたというわけでもないようだ。

 彼らは、森が途切れたところで、多くの動物たちが戯れ、葦の茂る沼地に行き当たる。そこで彼らは、《まるで人間のように器用に前足を使う》、猿に似ているのだが《やや毛が少なめで体つきがたくましく、後ろ足二本だけで歩くこと》が出来る獣たちの集団に出会う。この獣たちは何故か皆女性(メス)ばかりで、彼女たちは半ば強引に男たちのつくった家にはいりこみ、沼のほとりでの十五組の夫婦のような共同生活がはじまることになる。

 彼女たちは何故、女たちばかりで集団をつくっていたのだろうか。おそらく、彼女たちもまた、以前属していた群れから、何かしらの理由によって離れて暮らさなければならない過去があるのだとしか思えない。それは、昔の仲間 (オス)が、とつぜん沼のほとりに姿をあらわした場面から察せられる。この男は群れを追われたあぶれオスらしい。彼女たちは懐かしさからこの男にいろいろと声をかけるのだが、既に別の群れの男たちと暮らして長い彼女たちには、男たちの言葉が身に付いてしまっていて、昔の仲間の言葉が理解できない。以前の仲間と言葉が通じていないことに気付いた女たちは愕然とする。一人の女が突然 「ママ ! 」と叫んで泣き崩れる。それに対して別の女が言う。《「あんたママなんて言葉で呼んでなかったじゃない !  そうよ、そうなのよ、あたしたちはもっとちがうふうに呼んでたんだ、あの人のことを……」》

 彼女たちは「母」を意味する言葉さえ失ってしまっているため、《ママ ! 》という、原初的な他者へと向かうはずの叫びさえ、《あの人》との直接的な繋がりから断たれてしまっていたことに気づかされる。この事実は、瞼の母への心のなかでの語りかけさえをも困難にし、起源から切り離し、彼女たちの孤立感をさらに深いものとするだろう。 物理的に群れから切り離されていた彼女たちは、ここでより一層、きっぱりと、群れ(母一起線)から切り離されてしまった。彼女たちは知らないうちに(滑らかな連続性のなかにあると思っているうちに)、いつの間にか決定的な断絶の境を越えてしまっていたのだ。

2-2


 「クレーターのほとりで」には、男たち(ホモ・サピエンス・サピエンス)と女たち(ネアンデルタール)との出会いの話である「1」の部分(BC350-50年頃の話とされる) だけではなく、現代(2003~2005年)と未来 (2 015年)が舞台である「2」、「3」の部分もある。この二つ(三つ)の部分は、明らかに連続している(「2」の 世界は「1」の世界と同じ世界の「未来」である)のだ が、同時に切り離されてもいる。つまり、「2」の部分に登場する人物たちは、「I」の舞台となった地層を掘り起こし、調査しているにもかかわらず、決して「1」の出来事の 「秘密」に至ることは出来ないからだ。それは、「1」の男たちもまた、小説がはじまる前の来歴は匂わされるだけで 特定されず、子供たち(第二世代)の父親も特定されないことと相似的であろう。

 語られる事柄の内部には、その過去、その起源を想起させる様々な徴が満ちているのだが、 にも拘わらず、その徴を遡ることで起源を完全には特定することは出来ないのだ。このことは、青木淳悟の文章において、一旦示された話題が、着地することなく別の事柄にズレていってしまうこと、しかし、ズレながらも何かしら響き合う部分を残していることと、ちょうど時間の流れとして逆のベクトルをもちつつ、重なり合うように思われ る。

そして、むやみやたらと肉を貪ることが実は体を蝕んでいるとわかったのは、腹に物を溜め込みすぎると腸の先が肛門から飛び出てしまうという穏やかでない事態も大いに関係していたけれど、本当に身にしみて理解されたのは村にはじめての死者が出てしまったからだった。 おそらくこの男が最後に目にしたものは、森を抜け出したときに見た光景に似た、空を映してキラキラ輝く沼だったにちがいない。雲ひとつない晴れた朝、腹を空かせるために蟻塚から出ようとして体を屈めた瞬間、男は膝を折ってどうと倒れた。と、この死に際を偶然目撃した隣人は、男が断末魔に代わるおくびとともに吐き出した獣の頭骨を霊魂だと見誤ってこういった。「霊魂てのは やっぱり丸くて白いんだ。ある程度の硬さもあるらしいね。地面に落ちたとき乾いた音がしたよ」頭骨は地面を転がって戸ロ先の沼に落ちた。

