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わたしは知りたかった/柴崎友香『ドリーマーズ』論 (1)

 古谷利裕

0.《わたし》の位置と話者の視点との細かなずれ

 連作短篇集『ドリーマーズ』所収の表題作の冒頭で、地下鉄が地上に出る場面は、一人称でほぼ現在時を語る話者によって次のように描写される。《今は真夜中で、平行して走る高速道路と車の光が、わたしの前からうしろへ、わたしよりも高いところから低いところへ、それぞれ別のスピードで動いていった》。この描写を読むかぎり、話者の《わたし》は、車両の窓から、今、まさにこの光景を眺めているかのように感じられる。しかしこの時、《わたし》は、車両と車両との間に挟まれた連結部のなかにいるのだ。《わたしは揺れに足を取られ、連結部の向こう側のドアに手をついた》。

 確かに、連結部にいたとしても、音や光の変化で、地下鉄が地上に出たのだということは分かるだろう。それが乗り慣れた路線であればなおさらだ。それに、最近の電車の車両では、連結部のドアの窓は大きくとられているから、連結部のなかから、車両の外の光景がまったく見えないというわけではないかもしれない。しかし、そうだとしても、地下鉄が地上に出て、高速道路が平行して走っていることが分かるという程度に見えることと、描写されたように明確に目に見えていることとは違う。ここでの描写の鮮やかさは、話者である《わたし》のいる位置とは、微妙にずれているように感じられる。

 連作中の「束の間」という作品では、新年明けたばかりの夜中の京都を二組のカップルが歩く場面がある。ここで、先を歩くカップルが、その少し後ろを遅れて歩く話者である《わたし》を含むカップルから見られている次の描写がある。《低い塀が途切れずに続く道を先に歩いていたゆうと八木田くんが、角を曲がって立ち止まった》。ここで《わたし》は何故、角を曲がることで視界から消えたはずの二人が《立ち止ま》るのが分かるのか。話者の視点が《わたし》のいる位置からふっと抜け出してしまうかのようだ。だが、よく読んでみるならば、ここには《低い塀》と書かれているので、角を曲がった二人の頭は曲がった後でも塀の上に出ていて《わたし》から見えているのかもしれないという風に、合理的に納得することは出来る。とはいえ、このような合理的な納得は後から付け加えられるもので、ごく普通に流して読んでいる場合、まず《先を歩いて》いる二人が《角を曲がって立ち止まった》という記述に戸惑うのではないか。

 ここに挙げた二つの違和感、《わたし》の位置と話者の視点との細かなずれは、特に言い立てるほどのことではないとも言える。普通に小説を読んでゆく時、そんなに細かいところまでは気にはしないかもしれない。このような指摘は、評論を書くという目的が先に立った、重箱の隅をつつくような「ためにする」指摘に過ぎないのではないか、と。しかしそうではないと、まず断言することから論考をはじめたいと思う。『ドリーマーズ』という表題によってまとめられた連作は、このような細かなズレによって惹起される不安、不安定感によってこそ、際だった作品となっているのだ。


1.初期作品における、力強い健康と不安定さ

 不安、あるいは不安定感という言葉と柴崎友香という作家とは、一見結びつかないようにも思われる。この作家の、特に初期作品の最大の魅力は、その楽天性、鷹揚さ、健康さのなかにあるように思われる。『きょうのできごと』のけいとも、『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』の《ぼく》やコロ助も、『青空感傷ツアー』の芽衣も、その「思い」が相手に届くことが決してないにもかかわらず、作品全体の調子に悲観的なところはまったくみられない。

