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わたしは知りたかった/柴崎友香『ドリーマーズ』論(2)

古谷利裕

4. 夢の共有可能性と不可能性

 今、向かい合っている誰かが何を見ているのかは、その眼差しを追って、そちらを見れば、私にも知ることが出来る。私の見ているものを、誰かにも見てもらいたければ、そちらを指さすなり、その場所の地名を告げて是非見るように薦めればよい。しかし、そこで誰かが見ているものが、夢や幽霊であったら、私には、そのまなざしを追ってみてもそれ見ることが出来ないし、私の見たものを、誰かに見てもらうことも出来ない。それは共有されない。共通した地盤を形成できない。そこで見られたものは、安定した地平へと着地できない。

 《わたし》はそれを見たい。あるいは、《わたし》はそれを見ることが出来ないことが不安だ。「寝ても覚めても」のラストでは、《わたし》のその不安の感情の最も乱暴な発露が書き込まれている。台風の《雨と風の音が窓に当たる音》で目覚めた《わたし》は、隣に眠る良介を見下ろし、《夢を見ているのかな》と思う。そして《わたし》は、眠っている良介のまぶたをこじ開けるのだ。


わたしは両手を伸ばし、右手は右側から左手は左側から、良介の顔を包むように当てた。わたしの手よりも、良介の顔の温度のほうが低くて、ほんの少し冷たかった。わたしは親指を、彼のまぶたに添えた。それから、無理矢理上に押し上げた。

まぶただけ開いて眠ったままの目が、一瞬、見えた。それからすぐに、目は暗闇を見て、わたしを見た。良介は筋肉の反射反応のように素早く強く目をぎゅっと閉じて、それからまた開けて、わたしの両手に包まれたその顔からわたしを見た。

「びっくりした」

(「寝ても覚めても」)


 こじ開けられたまぶたの下の目が、《暗闇を見て、わたしを見》るのを、《わたし》は見ることが出来る。しかし、その前に《まぶただけ開いて眠ったままの目》が何を見ていたのかは、当然のことだが、まぶたをこじ開けたとしても《わたし》には見ることが出来ない。しかしここで、《わたし》に強引にまぶたをこじ開けさせた不安は、《わたしの両手に包まれたその顔からわたしを見た》という良介の「視線」によってとりあえずは回収され、《わたし》は一定の満足を得ているように思われる。

 『ドリーマーズ』の連作中では、《わたし》が、眠っている男性の隣に横たわるという場面が三度あらわれる。一度目は「寝ても覚めても」の初台でインスタレーション作品を観る場面であり、二度目は、同じ「寝ても覚めても」の前述した引用場面で、三度目が「ドリーマーズ」の妹夫婦の部屋のこたつの場面だ。この三度反復される場面で、《わたし》はいつも隣で眠っている男性の様子に興味を引かれているようだが、そのレベルがそれぞれ異なる。

 一度目の場面では、暗闇のなかで、天井に設置されたスクリーンを天井からの光を浴びながら床に横たわって見るというインスタレーション(坂本龍一+高谷史郎「LIFE-fluid,invisible,inaudible....」だと思われる)の展示場で、《わたしの頭の上方向》に《わたしと直角になる位置》で横になっている男性が《たぶん、本当に寝てい》ることに注意を向けている。彼が《本当に寝てい》ることは、外からの観察だけでも、《目を閉じて、静かな呼吸が一定のリズムで聞こえて》いること、そして次第に《呼吸が、振動を伴いはじめ、彼のいびきはどんどん大きくなって》ゆくということから分かる。ここでも、この眠っている男が夢を見ているのか、いないのか、見ているとしたらどんな夢なのかは、外側からは分からない。しかしここでの《わたし》の興味は表面的なものに留まり、彼については《穏やかな気持ちなのだろうと》推測する以上の関心はないようだ。