クレーターのほとりで


 引用部分の最初の文は、肉をむやみに食することが体に悪いということが村ではじめて出た死者によって人々に意識された、という事実が、腹に物を溜め込みすぎると腸の先が肛門から飛び出てしまうという異様なイメージとともに語られている。この語りは、ここで語られる事実があったずっと後になって、振り返って語られるような調子が強く、その場面の現前からは遠い。それが、次の文になると、死んだその男が、死の直前に観たであろう光景が語られる。勿論これもまた、事後的な語りなのだが、それでも、このような描写は、読者に、その男が死んだその瞬間を現前させるような効果をもっている。次の文になると、 今度は男が死んだその場面が、割合近い位置で外側から記述される。ここまでの流れは、語られる事柄と、それを語ることとの距離感が、一文ごとに大きく切り替わりながらも、ほぼ連続した一つの事柄についての語りだと納得できるだろう。つまり、最初の文で示された、肉を食べ過ぎることと、男の死との関連性が、まだ(読者の頭のなかで)保たれている。

 しかし、それにつづく、最後の二つの文(男が死に際に吐き出した骨を霊魂と見間違えた別の男の話)になると、最初に示された話題は、どこかへ消えてしまっている。ここで語られる、死に際の男が倒れると同時に口から頭を吐き出すというイメージの新鮮さの効果によって、最初の話は読者の記憶から外され、一体何の話をしていたのか分らなくなる。示された話題は、着地する前に消えてしまうのだ。しかし、この記述は、それ以前の部分とまったく切り離されているわけではない。最初の文に示されている腹に物を溜め込みすぎると腸の先が肛門から飛び出てしまうというイメージと、死に際の男が断末魔に代わるおくびとともに口から頭骨を吐き出すというイメージとが、尻と頭部というように身体上の位置を反転させつつ、響き合って いるからだ。

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 切り離されながらも響き合うこと。2003〜05年に沼の跡地を調査するシオン賢者たちは、男たち女たちの出来事を解明し切ることは出来ないが、しかし、彼ら自身も 「透けるような白い肌」になることで男たちを(自ら知ら ないうちに)反復するのだし、沼の跡地は、危険なペットの捨て場所となることで、かつて動物たちのオアシスであった記憶をグロテスクに反復させ、さらに、火力発電所の用地となることで、アブラハムのカマドの歌を反復するのだ。かつて、月を想った女たちの思いは、月のような形を したガスタンクをその場所に招き寄せる。そのタンクの内部は、「月の裏側と同じ温度」であるそうだ。

 至るところに断層をはしらせる「クレーターのほとりで」を貫いて響いているのは「歌」であろう。誰によってつくられるわけでもなく、《最初は耳鳴りかと思っていた音が寄せ集まってある瞬間にふと》出来上がる「歌」こそが、この小説そのものであるかのようだ。

 男たちの歌うア ブラハムの歌を怖がる第二世代の子供たちのなかで、唯一歌に耳をふさがない子供ヤコブは、歌に歌われていることは《すでに起こった出来事》であって、歌われているように、子供たちがアブラハムによってカマドに入れられることはない、という事実を突き止める。歌が現前させる恐怖心は過去の記憶でしかなく、歌は決して出来事そのものを現前させることなどないのだ、と。ヤコブは、歌が決して 現実を呼び起こさないことを知っているから、歌によって 生まれる恐怖さえも「楽しむ」ことが出来る。歌は現実と切り離されている。しかし、歌にはその背後に何かしらの 形でそれを生む起源となった過去の存在があり、そこから生まれるのであって、歌の生む恐怖はそれと何かしらの形で響き合ってはいるはずなのだ。

