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花神(上)司馬遼太郎
日本人を駆りたてたペリーの蒸気船
この時期前後に蒸気軍艦を目撃した
民族はいくらでも存在したはずだが
どの民族も日本人のようには反応しなかった。
ものづくりの原点
島津斉彬、鍋島直正、伊達宗城
という
三人の代表的危機論者が、
「自分もあれをつくろう」
と、戦慄とともに決断したことが、
この時期にわきおこったエネルギーの
すさまじさを象徴している。
驚嘆する西洋人「日本滞在記」
事実、三年後にかれらのひきいるこの三藩が、
相前後してそれをつくることに成功したことは
大げさにいえば世界的奇跡といっていい。
「信じられないことだ」
といって驚嘆した最初の西洋人は、
これよりすこしのち、幕府がオランダから
海軍教師としてまねいたオランダ海軍二等尉官
ファン・カッテンディーケである。
かれらは本物の蒸気船を見たこともないのに
「そのエンジンは、フェルダム教授の著書にある
図面のみをたよりにつくったものである」と、
その著「日本滞在記」に書いている。
提灯のはりかえを生業とする男が軍艦をつくる
「嘉蔵」といった。
「御ちょうちん はりかえします かぞう」
と書かれている。
たぐいまれな器用なだけに、その貧乏もちょっと類がない。嘉蔵は下帯をひとつしかもってないといわれた。⋯⋯嘉蔵はいま四十二の厄だが、むかしこの男にも女房がいた。あまりの貧と、嘉蔵の世渡り下手にあきれ、一児を置いて実家へ帰ってしまった。⋯⋯
「すぐ嘉蔵を呼べ」桑折は命じた。
十五日、経った。嘉蔵はその間、家に引きこもりであった。黒船は見たことがない。まして船舶用機関などみたこともなく、一般の蒸気機関というものについても想像のてがかりもないのである。
が、嘉蔵は考えぬいた。ただ考えるだけでなく、かれの想像力をもって、一個の機械をこしらえてみた。
市郎左衛門はすぐ藩庁へかけつけた。それを松音図書と桑折左衛門のふたりの家老がみて、驚嘆した。
高さ二尺五寸、横一尺、奥行七寸ほどのほそながい箱のようなものに車輪が四つついている。その箱のなかが機械室で、大小の歯車がいくつとなくかみあっており、そのうちの心棒を一回転させると車輪が三回転するというしくみになっていた。こころみに松音図書が心棒をまわすと、「あっ」と、桑折が声をあげたほどの速さで、箱車が走り出した。やがてとまった。どこまでも走らないのは動力がないからで、この伝動装置に動力さえあれば、もうりっぱに蒸気機関である。「このようなものでございましょうか」嘉蔵は、蒸気機関という動力を生む実態を知らないから、黒船は自走する、といわれただけで想像したものはこれがぎりぎりのところだった。
「そのほうに、頼む」と、松音図書は、座敷から頭をさげた。
経費その他は追って沙汰する、という。
翌日、蔵六は藩庁で、嘉蔵のつくった箱車をみた。蔵六が無性に腹が立ってきたのは、これに驚嘆したあとだった。嘉蔵がヨーロッパにうまれておればりっぱに大学教授をつとめているであろう。それを思えば、嘉蔵の身分のあわれさもさることながら、もっと大きいものへの腹立ちを感じたのである。
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大革命のとき運命と役割
まず最初に思想家が
あらわれて非業の死をとげる。
日本では吉田松陰のようなものであろう。
ついで、戦略家の時代に入る。
日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在で
これまた天寿をまっとうしない。
三番目に登場するのが、技術者である。
この技術というのは科学技術であっていいし、
法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような
軍事技術であってもいい。
竹島 ~豊臣秀吉期からの因縁~
「竹島」
と、漁民たちからよばれていた。
