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信心銘

信心銘しんじんめい

    三祖 鑒智僧璨かんちそうさん【505‐606】  

至道無難しいどうぶなん 唯嫌揀擇ゆいけんけんじゃく
至上の道は難しいものではない。
分別を嫌う。   

但莫憎愛たんまくぞうあい 洞然明白どうねんめいはく
憎愛の想い無ければ はっきりと明白。 

毫釐有差ごうりゆうさ 天地懸隔てんちけんかく
ほんのわずかな差別の心あれば 
天地のようにはるかに隔たる世界となる。 

欲得現前よくとくげんぜん 莫存順逆まくぞんじゅんぎゃく
ありのまの世界を捉えようとするなら 
順逆の分別もあってはならない。

違順相爭いじんあいそう  是為心病ぜいしんびょう
あれは違うそれは正しいとかの争いが心にあれば、
それこそが心の病です。

不識玄旨ふしきげんし 徒労念静とろうねんじょう 
その道理を知らなければ、
静かな心もいたずらに消えてしまうでしょう。

円同太虚えんどうだいきょ  無欠無餘むけつむよ
分別を棄てて天空のように心がまどかになれば、
欠ける所も余るところもありません。

良由取捨りょうゆうしゅしゅ 所以不如しょいふにょ
まことに取捨分別があるから
意の如くならなくなります。

莫逐有縁まくちくうえん  勿住空忍もつじゅうくうにん
俗世間の縁を駆逐せんとしてはいけません。
空に住もうと忍耐してもいけません。

一種平懐いっしゅへいかい 泯然自尽ねいねんじじん
ひとつの根本の態度を平らかに抱けば
雑念は滅び、おのずから尽きます。

心動帰止しどうきし 止更弥動しこうやどう
動く心を止めて静かにしようとすれば、
その止める働きがさらに動きを起こします。

唯滞両辺ゆいたいりょうへん 寧知一種ねいちいっしゅ
止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、
ただひとつの根本の態度を知りなさい。