3.「いい子は家で」


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 「四十日と四十夜のメルヘン」の「わたし」に日記を書かせるきっかけとなった出来事は、「四十日と四十夜のメル ヘン」という小説のなかには書き込まれていない。ここではそれを、「わたし」と「はいじま みのる」との恋愛の破綻ではないかと推測した。「クレーターのほとりで」の冒頭で森をさまよう「男たち」が、森をさまようようになる以前の来歴は、「クレーターのほとりで」のなかには書き込まれていない。だが、彼らの記述に何がしかの「過去」を感じさせる徴候が含まれていることは間違いなく、 しかもその過去を彼らが自身の記憶から隠蔽しようとしている徴候も同時に書き込まれているように感じられる。これら、テキストの外側に置かれた出来事は、小説の記述をたちあげ、それを形作らせる動因として働いているように思われる。しかし、これらテキストの外にある動因が、小説を読む人に対して「謎(真実)」として作用しているわけではない。「四十日と四十夜のメルヘン」を読む人は、 普通、「わたし」が何故日記を書き始めたのかということを意識しないだろうし、「クレーターのほとりで」を読む人は、男たちの過去をあれこれ考えたりはしないだろう。 だとしても、そのような外側があるという感触は、これらの小説の裏地として強く作用し、作品としての統覚を与えてい るように思われる。

 「クレーターのほとりで」で男たちが歌うアブラハムの歌は、男たちに何かしらの「過去」があることを示唆するが、その過去の出来事の具体的な有り様までは、そこからは遡ることが出来ない。しかしその「過去」は、男たちに繰り返し歌を歌わせ、新しい歌をつくらせる力となり、そして、その過去とは直接的に関係していない、女たちや、 第二世代の子供たちにまで「恐怖」という効果を与える。 それはテキストの外側に置かれているが、それこそが小説をはじめさせる原因であり、その力によって《最初は耳鳴りかと思っていた音》でしかなかったものたちが、次第に 《寄せ集ま》りはじめるのだ。

  では、「いい子は家で」という小説は何故はじまるのか。 主人公の宮内孝裕の話は、何故、ここから語られはじめるのか。ただ家にいてぶらぶらしているだけのこの男についての記述は、どのような力によって書かれることになったのか。

 この小説において、それは割合に分り易い形で示されている。それは、この男に「女ともだち」が出来たことによる。おそらくそれまでは、あまりにも当然で空気のようであっただろう家のなかの「母親」の有り様が、異様なものとして意識化されてくるのは、女ともだちが出来たという事実が、母親に対してどこかうしろめたい感情を起こさせるからだろう。別に、その人の部屋にしばしば泊まるようになる女ともだちの存在を母親がとがめだてするとは、この男も思ってはいないだろう。家族に対して、女ともだちとの関係を隠しておかなければならないような年齢では、 この男はもはやない。にも拘わらず、実際にそれをあけすけに告げることが、何故か困難なことのように思われるの だ。このような不可解で不条理な(しかし充分に分る)心理的距離が、この男と母親との関係を、そして、家のなかでの母親の有り様を、あらためて浮かび上がらせる。そのことが小説の萌芽となる。

 この小説には女ともだちそのものは一度も記述されない。つまり彼女はテキストの外側にいる。しかし、この女ともだちの有り様は謎ではない。問題となっているのは、 女ともだちそのものでも、主人公と彼女の関係でもなく、 女ともだちが出来ることによって顕在化した、主人公と母観、主人公と「家」との関係の方なのだ。女ともだちは小説がたちあがるための原因ではあるが、その内容ではない (「内容」は家族の方にある)。この小説の冒頭ちかくに書かれている「靴下」についての細かな記述は、主人公の身体に関する独自の幻想的嗜好性によるのではなく、(1)女ともだちの部屋の床がたまたま靴下を汚し易いものだという事実と、(2)主人公の洗濯物は全て母親が洗濯するという事実という、本来ならば無関係の二つの事実が、主人公と女ともだちとの関係によって接点が生じ、それによって主人公にとって意識化せざるを得ないものとして浮上したということなのだ。

 母親が、孝裕の靴下だけをわざわざ洗面所で手もみ洗いしていようと、それが女ともだちと関係するものでなければ、特に焦点化されるようなことではない。母親は、この母親がそれ以前から当然のようにそうしてきた通りに、家のシステム内での自身の役割にただ忠実に行動しているに過ぎないのだが、女ともだちができた主人公にとっては、母親の行動のいちいちに、自分を取り囲み、監視するような視線を感じるようになる。この小説で生じる主人公の「変身」は、いままで意識化されていなかったものが意識化されることによって起こったのだ。