この島は、朝鮮でいう鬱陵島とよく
まちがええられるが、そうではない。
この島は島のかたちをなす東島と西島を
本体とし、その付近のの岩礁をふくめて
「竹島」と称される。
風浪がつよく、このためわずかに
島の上に草がおおっているにすぎない。
この島の存在は豊臣期に発見され、山陰地方の
漁民が漁場としてひらいた。
島には水がなく、人の居住をゆるさないが、
漁場としての価値が大きい。
が、いったいこの無人島が日本のものであるのか
韓国のものであるのか帰属がはっきりせず、
江戸初期、日韓外交の一課題としてしばしば
揉め、明治三十八年やっと日本領になり、
島根県隠岐郡に属したが
第二次世界大戦後、ふたたびややこしくなり、
韓国が主権を主張し、いまなお両国のあいだで
未解決の課題になっている。
幕末、海防が時勢の大きな課題になるや、
この島の領有を明確にすることがやかましい
問題になり土佐藩士岩崎弥太郎が
ここへ探検に出かけたこともある。
「竹島を堂々たる日本領にせねばならぬ」
吉田松陰もこの説をきいて大いに
賛同したことがある。後年、門人の高杉晋作が
「奇兵隊を持って占領しよう」と言って
いた・・。
日本人の民族的才能
おどろくべきことではあったが、
蔵六はこの時期、蒸気機関の船体設計の
図面を三種類ばかりつくっていた。
書物を見るだけで十分に理解できた。
こういう理解力は、蔵六だけのものでなく、
日本人の民族的才能と
いうべきものであったかもしれない。
日本文化と性
世界の大宗教はたいてい性欲の課題と
正面から取りくんでおり、そのほとんどが
禁欲をたたえている。
が、日本人は古来、性欲については寛大で、
一部の僧なかまのほか禁欲思想というものが
おこなわれていない。
江戸期は儒的な教養時代であった。
その儒教は現実の性欲を
多少は秩序づけたにしても、禁遏しなかった。
江戸日本人は、その体格や体力からみて
ヨーロッパのように、これを禁遏もしくは
制限するにあたいするような大性欲は
もっていないために、野放しにしても
さしつかえなかったのかもしれず、
このため禁欲思想が成立しなかった
のかもしれない。
好色・助平程度のたぐい
江戸日本は禁欲という幻想にあこがれず、
ごく現実的で、性欲を社会秩序のなかに
組み入れた。
街道の宿場宿場の旅籠には
酌婦という官許の娼婦がいた。
旅をして宿にとまると、食事をとるという行為と
おなじ日常的な感覚の中に酌婦と
いう存在がいる。
これはヨーロッパ風にいえばおどろくべき風習であった。
さらに一方では、好色本や好色画が、ふつうに
販売されていて、べつに幕府も藩も禁止しない。
性欲が西洋のばあいのようにそれをもし野放しに
すれば人間の社会秩序に大混乱をおこす
ほどには、
日本人たちはつよくなく、せいぜい好色、助平
といわれるたぐいにとどまっているからであろう。
日本人の知識欲の驚異
ワットの蒸気機関の原理ぐらいは、
このチョンマゲの武士たちにとってすでに常識であった。
そういう諸学課を通じて西洋学という巨大な
技術世界にすこしでも接近したいという熱気が、
塾生を駆り立てていた。
この時代の日本人の知識欲の強さは、おそらく
世界的な驚異というべきものであったろう。
かれらがいかに西洋を知りたがったかと
いうことは、以下の例でもわかる。
これより少し前、軍艦咸臨丸によって
アメリカへ派遣された使節団とその随員が、
アメリカで歓待された。
アメリカ人たちはこの極東の神秘な「未開国」から
きたひとびとを歓待するために、工場見学を
さかんにさせた。工場では
⋯⋯なぜこの機械が動いているか。
という原理や、そのエネルギーである蒸気機関の
原理や構造が、案内者によって説明された。
が、チョンマゲ姿で大小を腰に帯びた一行にとって
「あれほど退屈なころはなかった」
ということが、その使節団の従者というかたちで
渡米した福沢諭吉によってのちに語られている。
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