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鼻血を垂らす幽霊・現在と想起の抗争 ポン・ジュノ『母なる証明』論(3)

古谷利裕

(注)この論考は、いわゆる「ネタバレ」しています。

3.見ていないことさえ思い出す能力

・二度以上観るべき映画

ところで、『母なる証明』という映画作品の形式それ自体が、トジュンによる唐突で脈絡を欠いた記憶の回帰をなぞり、反復しているかのような側面がある。母が弁護士と共に酒を飲み、弁護士の対応に失望する場面の直後に、栄養ドリンクの瓶を差し出され、それを上目遣いに見ている未知の少年の顔のカットがごく短い時間だけ示される。映画はこの時点ではトジュンの五歳の経験のエピソードを示してはいないので、観客にとってこのカットは謎であり、意味が分からない。しかしここでのカットの挿入はほんの一瞬で、この後、母とジンテが家で対峙する濃厚で異様な印象を刻む場面につづくので、観客は謎のカットを見たことそのものをすぐに忘れてしまう。

通常、このようなカットは伏線として機能し、後にトジュンの五歳の記憶が語られた時、あらためて以前に見たカットを想起し、ああ、あれはこのことだったのかと納得する。しかしこのカットの挿入はあまりに唐突である上にあまりに短時間であるため、後でその存在を改めて思い出すことは困難だ。そして『母なる証明』を二回目に観た時にこのカットに再び遭遇した観客は、自分がつてこのカットを見て意味が分からないと思ったことを思い出し、それが伏線であったことをその時に発見し、さらに、伏線であるはずのそれを思い出すべき時に上手く思い出せなかったことを知る。つまりトジュン的な記憶の有り様を追体験する。

もう一つの例。これは伏線ですらないのだが、息子が犯人ではないということを示すためにあえてアジョンの葬式に赴いた母が、誰だか分からない謎の女性にビンタされる場面がある。アジョンは認知症の祖母以外に身寄りはないはずだから、この女性がアジョンの母親や親類であるはずはない。この女性は誰なのか、何故母にビンタしたのか、その根拠はまったく示されない。『母なる証明』という映画は、様々な細部がびっしりと埋め込まれ、それら細部たちが緊密に互いを反映し合って乱反射しているような作品で、その息苦しいほどの細部たちのネットワークのなかで、この女性のイメージはそこだけ孤立しているように感じられる。この、強い印象を伴った「イメージの孤立」は、今スクリーンやディスプレイ上に観ているイメージの連鎖から、自分が何か決定的なものを見逃してしまっているのではないかという不安を生じさせる。そしてこの孤立はまた、記憶を唐突な回帰としてしか経験出来ず、複数の記憶たちの適切なネットワーク(相互反映)をかたちづくることの出来ないトジュンの寄る辺無さと通じてもいるのではないだろうか。

(細部の濃密な乱反射の一例として、ポン・ジュノの濃厚なテマティズムを挙げることも出来よう。廃油のような重たい雨、泥、幅が狭く奥へ深い空間、外が見渡せるガラス張りの、しかし閉ざされた空間、駐車場という空間、常に何かを反映している輝く瞳、等々…)

互いを映し合う細部同士の乱反射に加えて、上記のような特徴がある『母なる証明』という作品は、はじまりがあり、順番にカットが並べられ、終わりがくるという、継起的な「映画を観ている現在」が強いる力から逸脱し、細部と別の細部とを直接関係づけようとする動きに満ちている。

とはいえ、映画を最初に観る時は、事実上、次々にあらわれてくる映像と音声とをその順番通りに受けとめ、その順番に従って理解してゆくしかない。一回目の鑑賞は継起的な線の上にある「現在」の強いる力から充分には離陸できない。現在の力の内にある限り、必然的に、母による隠蔽する力は最終的に勝利することになるだろう。しかし、二回目にそれを観る時、事態はがらっとかわってくるのだ。二回目の鑑賞とはつまり、今観ているものに対し常に、かつてそれを見た記憶が介入してくる。その時、場面があらわれる順番(現在時)は絶対的なものではなくなるだろう。

例えば、栄養ドリンクを見上げる少年のカットを二度目に見た時、既に五歳のトジュンのエピソードを知っている観客は、それが知らされる場面が、そのカットの前にあるのか後にあるのか(既にあったのか未だ訪れてないのか)かえってよく分からなくなるだろう。あるいは、冒頭近くで警察官たちに母がドリンク剤を配る時、時間を先取りしてそこに既にかすかな毒の気配を感じることになるだろう。その時、物語が流れる線的な現在は消失している。そのような現在の消失のなかで、幽霊たちの暗躍が可能になり、母の力は絶対的ではなくなるだろう。だから『母なる証明』は、二度以上見るべき作品なのだ。

・忘却する生、回帰する幽霊

(1)即物的な「血の(取り違えの)つながり」によって母とアジョンの幽霊に接点が生じ、(2)現在時への対応から切り離された「記憶の唐突な回帰」によってトジュンとアジョンの幽霊に接点が生じる。ここで、母を「持つ者」と「持たない者」という二つの異なる系列は交わり、後者が前者を招き寄せ、衝突して、事件が起こる。そのような意味において、アジョンは生前から既に幽霊であった。そして、母がその事件を解明しようとする過程こそが、そのまま、後者の系列が自らの存在を示し、それを表現するための舞台となる。