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 この小説で最も読み応えがあるのは、何といっても主人 公の孝裕が、女ともだちのマンションルームで変身する一 連のシーンだろう。ここで孝裕の変身は、兄や父のものとはまったく異なる充実した質をもつ。このシーンには、こ の小説を構成する、視線と身体との絡まりの有り様が凝縮されているように思われる。

 この変身の徴候は、まず排便の感覚とともに起動する。 孝裕が、自分の「家」を包囲する観や近所の視線を鬱陶しく感じながらも、女ともだちとの同棲に踏み切れない理由は、この排便と深い関係がある。《こんなことをいうとおかしいが孝裕はその部屋でいままで一度も大便をしたとがなく、便意をもよおしたことすらないというところに不安をおぼえていた。》たんに排便することを遠慮しているのではなく《便意をもよおしたこと》すらないということが、この部屋が彼にとっていかに外的な間境であるのかを物語っている。この部屋での排便がためらわれる理由が小説中にいくつか挙げられてはいるが、問題なのはそのような具体的な事柄よりも、排便という無防備で原初的な行為を行えるほどに、彼にとってこの空間が気を許せる自分のテリトリーとはなっていないということだろう。この小説のタイトル「いい子は家で」とはつまり、「いい子は家 で(排便する)」だと解釈しても良いのではないかとさえ思われる。

  排便の変調は、ただその空間的な違和感にのみ起因するのではない。食生活や食習慣の違いが、排便のリズムを狂わせるという側面もある。《土日に祭日をくわえた三連休のあいだ》に《その部屋に入り浸っ》た彼は、《もしこのままここで出されるものを食べつづけていたら味覚どころか体質さえ変わりかねない》と感じる。彼はこの部屋で朝からバターのたっぷり塗られたパンを食べ、《昼食はきちんと取らず買い置きの袋菓子》などを食べ、《時間ではなく空腹を感じてから》、《炭水化物や糖質は足りているのでつまみのような夕食》を食べ、《ベーコンやサラミやチーズがふんだんに載った脂ぎとぎとの宅配ピザ》を夜食とする。このような、若い独身者なら珍しくもない食習慣は、実家に住んで三度の食事を提則的に取る主人公にとっては、かなり異質なものだろう。(異性と親しくなり、相手の部屋に泊まるという関係を持つようになる年齢で誰もが感じることだろうが、そこで初めて、食習慣をはじめ実家の習慣が決して一般的でないことを知る。この、実家が相対化される感覚は、思春期に感じる身内への気恥ずかしささえもが、身内への依存の感情でしかなかったことを告げる。この感覚は、自身の身体の相対化をも強いるだろう。) 

 否応無く詰め込まれる脂っぽく不規則な食事と、ためらわれる排便。これは彼の体内(内臓)の感覚に大きな変調をきたすことだろう。この内的な感覚の変化が、変身へのポテンシャルを高める。

 変身は、女ともだちが不在の部屋ではじまる。孝裕は、彼女が帰宅してから二人で夕食を取ろうと考えていたのだが、《目のくらむほど空腹を感じてどうしようもなく》なる。しかし通常、空腹感は徐々に増してくるものであり、 ふいに《目のくらむほど空腹》が襲ってくることは考えにくい。ここでの記述はむしろ、空腹感であるよりも便意に近いもののように感じられる(「クレーターのほとりで」 について触れたように、青木淳悟においては口と肛門は 反転可能である)。この部屋での便意一排便の徴候はつづく。彼はテーブルの上に棒状のバターを発見し、その外箱をいじっているうちに《中身がすぼんと飛び出して床に落ち》てしまう。この視覚的なイメージは、大便が便器に落ちるイメージを連想させないだろうか。そして彼は床に落 ちたバターをにむり、にむり、噛んで食べるのだが、 この「にむり、にむり」という擬音語は、排泄の表現にこそ適当なものだろう。

 食べることと出すことのイメージが重なる時、女ともだち(のテリトリー)への人間的な遠慮の感覚は消えて、動物的な存在へと退行している。あるいは、彼は人間的な遠慮の感覚を後退させなければ、決して「ここ」で排便することが出来ない。だから彼は追い込まれて必然的に、自らを猫のような四足動物へと変身させる。《土下座するように両手をついて床の上のバターに顔を寄せる。においを嗅ぎ、表面を舌で紙め、それからにむり、にむり、噛んで食べた。》