一種不通いっしゅふづう 両処失功りょうしょしっこう
わたしの根本に通じなければ、
何もかもいかんようになります。

遣有没有いうもつう 従空背空じゅうくうはいくう
有効なことをしようとしても消えてなくなり、
空の法にしたがって心を止めようとしても無理です。

多言多慮たげんたりょ  転不相応てんふそうおう 
言葉や思考が多くては、
法も心に作用しません。

絶言絶慮ぜつげんぜつりょ 無処不通むしょふづう
ことばを絶ち考えも絶てば、
わたしの本心にも通じます。

帰根得旨きこんとくし  隨照失宗ずいしょうしっしゅう
わたしの根本に還れば一切の法の意も得られますが、
分別に従えばその根本をも失います。

須臾返照しゅゆへんしょう 勝却前空しょうきゃくぜんくう
その分別を一瞬でも観察できたならば、
一切の観念や妄想に打ち勝ち脱却します。

前空転変ぜんくうてんぺん  皆由妄見かいゆうもうけん
観念妄想が止まないのは
みな妄見によります。

不用求真ふようぐしん 唯須息見ゆいしゅそくけん
それを放って置いて真実を求めようと
努力するのは無意味です。
ただ分別の見解を止めるべきです。

二見不住にけんふじゅう  慎勿追尋しんこつついじん
有るとか無いとかの二元論を立たず、
いつまでも囚われていてはいけません。

纔有是非さいうぜひ 紛然失心ふんねんしっしん
これが正しいとかあれは悪いとかの見解に
縛られていては、
心も乱れ見失ってしまいます。

二由一有にゆいちう  一亦莫守いちまたまくしゅ
二元論の見解も一元論に帰するものですが、
その一元の論理さえ守ってはいけません。

一心不生いっしんふしょう 萬法無咎ばんぽうむきゅう
ひとつの論理もなくなれば、
 一切の法が滞りなく作用します。

無咎無法むきゅうむほう  不生不心ふしょうふしん
咎なければ法は無く、
観念が生じなければ心もありません。

能隨境滅のうずいきょうめつ 境逐能沈きょうちくのうちん
認識能力は世界が滅するに従って滅し、
世界は認識能力が沈むことでなくなります。

境由能境きょうゆうのうきょう  能由境能のうゆうきょうのう 
境界は認識能力によって境界としてあり、
認識能力も境界を認識することで
成り立っているからです。

欲知両段よくちりょうだん 元是一空げんぜいっくう
それら二つのありようを知ろうとすれば、
それらを一つの空として観なさい。

一空同両いっくうどうりょう  斉含萬象さいがんばんしょう
ひとつの空としてふたつを等しく観察すれば、
 一切の認識するものがひとしく
 包含ほうがんされているのがわかるでしょう。

不見精麁ふけんせいそ   寧有偏党ねいうへんとう
その特徴を探ろうとして観れば偏りが生じ、
見ることができません。

大道体寬だいどうだいかん  無易無難ぶなんぶい
おおいなる道の本体は広く
難しくもなければ、易しくもありません。

小見狐疑しょうけんこぎ 転急転遅てんきゅうてんち
小さな見方や疑いがあれば、
焦りや遅滞を招きます。

執之失度しゅうのしつど  必入邪路ひつにゅうじゃじ 
そのように執着すれば度を失い
邪道に入ります。

放之自然ほうのしぜん 体無去住たいむきょじゅう
自然に放念すれば、
本来は去ることも住することもありません。

任性合道にんしょうごうどう   逍遙絶悩しょうようぜつのう
わたしの本性に任せれば却って道に合致し
逍遥しょうようとして苦悩を絶てます。

繋念乖真けねんかいしん 昏沈不好こんちんふこう
なにごとにでも
念を繋ぐことあれば、真の法と乖離し
昏沈こんちんして好くありません。

不好労神こうふろうしん  何用疏親なんようそしん
好くないままに続ければ精神は疲労しますから
何ものも遠ざけたり親しんだりしてはいけません。

欲取一乗よくしゅいちじょう  勿悪六塵もつあくろくじん
修行の道をまっとうしようと想うならば、
修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも
無理に遠ざけたり親しんでもいけません。

六塵不悪ろくじんふあく  還同正覚げんどうしょうがく
その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ
かえって修行の道に還ることにもなります。

智者無為ちしゃむい 愚人自縛ぐにんじばく
賢い者はそのようにむりに六塵を
避けようとせず為すがままにしますが、
愚かな者はそれらを遠ざけようとして
 かえって自ら縛られます。