 「エブリボディ・ラブズ・サンシャイン」の主人公は、失恋したことでほぼ半年の間寝て過ごすことになるのだが、しかし、普通に考えて、人は失恋したりするとまず「眠れなく」なるもので、「眠れない」ことによっていろいろおかしくなったりする。だが、この主人公は、失恋によるダメージが持続する間じゅう眠りつづけることでそれをやり過ごすのだ。辛い時や苦しい時は、とりあえずは眠ることだ。てんぱった頭でものを考えてもろくな事にはならない。このことは、この作家の小説において初期の段階から「眠り」というものがいかに重要な位置を占めているかということの証明でもある(それは『ドリーマーズ』においても、やや調子を変えつつ継続されている)。そして彼女が目覚める頃には、もう既に次の相手が待っている。この、ずうずうしいとさえ言いたくなる揺るぎない健康が、この作家の世界の根底を支えていたように思う。

 このような安定感が何によって可能となるのか。やや遠回りになるが、その点について初期作品のなかで最も作家の特徴が色濃くあらわれていると思われる「ショート・カット」という短篇に触れたい。

 「ショート・カット」では主人公の《わたし》が、高校生の頃から気になっていた「森川」に「会いたい」という強い気持ちによって、大阪から森川がいるはずの表参道に空間を超えてワープする話だ。ここでワープは奇跡的なことというよりも、きわめてあっさりと実現される。それは、友人の部屋で目覚めた《わたし》が、テレビから高校野球の東東京代表の高校の校歌が流れるのを聞きつつ、近くでまだ眠っている友人の恋人に向かって《「表参道、行きたいな」》とつぶやくだけで実現する。

 とはいえ、空間的な距離はあっさりと踏破されても、森川には会えない。それどころか《わたし》は、表参道の風景と、ワープが実現したことについて、なかちゃんという最初にワープの話を《わたし》にした友人と電話で話すことが出来たことで半ば満足してしまい、森川のことはどうでもよくなってしまったかのようですらある。《数え切れない知らない人が、表参道を行ったり来たりしていた。人込みの中から、森川を見つけられるような気がして、何度か目を凝らした。だけど、わたしはいつまで待っても、森川はここにはいないってわかっていた》。

 そもそも《わたし》は森川に会いたいのだろうか。《わたし》にとって重要なのは、「森川に会いたい」という気持ちであり、気持ちが森川の方に向いているという「指向性」そのものの方なのではないか。だから、《わたし》と同じように、誰かに会いたいという強い気持ちを持つなかちゃんと話をして、その気持ちの「指向性」を共有することこそが重要なのではないのだろうか。この作家の登場人物では、誰かが好きだという時、その「誰か」であるよりも、自分と同じように誰かに対する「思い」を持っている人と、その「誰かが好きだ」という気持ちの方向性を共有し、それを共に肯定することこそが重要となる。だからこそ、なかちゃんがすることの出来たワープを、自分も実現出来たこと、そして、ワープ出来たことをなかちゃんに伝えることこそが重要なのであって、森川に会えることが重要なのではない。《わたし》は表参道で、そのことを自覚するのだろう。そして、森川と会うことをあきらめた《わたし》は、大阪にいる友人に電話して、これから表参道に来るように誘うのだ。新幹線に乗りさえすれば、簡単に来られる、と。

 初期の作品において、ほとんど失恋ばかりを描きつづけたにもかかわらず、この作家の作品がまるで悲観的な調子を帯びることなく、常に健康で肯定的な調子を失わないのは、《わたし》にとって本当に重要なのは「思う人」であるよりも「思い」を共有する友人たちの存在であり、そのような友人たちによって《わたし》が支えられているからだと言ってよいのではないか。

 もう一つ指摘しておくべきことは、、「ショート・カット」と「ドリーマーズ」との構造的な類似についてだ。「ショート・カット」の森川の位置に、「ドリーマーズ」の夢の中の亡くなった父を置き、なかちゃんの位置に、魚住さんがいると見るならば、この二つの小説のラスト近くでの《わたし》の「納得」のあり方が、とても似ているように見えて来はしないだろうか。森川も、夢のなかの父も、《わたし》にとって遠くにいて触れることが出来ないと同時に、どうしてもそちらが気になってしまうという存在であり、なかちゃんや魚住さんとの電話での会話が、そのような距離を測りづらい存在への距離感について、ある「納得」を《わたし》にもたらしてくれる。