 自らを動物的な身体と退行させることで排便を運行しようとする孝裕は、自身の意識を、まるで便のようにその身体から外へ排出する。それは、便の視線となって自らの身体を見返すかのような記述を生む。《体内に深く潜行していたはずの意識がいつの間にか体の外へすり抜けてい た。尻からひり出されたとでもいうように、ふと気づくと体の後ろ側にいたのだった。人が一生直視できないとされる自分の背中が目の前にあった。》身体から離脱した意識は、排便を遂行中の、猫のような動物へと変身した自身の表情を外側から観察する。

ひげの根元から先にかけて、 ノコギリ型の波がゆっくりと走り抜ける。体内をなにかが駆け巡ったようだ。その波動が去ってもしばらくは余韻が残るものらしく、なにかとても気持ちよさそうな表情でぼんやり眼を正面に向けたまま、しだいにまぶたが下がってきて目の玉が真ん中へ寄ってきて、ある一瞬でぱっと見開かれた。

いい子は家で

 意識と身体が再び重なった後(つまり排便の後)、未だ猫のような四つ足のままの孝裕は、《どこかに脱ぎ捨てたはずの服を探しにかか》る。いつの間にか全裸になっていたのだ。(排便する時に全裸になる人が稀にいる。)四つ足の動物へと変身している彼は、まず四つあるはずの靴下を探しにかかる。そこで彼は、靴下ではなく手袋を発見することで、人間である自身を思い出し、《両手をグーパーグーパーと動かして気を取り直し》、《これが自分の手なのだと強く感じ》、《ようやく立ち上がっ》て、人間へと回帰する。この変身(排便)の体験は孝裕に、自分が人間として の輪郭を保つためには、実家の空間が必要なのだという自覚を生じさせ、帰宅を決意させる。

 つまり、この小説の記述の外側にあり、この小説を起動させる原因(繰り返すが、それはこの小説の謎=解答とい うことではない)である女ともだちは楽裕に、母親の視線を意識させるだけでなく、自身の身体の動物的側面をも意識させる。女ともだちの部屋からの撤退を決意した孝裕は、彼女に向けた、家に帰ったことを知らせるメッセージ を、窓に息を吹き付けて出来た曇りに書き込む。

部屋の様子も急にみすぼらしい感じになってしまった。カーテンを開けて明るくなったら狭さが出た。ベランダから玄関までが見通しである。ドアを開けて十歩も歩けばこの窓に突き当たる。そこに自分がいないとしたら、仕事を終えて帰宅した人間はどう思うことだろう。 すると「おかえりなさい」というあいさつが思い浮かび、ほかにも「おつかれさま」「今日はどうだった」「本 当は帰りたくないけれど」「また今度ゆっくり」と、それらしい言葉が次々出てきた。面と向かっていうつもりはさらさらないが書き残すだけならかまわない。そんな気持ちでベランダの窓を振り返れば、指で書きつけた文 字は水滴となって流れていて、ガラスには三筋の跡が残 るばかりだった。

いい子は家で

 帰宅を決意した時、女ともだちのマンションルームの空間は変質する。ここで、主人公の身体感覚に寄り添って記述されていたこの空間に他者の視点が導入される。女ともだちが帰ってきたのではない。孝裕の視線の一部が分離し、女ともだちの視線と化して、(架空の)「視線」のみが、この空間に侵入してくるのだ(最初の三つの文まで孝裕一人だった部屋に、四つめの文で唐突に女ともだちの視線が侵入してくる)。そして孝裕は、女ともだちの視線と化した自らの視線を相手に、いろいろと帰りの挨拶や言い 訳を試みている。ここにいるのは孝裕たった一人であるにもかかわらず、孝裕の視線が複数に分離し、交錯する。この 場面は、青木淳悟の小説における視線の有り様を、分り易く示しているように思われる。孝裕の変身は、このような意識や視線が分離し易い体質によって可能になるのだと思われる。孝裕が「家」にいて感じる、遍在する母の視線もまた、結局は孝裕自身の視線が分離したものなのだ。

 引用部分の四つめの文での、女ともだちの視線の唐突な侵入は、「ふるさと以外のことは知らない」においては、不思議な幽霊的な存在を生むことになる。
(つづく)


初出 「新潮」2008年2月号 (「フィクションの音域」所収)


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