 むしろここで《わたし》は、一見、暗闇につつまれてそれぞれが互いに話すこともなく自分の内部に閉じこもっているように見えて、実は微妙に他人からの視線が気にかかり、他人への暗黙の配慮が支配するこのインスタレーション作品の内部で、男が堂々と周囲の視線を気にせずに自分の世界に入り込んで眠っていられるという、そのことにこそ、興味を感じているように思われる。ここで《わたし》が、《死んだあとの暗闇に、いつの間にかどこかで間違えて来てしまっているのじゃないか》という感覚に支配されることなく、自分を《生きていることにすることができ》ているのは、《新宿まで来る電車のなかで始まった頭痛》のせいだけでなく、微妙に絡みついてくる他人の視線のためでもあるように読める。

 三度目の「ドリーマーズ」の場面では、酔って妹夫婦の部屋へやってきた《わたし》が、こたつで眠っている妹の夫、マサオの隣に横になる。この三度目の場面が他と異なるのは、ここでは《わたし》も一緒に眠ってしまうという点だ。そして二人共、夢を見る。勿論、二人は、別の夢をそれぞれに見るのだが、しかし、同じ場所で眠って見た夢には共通点があらわれる。どちらの夢も阪神の「金本」と関係しており、それは二人が眠っている時にすぐ近くにあったつけっぱなしテレビに金本が出ていたことが原因だと思われる。ここでは、同じ「ドリーマーズ」のラストで書き込まれている、《わたし》とえみ子とが同じ風景を共有しながらも、それをそれぞれに違った背景のもとにそれを見ていることの反転であるかのように、それぞれ別々に見られた夢に、同じ場所で眠ったことのしるしが共に刻まれていることが書かれている。

 二人の夢の共通点は、ただ「金本」だけではない。二人共、その夢は眠っている場所の光景がほとんどそのまま反映されたものだという点も共通している。《わたし》の夢には《森ちゃん》と《マサオ》が登場するが、森ちゃんは、その日のうちに妹夫婦の部屋へ訪れることが予告されていたし、マサオは隣で眠っていた。マサオの夢に出てくるイラクへの派兵は、金本の後、テレビのドキュメンタリーで流れていたものだ。ここまでのレベルでは、二人の夢は交換可能であり、《わたし》の夢がマサオの夢でもあり得たし、マサオの夢が《わたし》の夢でもあり得たかもしれない。

 しかし二人の夢にはその場所のあり様には還元されない要素もあり、マサオの夢でそれは《山本んちの猫》「ドーリー」についてであり、《わたし》の夢ではそれは亡くなった父である。目覚めた後、《わたし》は、妹や森ちゃんと、マサオは《わたし》や森ちゃんと、見た夢について話し合うのだが、その時に《わたし》は、夢に出てきた父については彼らに話すことをしない。

 夢については、実在する風景とは違って、眼差しや指さすことによって、あるいは地名を示すことによって指し示すことは出来ない。それは、夢を物語り、夢について話すことによってしか伝えることが出来ないし、知ることが出来ない。実際、二人の夢の共通部分や異なる部分が浮かび上がったのは、《わたし》、森ちゃん、妹、マサオらによる会話によってであった。だから、《わたしは知りたかった》の強さがそのまま「わたしは言いたかった」であるような《わたし》において、この部分の会話で父について言わない(言えない)ことは、強い印象を残すことになる。

 《わたし》は夢のなかで父に話しかけることが出来ない。話しかけてよいものなのかどうか分からない。だが《わたし》の夢の中で、マサオは父に話しかけていた。そして目が覚めた現実のマサオは、夢の話を一通り終えた後、ぽつりと《「さっき、誰かに話しかけてた、ような気がする」》と言う。この時《わたし》には、《わたし》の夢のなかのマサオと、今、目の前にいるマサオとが繋がる回路が開けたかのような感じが生まれるだろう。それは《わたし》の夢とマサオの夢が触れた一瞬があるという感触であり、二人の夢で亡くなった父が共有されたとすれば、夢の中の(死んだ)父が現実と繋がっている回路があるかもしれないということでもある。しかし《わたし》は、《夢で? と聞こうか迷っているあいだに》、その機会を逃し、回路は開かれないまま可能性が閉じられる。ここでの気後れもまた、《わたしは知りたかった》、《聞いてくれてうれしかった》と明確に言い切る《わたし》には特殊なこととして印象づけられる。