わたしは、森川に会いたかった。その気持ちは変わらなかったけど、今いちばん会いたいのは、さっきまで電話で話していたなかちゃんかもしれなかった。会って、もっとたくさん話したいと思った。だけどそれと同じくらい、このまま会えなくてもいいとも思っていた。

(「ショート・カット」)


「そうですね」

さっきよりも少し強く言ってみた。言ったら、安心したような気になって、同時に、そんな風に誰かが言ったら、もうあの夢は見られなくなる、と抗議したい気持ちもあった。不安な感触が薄れてしまって、きっとこんな夢は、わたしだけにある特別なことではなくて、よくあることなんだろうと思えてきた。そこらじゅうで何度も繰り返されてきたことなのだろう。だけど、総合的には、わたしはうれしいと思った。泣きそうだった。父に、話したいと思った。

(「ドリーマーズ」)


 どちらも、「森川」や「夢の父」という心理的な引っかかりに対する、ある種の割り切りを得た瞬間が描かれていると言えよう。いや、割り切りという言葉はやや粗雑であるかもしれない。引っかかりが完全に消えたわけではないとしても、何かしらの形で腑に落ちたという瞬間が、逡巡を含む形で言語化されていると言うべきだろう。ここで、引っかかりだったものが腑に落ちるのは、その引っかかりについて人に話すことによってである。そしてここで、話相手であるなかちゃんや魚住さんは、《わたし》が普段から親しくしている友人というわけではない。なかちゃんは合コンでたまたま会った人物であるし、魚住さんとは、一ヶ月か二ヶ月に一回くらい食事に行くというような関係だ。その距離を反映するように、この会話はどちらも携帯電話で、遠く離れた距離を挟んで行われている。そのような相手との会話によって、《わたし》は重要な納得を得る。

 重要な話の相手が、普段から親しい友人というわけではないこと、話が直接ではなく、距離の遠さを意識させる形で、携帯電話を通してなされること。ここで差し挟まれる微妙な距離感は、力強い健康へと常に着地するこの作家の初期の作品にも既に、ある不安定な感触が潜在的に刻まれていたことを示すだろう。以下、その不安定な感触が具体的にどういうものであるのか、そして、その不安定が連作『ドリーマーズ』の諸作品において、この作家にどのような新たな質をもたらすのかという点についてみていきたい。


2.《わたし》の移動と増殖

 『ドリーマーズ』という表題によって集められた連作はすべて《わたし》という一人称の話者によって語られる。しかし視点の《わたし》への限定は、むしろ《わたし》以外の無数の「別のわたし」への視点の移動や交換へと強く促されるという効果をもつように思われる。この連作では、《わたし》が別のわたしへと位置の移動や交換へと促され、あるいは逆にその不可能性を思い知らされるような、様々な場面が、具体的な感触や感情とともに、繰り返し鮮やかに書き込まれている。

 今、ここに限定されている《わたし》の視点に、そこからずれた《わたし》以外の視点への移動・交換へとを促すものは、時に感情的媒介であり、時に記憶による媒介であり、時に共有される場所による媒介であり、時に空間的な位置関係による媒介であり、時に人間関係における位置による媒介であるといった具合に、実に多様である。おそらく、この連作集のモチーフとしていちばんはじめにあるのは、このような《わたし》の視点が《わたし》からずれてゆく感触なのではないか。幽霊や夢といった主題的形象は、このようなずれてゆく感覚から結果として導き出されたもので、はじめから幽霊や夢があったわけではないように思われる。