法無異法ほうむいほう  妄自愛著もうじあいじゃく
それは法が間違いなのではなく
みだりに自ら愛着するのがいけません。

将心用心しょうじんようじん 豈非大錯あにひだいしゃく
それは心を以って心をあやつるのですから、
大いなる錯覚というものに違いはありません。

迷生寂乱めいしょうじゃくらん  悟無好悪ごむこうお
そのように迷いは心の乱れを生みますが
悟れば好悪もありません。

一切二辺いっぺんにへん 良由斟酌ろうじしんしゃく
一切の二元の論は、
みずから斟酌しんしゃくするゆえにあります。

夢幻空華むげんろか  何労把捉なんろうはそく 
夢幻ゆめまぼろしうつろな花は
どのように労力を費やしても捉えられません。

得失是非とくしつぜひ 一時放却いちじほうきゃく
得失も是非も、
まとめて一辺に放り棄てましょう。

眼若不眠げんにゃくふすい  諸夢自除しょむじじょ
もし眼が寝ていないのならば
すべての夢がおのずから除かれるように。

心若不異しんにゃくふい 萬法一如ばんぽういちにょ 
心にもし不異がなければ、
一切の法は ひとつの如くなります。

一如体玄いちにょたいげん  兀爾忘縁こつじぼうえん
一如として本体をも無為となれば
俗世間も忘れ去られます。

萬法斉観ばんぽうせいかん 帰復自然きふくしぜん
すべての法はひとしく観じられ、
自然に復帰します。

泯其所以みんきしょい  不可方比ふかほうひ
その理由などを考えて
ああだこうだと比べてはいけません。

止動無動しどうむどう 動止無止どうしむし 
動きを止めれば動きは無い。
止まることをやめて動けば、止まることはありません。

両既不成りょうきふせい  一何有爾いっかうじ
止まることと動くことの両方が
成立することは無く
ひとつであることはありません。

究竟窮極きゅうきょうきゅうきょく 不存軌則ふぞんきそく
究極の境地においては、
もはや世間の論理は存在しません。

契心平等けいしんびょうどう  所作供息しょさぐそく
平等の境地に心をひとつに止めてあるならば
所作は共に止みます。

狐疑浄尽こぎじんじょう 正信調直しょうしんちょく
疑いをきよめ尽し、
まことの心をもって直く調います。 

一切不留いっさいふる 無可記憶むかきおく 
一切の観念を留めず
記憶すべきものもありません。

虚明自照こめいじしょう   不労心力ふろうしんりき
無心にしてみずから心を明らめ
心配ごとによってこころを疲れさせません。

非思量処ひしりょうしょ 識情難測しきじょうしきそく
思量も及ばぬ境地であり
認識や感情も届かぬ深い境地に入ります。

真如法界しんにょほっかい  無他無自むたむじ 
そのような真理の世界には
自他の区別もありません。

要急相応ようきゅうそうおう 唯言不二ゆいげんふじ
要求に応じて言うとすれば、
ただ不二と言うしかありません。

不二皆同ふじかいどう  無不包容むふほうよう
不二にしてみな同じならば
包含しないものとてありません。

十方智者じっぽうちしゃ 皆入此宗かいにゅうししゅう
すべての世界の智者は、
皆この本源に入りました。

宗非促延しゅうひそくえん  一念萬年いちねんばんねん
その本源の在り方には時の急迫も延伸もなく
ただ一瞬の念が万年の時間と同じです。

無在不在むざいふざい 十方目前じっぽうもくぜん
あるということもなく在らないこともなく、
一切が目の前にあります。

極小同大きょくしょうどうだい  忘絶境界もうぜつきょうかい 
極小と極大は同じ
その境界も忘絶します。

極大同小きょくだいどうしょう 不見辺表ふけんへんしょう
極大も極小と同じ
その辺も見られません。

有即是無うそくぜむ  無即是有むそくぜう
不二であれば
ものごとが有るということは
即ち無いと同じであり
無いということも
有るのと同じと感じられます。

若不如是にゃくふにょし 必不須守ひつふしゅしゅ 
もしこのようにならないのであれば
未だ真の悟りには
至っていないのですから、
その境地を守り続けては
いけません。


一即一切いっそくいっさい  一切即一いっさいそくいつ
分別がなければ
ひとつのすべてがあり
すべてがひとつです。

但能如是たんのうにょぜ 何慮不畢なんろふひつ
もしこのような
境地にまで到達したのならば、
もはや涅槃を
究極していないのではないか
という想いも要りません。

信心不二しんじんふじ  不二信心ふじしんじん
信とはまことであり究極の真実
真理、悟りと同じです。
まことと心は一つです。
まことと心が一つあるのみです。
その境地はもはや言葉では現せず、
ただ今ここにあるのみです。
人が求めるべき究極の真実
真理、悟りとは人の心そのものなのです。
それこそが人の求めるべきもの
知り尽くすべきもの、
観察し尽くすべきものです。

人がみずからの心を求め
知り尽くし観察し尽くしたならば
そのときこそ究極の真実を知り
真理を得て、悟りに達したと言われます。

こころが真実そのものであり
真理そのものであり
悟りそのものです。
それゆえに心と別のところに、
真実や真理や悟りを求めてはいけません。


言語道断ごんごどうだん 非去來今ひこらいこん
これ以上にもはや
記すべき言葉はありません。
ただ今ここにあるのみです。

https://uranaiya-shin.jp/shinjinmei/
「無為」信心銘の和訳


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