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読書計画 イギリス文学 ブロンテ姉妹 その1




 19世紀半ばのイギリスで、シャーロットとエミリーとアンのブロンテ三姉妹が、小説家として優れた作品を残しました。作品として出版されたのは、シャーロットとエミリーとアンの三姉妹の各々の小説ですが、シャーロットの弟のブランウェルも最初は三姉妹と一緒に物語を書いていました。ブロンテ姉妹の小説でよく読まれているのは姉のシャーロットの『ジェイン・エア』と妹のエミリーの『嵐が丘』で、ともに1847年の出版です。しかし、同じ年に末の妹のアンも『アグネス・グレイ』という小説を書いています。最初は三姉妹がそれぞれ仕上げた長編を三つ合わせて出版社に持ち込んだのですが、その時の作品はシャーロットの『教授』とエミリーの『嵐が丘』とアンの『アグネス・グレイ』でした。このときには、シャーロットの作品だけ拒否されて妹たちの二作品が合本で出されました。シャーロットは、出版社からもっと波瀾万丈の小説を書くようにと勧められて『ジェイン・エア』を書き上げて、すぐに出版されて大成功しました。そのような経緯から『ジェイン・エア』と『嵐が丘』を読むためには、『アグネス・グレイ』と『教授』を読めばより理解できます。なぜシャーロットの『教授』だけ拒否されたのか、有名な他の二作品とアンの『アグネス・グレイ』はどう違うのか、『ジェイン・エア』は『教授』とどう違うのか、などという疑問を持ちながら、当時の作品の受け入れられ方や後の評価の結果からではなく、改めて作品から直接見直していくと、普通とは違う解釈が出来ると思います。

 ブロンテ姉妹は全部で6人兄弟でした。幼い頃に母親を病気で亡くし、その後に入学した寄宿学校で二人の姉が結核にかかり亡くなってしまいました。寄宿学校での虐待や衛生環境の悪さによるチフスや結核の発生は『ジェイン・エア』の中で描かれています。寄宿学校には末のアンは入学していませんでしたが、結局はシャーロット以外の全員が後に結核で亡くなっています。残された四人の兄弟はともに文学に興味があり、ともに空想の物語を創作したり、詩作を行ったりしました。三姉妹は学校を終えると女性が自立する唯一の手段であった家庭教師の仕事につきました。家庭教師の生活に関してはシャーロットとアンの小説の中で描かれています。三姉妹は社会的な地位の低い家庭教師としての境遇を抜け出すために学校を作ろうと計画しました。教師として必要なフランス語を身につけるためにシャーロットとエミリーはベルギーに留学しましたが、資金提供者の叔母が亡くなり直ぐに帰国しました。シャーロットはそれでも再びベルギーに行きましたが、渡航先の寄宿学校の校長への恋が破れて帰国します。ベルギーの学校に関してはシャーロットの『教授』で詳しく描かれています。三姉妹は副牧師だった父親の務める牧師館で学校を開きますが、生徒がひとりも集まらず失敗してしまいます。学校を開く話はシャーロットとアンの作品で描かれていて、ともに成功する話になっています。三姉妹はとりあえず文学的な創作を続けましたが、シャーロットがエミリーの書いた詩を見て大変な才能に気がつき三姉妹の合作で詩集を出すことにしました。偽名で自費出版された詩集は全く売れませんでした。三姉妹は詩と同時に長篇小説を手がけていて、それを詩集を出した出版社に持ち込みますが、小説は扱っていないと断られ、シャーロットは大手の出版社に三つの作品を持ち込みました。そこで妹たちの『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』がまず出版社に受け入れられましたが、出版までに1年かかりました。『嵐が丘』と『アグネス・グレイ』はあまり評価されませんでした。シャーロットが新しく書いた『ジェイン・エア』は同じ出版社から同じ年に出版されましたが、こちらは大評判になりました。アンは次の作品『ワイルドフェルホールの住人』を翌年の1848年に出版しました。しかし、その年に、荒んだ生活をしていた兄弟のブランウェルが急死し、結核が発症したエミリーが同年に亡くなりました。エミリーの作品は『嵐が丘』だけです。その翌年にアンも結核にかかり療養先で亡くなりました。アンの作品は『アグネス・グレイ』と『ワイルドフェルホールの住人』だけです。シャーロットは小説家として成功したために、実名で活動を始め、ロンドンでサッカレーやエリザベス・ギャスケルなどの文学者と交流しました。長篇小説では、1849年に『シャーリー』、1853年に『ヴィレット』を出版し、1854年に結婚し、翌年に妊娠中毒症で亡くなりました。結局、三姉妹はともに若くして亡くなったのですが、残された作品はいずれも傑作となりました。シャーロットが亡くなった後に、親しかったエリザベス・ギャスケルが『シャーロット・ブロンテの生涯』という伝記を書きました。ブロンテ姉妹の評価はこの伝記を通してもっぱら行われるようになりました。

 シャーロットとアンの作品はいずれも自伝的な要素の多いものですが、エミリーの作品は全く創作であり、むしろ文学史的な背景が濃厚であり、そのあたりは比較していくとよくわかります。『嵐が丘』はゴシック小説の影響が濃厚です。シャーロットとアンも文学史的な背景とは無縁でないのは当然ですが、19世紀当時の新しい小説を模索してあえて自伝的な要素に土台を置いているのに対して、エミリーはどちらかというと古典主義的で、文学的な枠組みの扱い方が独特で、むしろフォークナーなどの20世紀の新しい文学を先取りしている部分もあります。シャーロットの作品は『ジェイン・エア』では自己主張の強さが意図的に際立っていて、アンの作品はそうではないのですが、シャーロットの最初に書かれた『教授』は、語り手や登場人物の関係が複雑で、『ジェイン・エア』のような直接的な描き方ではないので、当時評判になった前面に出された女性の自己主張は、小説家としての本意ではなかったのかもしれません。『ジェイン・エア』では典型的なゴシック小説の背景や、無理のある遭遇もあからさまに導入されていますが、『教授』にはそのようなものは皆無です。それでも『教授』は物語として幅が広くて細かいところで不都合があるのですが、その点でアンの『アグネス・グレイ』は住み込みの家庭教師の現実描写が安定していて、無理せず書かれた作品になっています。ただ、シャーロットの『教授』とアンの『アグネス・グレイ』はともに私設の学校が成功する話になっていて、実際にはうまくいかなかった学校設立に関する願望を反映しています。『教授』では学校はベルギーで華々しく成功するのですが、『アグネス・グレイ』は控えめで、母親の経営能力に依存して田舎で細々と成り立たせる学校というところでは、やはり最初から二人の創作の傾向が分かれています。しかし、願望が反映している部分では共通しています。『教授』ではベルギーでの会話の多くがフランス語で書かれています。またベルギーに対する差別的な台詞が多く出てきます。このあたりが、拒否された原因ではないかと思われます。作品として劣っているわけではなく、むしろ小説としての構成は『ジェイン・エア』よりも複雑です。シャーロットは生前に何度も出版しようと試みて出来なかったようです。そのときに書いた序文からは、作者が『教授』の方をより自信作と考えていたようにうかがえます。はっきりとは書かれていませんが、『ジェイン・エア』は『教授』が受け入れられなかったための妥協の産物だったように見えます。シャーロットの死後に『教授』が出版されたのは、エリザベス・ギャスケルによる伝記が評判を呼んだためなのですが、そのためもあり、彼女によるこの作品に対する低い評価が定着してしまったようです。

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