 《わたし》がわたしの位置からずれてゆく感覚は、『ドリーマーズ』に収録されていない、別の、幽霊とも夢とも関係のない最近の短編からもみられることからも、それは明らかだろう。「思う人」よりも「思い」を共有する人の方に親しさを感じるこの作家の主人公の心性は、「五月の夜」(「papyrus」2009年6月号初出、『星よりひそかに』所収)では、単純には割り切れない複雑な感情を浮き上がらせもする。この作品は、主人公が恋人の部屋で《かなみ》という未知の人物からの恋人へと思いを伝える手紙を発見する場面からはじまる。つまり主人公にとって《かなみ》はあきらかに利害が対立し、敵とさえ言える人物だ。しかし《わたしはわたしの好きな人のことを、考えていた》と書かれるような感情は、そのまま、同じ人のことを考えているであろう《かなみ》と重なり、《わたし》と恋人よりも、《わたし》と(未知の、本来「敵」であるはずの)《かなみ》との距離をこそ近づけるかのようなのだ。ここで《わたし》は、自らのいる位置(利害)から浮遊させられる。《わたし》が好きなのは、「好きな人」である以上に、「好きな人のことを強く思う人」である。それが、このような位置の移動(浮遊)を促す。

 『ドリーマーズ』の最初に収録された「ハイポジション」では、《わたし》の位置の移動は、文字通り空間的な位置関係に促されることによって生じる。三階にあるカフェにいる《わたし》が地上を見下ろす時、そこに地上から三階を見上げている時の自分の視線が記憶から呼び出され、十三階にあるオフィスを見上げる時、オフィスからカフェを見下ろしている自分の視線が呼び出される。

 ここで、複数に分岐した異なる時間に存在する《わたし》が呼び出されることによって、さらにその視点が、地上の《わたし》から、今、地上に見えている矢島課長へ、オフィスの《わたし》から、見えないけど想像している「今、そこから覗いているかもしれない誰か」への移行-移項へと発展する。《わたし》の空間的位置の移行から、「想像された他人の視点」が構成される。そして、このような視点の位置の移動が、見ている《わたし》から、見られている(かもしれない)《わたし》をも分岐させるだろう。

 つまり、《わたし》が三階から地上を見たり、十三階を見たりすることが、視点の移動・交換を促し、その分離した視点が、そこから(《わたし》から)見られている《わたし》の存在を意識させ、出現させる。十三階の《わたし》と地上の《わたし》という二つの「想像的な視点」の交錯するところに出現する、三階にいる、見られている《わたし》。それは、今、ここ(三階)に居て見ている《わたし》と、二つの「想像的視線」に見られている《わたし》との間に、微妙なずれを生じさせるだろう。

 さらに言えば、そのような《わたし》の視点の移動によって生じる「見られる《わたし》」とは別に、《ちょっと前まで周りばっかり見ていた喜市が、急にはっきりした表情になってこっちに向き直って》と書かれるような、恋人が、今、目の前で「関心をもって自分を見ている視線」を見る(私を見ている他人-恋人の視線を直接見る)ことで意識されるもう一つ別の「見られている《わたし》」も出現し、二つの「見られている《わたし》」の間にも、ずれが生じているはずなのだ。

(地上から三階のカフェを見上げる《わたし》と、十三階のオフィスからカフェを見下ろす《わたし》という、記憶によって導かれた二つの《わたし》からの想像的視線によって見られている、「見られるわたし(1)」と、目の前に実在する恋人から見られている、「見られるわたし(2)」とが、今、ここに居て、それらを「見ているわたし」と分離する。)

 ただ「見る」という行為が行われるだけで、視点が複数に分岐し、移動するだけでなく、見られている《わたし》が意識され、さらにその見られている《わたし》さえ分岐する。『ドリーマーズ』において一人称の場へと限定された《わたし》の視点は、こんなにも次々と視点を分岐させ、《わたし》を増殖させる。

 おそらく「きょうのできごとのつづきのできごと」などに書き込まれていた「見られる(思われる)」ことに対する《わたし》の戸惑いは、その視線を意識することによって、見る人である《わたし》が、みるみる複数に分裂してしまいかねないという不安に起因するように思われる。この作家の初期作品における力強い健康と安定は、見る《わたし》が必然的に招き寄せてしまう複数の見られる《わたし》の発生を、信頼する友人や特別な男性の眼差しとの間に生じるものだけに留めておくことによって可能になっていたという側面もあるのではないだろうか(しかし初期作品においても、それはしばしばはみ出しているのだが)。

