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鼻血を垂らす幽霊・現在と想起の抗争 ポン・ジュノ『母なる証明』論(2)

古谷利裕

(注)この論考は、いわゆる「ネタバレ」しています。

2.母のいる系列と、母のいない系列

・トジュン---呪文のエコー

そもそも、この事件は何故、どのようにして起こったのだろうか。

母は、知的な障害をもつ息子トジュンを溺愛し、生活のすべてにわたって世話を焼き、保護している。作中では、彼の知的障害の原因が母にあるのではないかということも匂わされている(五歳の時の経験)。しかし、母には決して世話を焼くことの出来ない領域があり、それが性的な領域であろう。トジュンに「精力をどこに使うのか」と問い掛け、立ち小便する息子の性器を覗き込む母の姿は、彼女がその領域へと踏み込むことの不可能性を示すものだろう。何度も反復されるトジュンによる「母親と寝る」というセリフもまた、その機械的反復によって、この母と息子の間にまったく性的なニュアンスが存在しないことをこそ響かせているように聞こえる。

しかし、だからといって世話をすることによってすべてを支配しようとする母によって世話されることのない(母によって隠蔽することの出来ない)リアルなものとしての性的欲望の発露として事件が起こったのだ、と言ってよいのだろうか。

そのような判断はあまりに単調であり、正確さを欠いている。実際、トジュンが唐突に「女と寝なければ」と言い出したのは、(トジュンとは異なり濃厚に性的な気配を漂わせる)ジンテに「寝る女はいるのか」と問われたからでしかないようにみえる。ジンテが「復讐する」と言えばそれに従い、「ドアミラーはお前が壊した」と言われればそれを鵜呑みにするトジュンは、ジンテの言葉をただエコーのように機械的に反復し、その指令に従うように「寝るための女」を探していたに過ぎないのではないか。事件の日に出かける理由もジンテに会うためであり、欲望に促されて寝る女を探すためではなかった。その夜、たまたまジンテに会うことが出来なかったため、昼間の会話‐指令がまだ彼のなかに残留し、「女と寝る」という呪文が持続的に響いていただけなのではないか。何よりも、トジュンはアジョンに声をかけはしたが、性行為を強要しようとして拒否されたからではなく、ただ「バカ野郎」と言われてキレて(トジュンは「バカ」と言われるとキレるキャラクターとして設定されている)、たまたま目の前に大きな石が転がっていたために殺してしまったに過ぎないのだった。

では、この事件は、偶然が重なったことが悲劇となってしまった、というだけことなのだろうか。

・二つの系列、二つの取り違え

ここで、この作品では二つの「血の取り違え」があることに注目したい。一つめは、冒頭、トジュンが車にはねられたのを見た母が驚いて、使っていた「薬草を切断する刃物」で自分の指を切ってしまい、しかしそれに気づかずに息子のもとへと走り、自分の指から流れる血を息子の怪我によるものだと勘違いすること。もう一つは、殺されたアジョンがしばしば鼻血を出してしまう体質で、彼女の恋人であったジョンパルの衣服に付着したその鼻血が、殺人の時に付着したものだと警察に判断されてジョンパルが犯人とされてしまうこと。

もともと、母、トジュン、ジンテ、ミナという人物たちの系列(母の系列)と、アジョン、彼女と寝た男たち、ジョンパル、アジョンの認知症の祖母という人物の系列(被害者アジョンとジョンパルの系列)には、貧しいが、めったに殺人など起こらないという、田舎の同じ村に住んでいる以外に接点はほとんどないのだ。トジュンが夜道で偶然アジョンと出会わなければ、事件は起こりえなかった。だから、偶然が悲劇的な形で重なってしまったのだと言っても問題はないようにも思えるかもしれない。しかし、この異なる系列に属する両者の、文字通りの「血の(取り違えの)つながり」にこそ、何か重大な秘密への糸口が隠されているように感じられる。

前者(母の系列)のとりちがえは、息子のことを思うあまりに自らの出血に気づかずに自身の血を息子のものと思い込む。これは自らの思いを相手へと投影するような、この母の(押しつけがましいとも言える)愛情の有り様の形象化でもあろう。後者は、関係の親密さをあらわす鼻血の付着というしるしが、他者から真逆の意味をもつ殺害の証拠と誤読される。しかしジョンパルはあえて殺人犯という位置を受け入れているようにさえみえる。この、二つの異なる系列、二種類の愛情のかたち。二種類の「血の取り違え」のモンタージュこそが、ここで起こった事件の本質をあらわにするのだとは言えないだろうか。

もっと言えば、後者が前者を呼び寄せる、あるいは、後者が、前者を通して自らを主張することこそが、この作品において起こっている出来事なのだ、と言うことが出来るのではないだろうか。

つまり、アジョンは自らの存在を示すために、血を媒介として母とトジュンを招き寄せ、自ら殺され、幽霊となることで存在をアピールする。私はここに存在する、私を見ろ、私の物語を聞け、と。この映画で母は、息子を信じて独自の調査をすることを通じて、同時にアジョンの物語の語り手の役目を負わされることになるのだ。殺される直前のアジョンはトジュンに向かって、まず「私を知ってるのか?」と問い掛けていた。それは自らの存在の主張のようにもみえる。そしてその後、「私は男が嫌い」と自分の感情を主張し、そしてその上で、自分を殺してくれと頼むかのように(バカと言われるとキレるトジュンに向かって)「バカ野郎」と言うのだ。