アジョンは貧しく身寄りもなく、認知症の祖母の世話も含めた生活を、自分一人の力で成り立たせなければならなかった。彼女にとってその手段は体を売ることしかなく、時には金銭ではなく、米との交換で体を売ることさえもあった。故に彼女は男たちから軽く見られ、嘲笑の対象であった。彼女は自分と寝た男性すべてを密かに撮影していた。それは男たちにとって都合の悪いことであり、その記録-記憶は消去されなければならないものであった。

アジョンがどのような理由によって男たちを撮影していたのかは定かではないが(「私は男が嫌い」とトジュンに宣言する彼女にとってそれは決して良い記憶ではないはずだが)、にもかかわらず彼女は、その記憶-記録をなかったことにすることは許さないであろう。

自らを「殺させる」ことで彼女が(捜査を通じて)母に「語らせた」ものとは、以上のような物語だ。そしてなにより、そのような「私」が存在したことを「なかったこと」にすることは許さない、という主張であろう。男たちの写真は、「そのような私」を表現するものであり、おそらく脅迫などを目的として撮られたものではないだろう。貧しさという点では、かつて息子との心中へと追い込まれていた母とアジョンとは共通した土壌のなかにいる。しかし、あらゆる都合の悪いことを隠蔽してでも生き残ってゆこうとする母の強い生‐現在の力と、自らを「殺させる」ことで、脈絡なく何度でも回帰する幽霊となってでも記憶の消去に抗おうとするアジョンの潜在的な存在とは、その存在の有り様として真逆の方向にあると言える。そして『母なる証明』の驚くべきところは、この異なる存在の交錯という出来事によって成立しているということだ。

・見ていないことさえ思い出す能力

ところで、この『母なる証明』という作品は、物語の次元で看過できない矛盾がある。本来ならば、母の捜査は目撃者へとは至らず、母は真実を知ることなく、目撃者を殺害することもなかったはずなのだ。

母とジンテが夜の遊園地で少年たちに暴力的な聞き込みをしている、その同じ頃に、留置所にいるトジュンはとつぜん何かを思い出したようで、母との面会を要求する。そして、アジョンの残した携帯電話を入手することに成功した母もまた、それをもって息子のいる留置所へと向かう。母は、携帯画面にアジョンが撮影した男を一人一人示して、トジュンが事件現場で目撃した男が誰であるのか特定しようとする。トジュンは一人の男を特定し、母はその男に憶えがあった。しかし、母が会いにゆくとその男は犯人ではなく実は目撃者であり、その男によって真犯人が息子(トジュン)であったことを知らされる。

この男の語りから殺害現場の回想に入るのだが、その場面を見る限り、室内にいて一部始終を見ていたこの男のことをトジュンが見ることは不可能だとしか思えない。どうみても、トジュンはこの目撃者の顔を見ているはずがないのだ。ここで視線は一方通行であり、母がジンテの住処に忍び込み、ジンテとミナとの性行為を見ていた時、ジンテが決して母の姿を見ることが出来なかったのと同様に、室内から外の出来事を見ていた男のことをトジュンは見ることは出来なかったはずだ。

であるならば何故、見えてはいないこの男が、その時にそこにいたことをトジュンが知っていたのか。しっかりと見たことさえ(ベンツの色が白だったのか黒だったのかさえ)ろくに思い出すことの出来ないこの息子は、しかし唐突に、自分が見ること(知ること)の出来なかったはずのことさえ思い出す能力を持っている。その点でも彼は、きわめて幽霊に近しい存在であると言えよう。実際彼は、母が目撃者を殺した証拠となる「針箱」すら、頼まれてもいないのに容易に見つけ出してしまうのだ。この、想起の能力を逸脱した飛躍(超‐能力)がなければ、そもそもこの物語それ自体が成立しない。この事実はいったい何を語っているのだろうか。

ここで、その超能力的な想起によってトジュンが語っているのは、要するに「犯人は私だ」ということなのだ。私には、私が犯人であることを思い出す能力がないから、あなた(目撃者)が私にかわって、私が犯人であることを母に告白してほしい、と。「罪がまわりまわって俺のところに…」とトジュンは口にしていたが、それは他人の罪が自分のところにまわってくるということではなく、他人の口を通して、罪が正しく自分のところにやってくるということだったのではないだろうか。ここでは、罪を告白する口すら交換‐移動可能なのだ。そしてそれは、トジュンによる、「隠蔽する力としての母」への裏切りでもある。

しかしこの、自分の外へと転移した告白する口すら、母は塞いでしまった。その上、自分自身の手で、自分の記憶さえ消去してしまう。これではあたかも、「隠蔽する母」の完全勝利で幕が閉じられるかのようにさえ思われる。しかし、幽霊は現在という時間の外に潜在性として存在しつづけ、しかも映画は何度でも繰り返し観られるのだから、母が安心することは決して出来ないはずだ。

(了)

初出「ユリイカ」2010年5月号(特集・ポン・ジュノ)

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