 「ハイポジション」では、その禁が破られたかのように、《わたし》はみるみる複数に分岐しはじめる。そして《わたし》の分裂は、必然的に一個の主体として世界と接する接点を危うくするだろう。「五月の夜」の《わたし》が、自分の利害から浮き上がってしまうように。世界に遍在することで《わたし》は、世界との明確な接点が怪しくなり、つまり世界のなかで自分が占める明確な位置(利害)が失われ、外的な状況との参照関係もあやうくなる。《わたし》は、どのわたしの位置で世界と触れているのか分からなくなる。だから、《わたし》の複数への分裂は、逆説的に《わたし》を世界から切り離されて閉ざされた空間に閉じ込めるという側面もある。「ハイポジション」には、《窓のないカプセルみたいな四角い空間》である風呂場で聞いたNHKのラジオニュースについて、《この狭い薄黄色い空間だけに、わたしにだけ聞こえてるんじゃないか》という不安が書き込まれる。しかしここでは、そのような《わたし》の不安は、恋人の喜市がそのニュースの話に興味をもつことによって現実との接点、現実へと着地する点を得て、大きな不安へは発展しない。《わたし》を密室から抜け出させるのは、《わたし》が見た(聞いた)ことを人に話すことと、その話に誰か(喜市)が興味を示すことによってである。

 「夢見がち」という作品の《わたし》は、友人たちと焼き肉を食べにゆくために電車に乗って大阪駅付近を走行している時に、あるカフェのことを想起する。


ちょうど、電車を眺めるためにときどき行くカフェのあたりにさしかかるところじゃないかと思って、わたしも視線をさまよわせた。高架の線路とちょうど同じ高さに当たる、ビルの三階にあるそのカフェは、線路のすぐそばにあって電車が今までに見たことがないくらいよく見えるということに、去年の秋にその隣にあるクラブに行く前に晩ごはんを食べにきて偶然気がついた。そのときは夜で、窓の外が度々青白く光るので雷かなと思ったら、パンタグラフが架線をこするときに出る火花だった。いつも乗っている電車の天井の上であんなにきれいな閃光がきらめいていることを、たぶんみんな知らない。

(「夢見がち」)


 ここでは、電車がある地域に差し掛かったことで、そのあたりにあるはずのカフェが思い出され、そのカフェの在処が目で探られる。そしてその行為を通じて、カフェから見られる電車の姿、そしてパンタグラフの閃光が思い出され、今、自分たちが乗っているこの電車の車両の上にも、同じような閃光がきらめいていることが意識される。つまり想像された視線によって見られた電車のイメージが結像される。しかし、この「夢見がち」で描かれている時刻では外はまだそれ程暗くはないはずなので、この閃光のイメージは正確には、今、ここには当てはまらない。さらにそもそも、そのカフェから見える電車は《京都線》であって、今、《わたし》たちが乗っている《大阪環状線》ではない。だから、今、ここでの知覚と、かつての記憶の想起が入り交じって構成された「この場面のモンタージュ」は、現実としては正確ではない。それは、現実から少しだけ別の世界へとずれ込み、やや夢に近づいているイメージとも言える。このように、《わたし》の視点の複数への分岐は、それぞれの視点を結び合わせて、新たなイメージのモンタージュをも成立させる。


あのカフェの窓際の席から見渡せる、緩やかにカーブした二本の線路の茶色とその向こうに見える観覧車の赤が頭に浮かんだ。それでなんとなく、あの席に座っている自分が見えないはずのこのオレンジ色の電車を見ているところも想像してみた。

(「夢見がち」)


 ここで想像されるイメージは、《わたし》の頭の外側にある現実とは正確に対応しないが、かといって、《わたし》が好き勝手に思い描いた空想でもなく、実際の知覚-記憶を素材にモンタージュされたものだ。それは現実から別の世界へとずれ込んだ虚構ではあるが、ここではまだ、現実との妥当な参照関係は失っていない。


