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鼻血を垂らす幽霊・現在と想起の抗争 ポン・ジュノ『母なる証明』論(1)

古谷利裕

(注)この論考は、いわゆる「ネタバレ」しています。

1. 事実の隠蔽と存在の交換可能性

・事実は隠蔽される

ポン・ジュノの映画においては、事実は隠蔽される。誰に対して隠蔽されるかはともかく。『ほえる犬は噛まない』の犬殺しの犯人は、その犯行が明らかになることはなく、自ら罪を告白する機会をも逃す。彼は自分の行為を隠し、口をつぐんだまま大学教授の椅子を手に入れる。『殺人の追憶』においては、最後まで犯人は謎のままだ。『グエムル』では、怪物を生み出してしまった原因であるアメリカ人学者の行いは暴露されることはなく、その隠蔽工作が事態をさらに面倒なものにする。怪物は退治されるが、アメリカ人学者の行いは不問に付される。『ほえる犬は噛まない』と『グエムル』では観客に対しては事実は明らかだが、『殺人の追憶』では観客に対しても明かされない。

『母なる証明』でもそれはかわらない。ここでは事実は母の手によって握りつぶされる(犯行の目撃者を殺害した母親が、文字通り両方の手のひらをぎゅっと握りしめるカットもある)。そして母は、自らが事実を握りつぶしたのだという事さえも、自分自身に対して隠蔽するために忘却のツボに針をうつことになる(母は鍼灸師である)。つまりここでは、殺人という事実と、その事実を隠蔽したという事実の、二重の隠蔽が行われている。

しかし実は、事はそう簡単ではない。この映画で母は、(観客に対して)事実を明らかにする役割も同時に担っている。そもそも、知的な障害により、自らが殺人を犯したという記憶さえ定かでないトジュンが逮捕されただけでは、とりあえず犯人の席が埋まったというだけであり、事実はまったく明らかになっていない。それでは、犯人の位置を占める者が次々移っていった末に事実は闇の中のままに終わる『殺人の追憶』と同じことになってしまう。警察のいい加減な捜査に不信をもち、息子トジュンの無実を信じる母が真犯人を捜そうとするからこそ、この映画を観て、物語を追う観客に対して事実が明らかになるのだ。

とはいえ、この映画における事実とは一体何なのだろうか。ただ「トジュンがアジョンを殺した」というだけのことなのだろうか。あるいは、母が息子を思うあまり、息子の殺人を隠蔽したということなのだろうか。息子に対する強く揺るぎのない母の愛、あるいは、すべてを包み込み、呑み込んでしまう恐ろしい母権、都合の悪いことはすべてなかったことにしてしまう母性が支配するディストピア、そのようなありがちな指摘だけが重要なのだろうか。しかしポン・ジュノがそんな退屈な映画作家であるはずは決してない。この確信から話をはじめたい。

・あらゆる存在は交換可能である

ポン・ジュノの作品において、あらゆる存在は交換可能であり、しかし、存在が得ることの出来る席(居場所)は常に不足している。『ほえる犬は噛まない』の大学教授、『殺人の追憶』の犯人、それぞれその席を占めることの出来る可能性のある者は複数存在するが、席は一つしかなく、その位置につくのは常に一人だ。しかしそれは絶対的に安定した地位ではなく、ある任意の時間に、ある任意の一人がその位置を占めていればよいということに過ぎない。それでシステムは円滑に作動する。『グエムル』で、ソン・ガンホが演じる主人公の子供は常に一人でなければならず、怪物によって奪われてゼロ(空席)になった時にはその子供(娘)は奪還されなければならないのだが、しかし、実際に生還した時(まるで怪物の腹のなかで役割が交代したかのように)その位置を占める子供は男の子となっている。子供は、娘から息子へと交換可能なのだ。この時に娘は、幽霊としてしか存在を許されなくなっている。しかし実は、ポン・ジュノの作品においてより重要な点は、幽霊としてであれば、娘と息子が同一の「一つの席」に共存可能であるということの方にある。

『母なる証明』でも、開始早々、排他性と交換可能性の原理が示される。ベンツのドアミラーを破壊しようと跳び蹴りする二人(ジンテ・トジュン)は、その一方しか行為を成功させることを許されず、もう一人の行為は不発に終わる。しかし、「ドアミラーを破壊した人」として認定されるのはその両者のどちらでもよく、交換可能なのだ。実際にドアミラーを破壊したジンテは、もう一方の、記憶とのアクセスに障害があり、あやふやな記憶しか持たないトジュンに、知的な障害につけ込んで罪人の位置を移動させる(押しつける)。そもそもトジュンはまず、ジンテから罪をなすりつけられた者としてこの映画に登場する。だからこそ彼もまた、自分の殺人の罪を別の誰か(ジョンパル)へなすりつける者の位置へと移動することが可能になる。