 ここでの躊躇は、《わたし》が、亡くなった父を(未だ死に切っていない存在として)現実につなぎ止めておきたいのか、それとも、死の側へと送るべきなのか、迷っているということではないか。《わたし》とマサオの夢の回路が繋がり、それによって父が(夢の実在として)蘇ることを《わたし》はどこかで望みつつも、それはしてはいけないことだという思いもある、ということではないか。《わたし》にその迷いがある以上、夢の父の話を、マサオや森ちゃんにすることが出来ない。そして、その話をしない限り、《わたし》の内部では、亡くなった父はまだ辛うじて現実との接点を確保しているはずだ。だから、ラストで《わたし》が父の話を魚住さんにするのは、相手が魚住さんだということも勿論あるだろうが、その時既に、ある程度《わたし》の側でも腑に落ちる準備が出来ていたということでもあろう。

 まなざしを追えば、その視線の対象を知ることの出来る現実的な知覚と異なり、夢はあまりにあやふやである。実は、現実も夢も、感覚として与えられるものの質や強さとしては基本的に違いはなく、つまり感覚それ自体だけで現実と夢とを峻別することは本来出来ない。だからこそ夢はいっそうあやふやなのだ。ある感覚が現実だという判断に着地出来るのは、それが普通に現実と呼ばれる妥当性を確認出来るかということによるだろう。ある程度の恒常性、再帰性が認められ、因果関係に参照可能であり、他者と共有される地盤をもつこと等々。

 ということは、夢のあやふやさを放置すると、「これは夢ではない」という形で規定される「現実」という位置さえもあやふやとなる危険がある。だからこそ、『ドリーマーズ』の諸作の多くの場面においても、夢は現実からのある種の浮遊を示しながらも、何かしらの形で着地点が示されていた。「寝ても覚めても」の良介の夢の不可知性は、《わたし》の手に包まれた良介のまなざしが《わたし》を見ることによって、「ドリーマーズ」の夢は、夢についてみんなで語り合うことで、回収され、とりあえず安定する着地点を得ていた。しかしここで、夢の父だけは着地点を得ないまま、あやふやな位置に留まる。父のイメージは、夢という位置に確定的に着地せず、つまりそのことによって、現実にまで夢の感触が忍び込んでくる。現実と夢との境目がしっかりと確定出来なくなる。《わたし》の夢のなかのマサオが現実のマサオと重なってしまったかのような、《「さっき、誰かに話しかけてた、ような気がする」》というマサオのセリフこそが、その徴候であろう。


5. 場面として普通だけど、位置付けが分からない

 『ドリーマーズ』の連作では、夢や幽霊の場面よりも、現実(とりあえず「現実」と考えることの出来る)場面の方が、より不安定であり、着地点があやふやであることが多いように思われる。例えば「クラップ・ユア・ハンズ」は幽霊が出てくる話だが、幽霊の場面より、《わたし》がポテトチップスを買うためにスーパーに行く場面の方が不思議で非現実的な感じがする。《わたし》がスナック菓子の棚まで歩いてゆく途中、卵の棚の前の通路の真ん中で《もう小学校に行けそうな、体の大きな子ども》が座り込んで大声で泣いている。


こんなに泣き声が響き渡っているのに母親は探しに来ないのだろうかと店の奥の方を覗いてみると、同じくらいの大きさの男の子が、とても早いスキップ、というか横向きだったので変則的なサイドステップでこっちへ来るところで、あっという間に接近してわたしの腰のあたりに思いきりぶつかった。

「いてーな」

と、言ったのはわたしではなくその子どもで、もちろん謝らないで、泣いている男の子の手を無理矢理引っ張ると、引きずるように反対方向へ歩いていった。

「いてーな」

わたしは、真似して言ってみた。隣にいたおばさんが、ほんとに最近の子どもはねえ、と言った。籠には高野豆腐が入っていた。

(「クラップ・ユア・ハンズ」)