3.《わたし》はそれが知りたい

 他人の視線は他人のものであるが、しかし半ば私のものでもある。向かい合って話している相手がどこを見ているのかは、相手の目を見れば分かる。あるいは、相手がいきなり視線を移動させると、私も思わずそれを追いかけて、そちらの方を見てしまう。視線は多分に自他未分化なものとしてある。目に限らなくても、誰かがカメラを構えていると、何を撮っているのかとレンズが向けられている方向を見てしまう。とはいえ、他人が何を見ているのかはその視線で分かるが、そこで他人の頭のなかで結像されているイメージそのものまではその眼差しによっては知ることが出来ない。他人の視線は半ば私のものだが、その背後にあるもの、結像されたイメージ、そのイメージと共に想起されているもの、そのイメージとともにわき上がった感情までは、私のものではない。

 「寝ても覚めても」という作品では、地上二十階にあるカフェで、高所恐怖症の北井さんという広報誌の記者からインタビューを受けている《わたし》は、記者の背後にある窓から、台風が接近していて急激に変化する空や新宿の様子を見ている。


「気になりますか? お天気」

北井さんの声で、視線を戻した。眼鏡に、わたしの背後にある反対側の窓の外の光が反射していた。

「すみません、あの」

わたしは、眼鏡の奥の細い目を探りながら言った。

「あのー、晴れてたらここから富士山見えるんですよ」

(「寝ても覚めても」)


 北井さんは、視線によって《わたし》が窓の外を見ているのを知り、台風のことを気にしているのだろうと推測するのだが、《わたし》は、天気がよければそこから見えているはずの富士山のことを想起していた。《わたし》のその言葉によって、北井さんは、目の前にいる人物の頭のなかでは、今、見えてはいない風景が想起されていることを知る。それは、言葉を交わすことによってしか知り得ないことだ。《わたし》は、北井さんの眼鏡に反射する光によって、自分の後ろ側に広がる、北井さんの方から見えるはずの、しかし、高所恐怖症である北井さんは見ていないと思われる、風景の広がりをあらためて意識する。そこまでのレベルでは、視点は交換可能であり、実際に北井さんと《わたし》の視点は交換され、《わたし》は分岐しているようだ。

 しかし、北井さんは《わたし》の背後の光景を見ることができない。北井さんがそれを見ることのできない人だということはその言動から理解されるが、高いところからの風景に魅惑される《わたし》には、「高所恐怖症」であることがどのような経験を構成するのかを実感として理解できない。そしておそらく《わたし》は、それがどういうことなのか知りたい。この小説に北井さんが登場し、その行動が細かく描写されるということは、そういうことを意味している。視点の移動、交換は可能であり、それは実際に頻繁に起こるが、しかしその視点の背後にあるものは不可知である。しかし《わたし》はそれが知りたい。この「知りたい」という気持ちの動きが、この連作の語りを支えているひとつの大きな力の源泉であるように思われる。

 「ドリーマーズ」で、ロンドンから帰ったばかりで《周りを行き交う人をまだ珍しいように見て》いるえみ子を見て、《わたし》は次のように感じている。


「なんか、すごいことあった?」

「すごいことって?」

聞き返しながらも隣の競馬新聞のおっさんに気を取られているえみ子に、周りのものがどんな風に見えているのか、わたしは知りたかった。えみ子の頭のうしろに、わたしが言ったことのない場所が広がっていて、えみ子は常にその場所の広がりと記憶を持ちつづけたまま、わたしやおっさんや高島屋や信号機を見ているのだと思った。わたしの中に昨日からは、あの巨大な船がずっとあるように。

(「ドリーマーズ」)