あるいは、トジュンが逮捕されて、(母とトジュンの)家における息子の居場所が不在となると、それを埋めるためにトジュンの幽霊となったかのようなジンテが(母とトジュンの)家へとあらわれ、その後、まるでトジュンにかわって母の息子の位置についたかのようにして、真犯人の捜査に協力する。

しかしここでも重要なのは、『グエムル』と同様に、ジンテが母の息子の位置についたからといって、決してトジュンが息子の位置からはじき出されるわけではないという点だ。トジュンは留置所へと場所を移動し、シャバでは不在となった(半ば幽霊化した)ことで、ジンテが息子であるかのような位置を占めるのだが、留置場という「シャバ(現世)の外」においてトジュンは依然として母の息子の位置にいつづける。逆に言えば、母は(位相の異なる)二人の息子を得ることが可能になる。存在の位相さえ異なれば、一つの位置に二つの存在がつくことも可能なのだ。

本来一つしか席がないところに、同時に二つ以上の存在が占めるにはどうすればよいのか。これはポン・ジュノの多くの作品に貫かれた重要な主題である。そして、『母なる証明』という作品は、殺人犯という一つの席に、その位置につく正当な理由のある二名の者(トジュンとジョンパル)が共存する、という事態が実現する作品だと言えるのだ。

(警察や世間に対しては隠蔽されるが、トジュンが真犯人であることは観客に対しては明らかだ、そしてジョンパルが殺人者の位置につくことが何故正当なのかについては後述する)。

とはいえ、ひとまずは『母なる証明』が一つの殺人事件(一人の被害者)に対応する一人の犯人という位置をめぐる物語だと言うことは可能だろう。あきらかに殺害されたと分かる死体が発見されることで、そこにその行為を行った犯人という一つの空席が出現する。その不在の席は誰かによって埋められなければならない。そして警察によってその席がトジュンに割り振られる。しかし納得出来ない母は、真犯人は別にいると考え、まずジンテを疑う。

母の直感は半ば正しく、ジンテは別の事件(ベンツのドアミラー事件)ではトジュンに罪をなすりつけていた。しかしジンテは殺人の犯人ではないことが明らかになる。犯人という位置をトジュンと交換しなかったジンテは、しかしシャバにおける母の息子という役割をトジュンと交換し、真犯人を捜査する母に協力する(ここで、もともと母の捜査協力者の位置にあった弁護士はお役御免になる)。このように、トジュンとジンテはめまぐるしくその位置を交換するペアとして存在している。ただしジンテのトジュンとの位置の移動‐交換は、無償のものではあり得ず、常に金銭が絡んでいるのだが。

母の必死の捜査は、彼女の願いとはうらはらに息子こそが犯人であったという事実に行き当たってしまう。母は犯行の目撃者を殺害して住まいに火を放ち、証拠を隠滅する。しかし、ここで母がしたのはたんに証拠の隠滅であって、別の犯人をでっちあげることではない。それだけでは決して犯人の位置は他の誰かへと移動-交換されることはない。にもかかわらず、この証拠の隠滅と呼応するかのように、新たな「犯人の位置を埋める者」が降って湧いたように現われ、自動的にトジュンと役割を交換するのだ。

それが、殺されたアジョンの恋人であったとも噂されるジョンパルだ。彼は、その位置は本来自分こそが担うべきものであったとでも言わんばかりの確信に満ちた穏やかな表情で、母の前にあらわれる。

この作品において、母は確かに「隠蔽する存在」であり、この件に限らず、自分に都合の悪いあらゆることをなかったことにしようとする。ポン・ジュノの作品に遍在する「隠蔽する力の体現者」のなかでも最強の存在とも言えよう。だか、母による隠蔽工作は、まるで自ら無実の罪を買って出たかのようなジョンパルの出現がなければ、母の独力だけでは(つまり母の力とは「異なる別の力」の介入がなければ)、そもそも完成することはなかったのだ。母にはこの「別の力」を隠蔽することは出来ないのだ。このことの意味は決定的に重い。これをどう考えるべきなのか。

(2)へつづく

初出「ユリイカ」2010年5月号(特集・ポン・ジュノ)


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