殺される前の、後ろ姿のみで示される彼女のイメージのつかみどころのなさに比べ、殺された後、現在時に唐突に介入する回想(幽霊)としてあらわれ、鼻血を垂らすアジョンのイメージのなんと鮮やかであることか(彼女が鼻血を垂らす場面は、母が息子の写真‐記憶を修整しようとする場面に介入する回想であり、アジョンの回想‐幽霊は、そのような記憶の修正に抗するかのように出現する)。アジョンが自ら殺されること(幽霊と化すこと)で、自身の存在(物語)を主張しようとすることを望んだからこそ、その殺人者の位置を、責任をもって彼女の恋人であるジョンパルが引き受けたということではないだろうか。

(アジョンの回想‐幽霊が「血」に引き寄せられ、「血」を介してあらわれることは、夜の遊園地の場面でも、ジンテに蹴られて口から血を流す少年の膝を枕にして、携帯画面の薄青い光りとともに彼女の幽霊があらわれていることからもあきらかだろう。)

アジョンの死体が町中どこからも見ることの出来る空き屋の屋上に置かれたことに関する三つの解釈があり得るだろう。(1)ジンテが主張する「このクソ女を俺が殺してやった」という憎しみの表現として。(2)トジュンがふと口にする「たくさん血が出ている彼女をなるべく人目のつく場所において、誰かの助けを得るため」という意味として。そして作品には直接刻まれてはいないが、(3)アジョン自身による「私の存在を見ろ」という主張として。この三つの解釈は決して互いを排除するものではなく、特に、二番目と三番目のものはまったく齟齬なくぴったりと重なる。他者からの指令に忠実に行動する真犯人のトジュンは、「この娘を助けて」という自らの思いと同時に、「私を見ろ」と主張するアジョンの望む通りに、彼女の死体を町中から見える場所にまで担ぎ上げたのだ。

・母に抗うもの---幽霊と記憶のアナクロニックな回帰

だが、この作品の前景をなすのはやはり、母、トジュン、ジンテ、ミナ、写真屋の女という人物たちの系列(母の系列)の方であることは確かであろう。この系列は、母とトジュンという保護‐被保護(支配-被支配)という関係、トジュンとジンテという交換可能な分身的関係、トジュン、ジンテ、ミナという三角関係、そして母と写真屋の女をはじめ複数の女たち(母たる資格をもつ者たち)という、針をうつことで生まれる同士的関係等で構成されている。勿論、ここで最も強力なものは母とトジュンとの関係である。

二つの系列の違いとはそもそも、強力な保護者にして支配者である母の存在の有無によるとさえ言える。息子に換わって犯人の位置を割り振られたジョンパルと対面した(トジュンの)母は、彼に向かって涙を流しながら「両親はいるのか、母は?」と問い掛ける。もし母という保護者-支配者がジョンパルにも存在したならば、彼が犯人の位置に追いやられることはなかったであろう。この時母は、幾分かはジョンパルの母の位置を共有してもいるだろう。しかしそれに対しジョンパルは、ただ静かに「泣くなよ」と呟くのみだ。この静かな呟きは、保護し隠蔽する「母」という存在への強く確かな拒否であるようにも感じられる。私は、保護する者のないアジョンの、「私の存在を見ろ」という主張を全うさせるために、みずから進んでこの殺人者という位置を引き受けたのだ、と。この静かな呟きこそが、この作品のなかで母の力と拮抗し、それよりも強くさえある唯一のものであるかのようだ。

しかしトジュンもまた、ただ母の力の支配に甘んじているわけでもない。

彼の知的な障害は主に記憶にかかわるものであるらしく、であるならば、それは母による事実の隠蔽、記憶の抑圧の影響によるものであるようにさえ感じられる。母は、トジュンが五歳の頃、貧しさによる生活苦から心中を図り、息子に農薬入りの栄養ドリンクを飲ませた。これは母の最大の後悔であり罪の意識であり、この事実に対する疚しさ、申し訳なさから、彼女は息子に過剰に愛情を注ぐことになる。しかしその愛情は同時に、その出来事(疚しさ)の記憶の隠蔽であり抑圧としても作用する。トジュンの記憶の障害は、実は母のこの抑圧に起因するものであるかもしれないのだ。

だが彼の記憶は、まったく失われたわけではないし、完全に抑圧されているわけでもない。時と場所を選ばずにいきなり回帰する。トジュンの記憶は現在と同期していない。トジュンは、自分をはねたベンツが白かったか黒かったかさえ憶えられないし、ドアミラーを壊したのはお前だと言われればそのまま信じてしまうほどに記憶に問題があるが、しかしその記憶はまったく消えてしまうわけではなく、ある時とつぜん蘇ってくる。たんに、いま、ここへの適切な対応としての記憶の検索が出来ないだけなのだ。この、時と場所を選ばないアナクロニックな記憶の唐突な回帰こそが、母による記憶の抑圧(管理)に抗うものだ。母の隠蔽工作は、表面上成功しているように見えるに過ぎない。彼は実はよく憶えている。ただ思い出せないだけなのだ(潜在的には記憶は存在しつづけている)。だからトジュンの母への従順さは、思い出せないという限りにおいて仮に成立しているものだ。針治療によって結びつけられた女たちは、写真を修整するように記憶も修正可能だと信じているが、そのような女たちのもとへこそアジョンの幽霊はあらわれ、記憶-過去は生きていることを示すように、流れ出る鼻血を見せつけるだろう。

初出「ユリイカ」2010年5月号(特集・ポン・ジュノ)

(3)へつづく

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