 ここでも、取りようにによっては鬱陶しいまでの強さで響く《わたしは知りたかった》という感情こそが、この場面が描写されること、この場面を語り、立ち上げようとすることそのものを惹起している力のように感じられる。そして、ここで《知りたい》という強い気持ちを惹起させているものは、作中で《わたし》が昨日見た、巨大な船の衝撃であり、それについて誰かに「伝えたい」という強い感情でもあろう。この作家において、「知りたい」と「言いたい」とは別のことではなく、未分化なものとして一体化しているのだ。知りたいと言いたいとが、ほぼ同一のベクトルとして存在している。知りたければ知りたいほど言いたいし、言いたければ言いたいほど知りたい。だからこそ、「知りたい」という感情が、描写を、場面を、語りを、たちあげるための力として作用する。

 勿論、ここで《わたし》が知りたいのは、ロンドンであった《なんか、すごいこと》などではない。ロンドンの記憶とともに、《わたし》が見ているのと同じ、おっさんや高島屋や信号機を見ているえみ子に「今、見えているもの」そのものであり、その感触である。《わたし》は、えみ子が、おっさんを、高島屋を、信号機を、そして《わたし》を「見ているところを見る」ことによって、その背後にあるもの、えみ子の記憶と混じり合った風景のことを考える。えみ子が見ている、《わたし》を含んだこの風景と、《わたし》が見ている、えみ子を含んだこの風景とは、分離している。しかし、《わたし》が見ているこの風景には、「えみ子が《わたし》を含んだこの風景を見ている」ところが含まれる。つまり、風景のなかに、それを見ることで《わたし》が考えた「えみ子の頭のなかのx」も含まれているということだ。《わたし》の側からは、「えみ子の頭のなかのx」は不可知であり、計り知れないが、しかしその存在は空項「x」として想像される。そしてその「x」の一部が、思わぬ方向からぽろっとこぼれ落ちるところまで、この小説には書き込まれている。

「すごいこと。異国の地での発見ていうか」

「なんやろ、人間はたいして変わらんなってことかな」

「良い意味で?」

横断歩道の手前で、二人の警官が通りかかった自転車を調べているのが見えた。乗っていた若い男は、面倒そうな顔をして誰かに電話をかけた。わたしがそっちを見ているのに気づいたえみ子は、振り返って彼らの姿を確認し、それから大きな目でわたしを見て言った。

「そういうんじゃなくて、もっと全体的な。なんとなくやけど。まあ、違うとこは違うしね。それで、結婚するかも」

(「ドリーマーズ」)


 ここで唐突に宣言される《結婚するかも》という言葉は、それ以前の二人のやりとりとも、二人が見ている、警官が自転車を調べている光景とも、何の関係もなくぽろっと出てくる。なにしろえみ子の結婚の相手は、ロンドンの人でさえなく《台湾の人》であるというのだから。しかし、外から見ると何のつながりもないように見える、会話の流れや光景から、いきなり《結婚》という発言が出てくるこの「謎のつながり」こそが、えみ子の頭の中の「x」の一部を反映するものであるはずなのだ。ここでの会話の流れと、振り返って見る警官が自転車を調べている場面とによって、えみ子の頭のなかに、結婚するという事実、あるいはそれを《わたし》に言いたいという気持ちが惹起されたということは、その間に何かよく分からないつながりが、よくわからないまま、しかし明確にあるはずなのだ。

 《わたし》の視線を追って振り返れば、えみ子にも《わたし》が見ているのと同じ光景が見える。しかし、えみ子の頭の中にある「x」は、えみ子の視線を追ってみても見ることは出来ない。それは、目の前に広がる、実際に存在する場所、その風景のようには共有されないし、確認も出来ない。しかし《わたし》はそれを知りたいし、それについて伝えたい。そしてそのような「x」は、まなざしによってではなく、誰かと話すことによって、その一部を推測するようにして知ることしか出来ない。『ドリーマーズ』という連作で、幽霊や夢が主題として全面に出てくる理由は、おそらくここにこそある。相手の視線を追っても見ることの出来ないものについて、《わたし》は知りたいのだ。だから、その話がしたい。


(2)へつづく

初出 群像2010年2月号

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