 この場面の夢のような不思議な感触は、まず、小学校に行けそうなくらいの年齢の子どもがスーパーの通路に座り込んで泣いているという場面そのものの非常識さにあるのだろうが、それだけではない。当然いるはずの母の不在によって惹起される不安。もう一人の子どもの出現の唐突さとその動きの不自然さ(変則的なサイドステップ)。その子どもが「同じくらいの年齢」ではなく《同じくらいの大きさ》と、あくまでサイズとして捉えられていること。《隣にいたおばさん》の出現の唐突さと、その籠のなかにある《高野豆腐》への注目の意味不明さ、等による(ここでいきなり書き込まれる《高野豆腐》はほとんど衝撃的とさえ言えるほど印象的だ)。つまり、この出来事の記述のされ方、《わたし》のこの出来事に対する距離の取り方の不思議さが、この場面を夢のように感じさせている。さらに、この場面が「クラップ・ユア・ハンズ」という作品の他の部分との関連性が薄く、この場面そのものの出現が唐突であることも大きいだろう。

 この出来事は《わたし》に、子どもの頃に見た怖い夢を思い出させる。誰もいない夜の道で女の人がすごい早さで横向きに近づいてきて、《わたし》にぶつかり、耳元で《まだ来ないの?》と言う。つまり、ここではない向こう側へと誘われる。「クラップ・ユア・ハンズ」において、幽霊を見てしまうことそのものは恐怖ではなく、この夢のように、向こう側へと引っ張っていかれてしまうことこそが恐怖なのだ。非現実的な出来事そのものが恐ろしいのではなく、現実的な出来事がそのまま「向こう側」に引っ張り込まれてしまうことが恐ろしい。世界の細部の一つ一つが、現実を構成する意味の関連の網の目から外れてしまうこと、記憶とのつながり、親しい人との共通性を剥奪されて、地盤を失い、位置を失ってしまうことが恐ろしいのだ。

 世界の細部は、それが安定した、紋切り型の意味的な関連からはみ出した時にこそ、その輝きをみせるのだが、しかしそこから完全に外れ切ってしまえば、一転して世界は恐怖の場所(向こう側)になるしかない。「クラップ・ユア・ハンズ」では唐突にぶつかってくる大きな子どもや、籠のなかの高野豆腐こそが、《わたし》にとって親しい、世界の意味的な関連の内部に位置づけられない不穏なものであり、それに比べれば幽霊はずっと《わたし》の世界と親しい。

 付け加えるならば、『ドリーマーズ』において向こう側へ誘われる恐怖の徴候は、多くの場合「子どもの気配」と共に顕在化するように思われる。「ドリーマーズ」の《商業施設のデッキ》には、姿のみえない《子どもが泣き叫ぶ声がずっと聞こえて》いるし、巨大な客船の、マジックミラーで中の見えない展望デッキの内部に《誰かいそうだ》と感じる《わたし》は、《いるとしたら子どもだ》と感じている。「束の間」の、お寺らしいが何なのかはよく分からない場所でよく分からないまま何故かぜんざいをごちそうになる場面でも、子どもの足音が《もつれながら近づいて》きたり、《笑い合う声》がするが、子どもの姿は見えない、など。ここで子どもは、世界の向こう側への反転の徴候であるかのようだ。

 そして、後者の「束の間」のこの場面も、場面そのものとしては普通なのに、それがどこに着地するのかまったく分からない不穏な場面なのだ。一体「そこ」はどこなのか、何故、見ず知らずの人にぜんざいをふるまっているのか、なぜ《わたし》たちはそれを何の疑問もなく受け入れるのか、それらの説明は一切ない。そしてこの場面は、冒頭に引用した、先を行く二人が《角を曲がって立ち止まった》という、《わたし》が幽体離脱したかのような描写のすぐ後にある。

 なにより、連作『ドリーマーズ』の最後に置かれた「ドリーマーズ」という作品こそが、その小説全体が、まるで「クラップ・ユア・ハンズ」のスーパーの場面や、「束の間」ぜんざいをごちそうされる場面のように、一つ一つの場面としては特に謎はないのに、その場面がどこに着地するのかよく分からない、不穏な気配を発しているように思われる。「ドリーマーズ」は、最初に引用した通り、その冒頭からいきなり《わたし》が幽体離脱しているかのような描写から始まっていた。《電車が進むのと逆の方向に動いているから、わたしは速くて軽かった》と書かれる《わたし》の視点は、実際その身体からしばしば浮き上がっているようだ。


(3)へつづく

初出 「群像」2010年2月号

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