線香花火

 この線香花火が落ちるまで、その間の時間は僕ら二人の、二人だけのものだ。だから僕はこの線香花火がなるべく長く火花が瞬いていて欲しいと願っていたし、彼女は多分、その火花が瞬いている熱さと外気の生温さとを比べて夏の終わりを感じていた。

『花火を見に行こう』というラインを送ったのはたまたま二人同じタイミングだった。天文学的確率というやつじゃないかと思ったが、考えることが似ている僕らのことだからあまり不思議なことではないような気がして、二人して笑うだけだった。
 僕ら二人は人混みがどちらも苦手だったから、人混みが約束されている夏祭りなんて行こうとも言いださず、見るとしたら少し離れた人気のない河川敷から夜空に花火が咲いて数秒遅れて小さく打ち上がった音がする程度のものだけしか見たことがなかった。
『浴衣姿、見たいな』
ダメ元でそう送信すると、いいよ、と即座に返信が来た。そういったことにあまり興味を示さない彼女が即答してきたは少し意外で、そっちも着てね、と返ってきたことになんだか夏の切なさみたいなものをぶつけられた気がした。
 夏はいろんなものを内包している。うだるような暑さや雲一つない爽快感のある空の高さ、気だるい室外機からの熱気と人工的なクーラーの涼しさ、いつもより高い人肌の体温に星がよく見える夜空の広さ。僕らはひとつずつ夏を感じて数えていくけれど、去っていく夏を数えたりしない。消えていく夏の面影は数える前にそっと気配を消し去っていき、秋が来たことを実感してはじめて消えていった夏を数える。けれど僕のこの夏はきっとひとつずつ数えて去っていく夏を感じようとするんだろう。この夏をきちんとした思い出とするために。

 君が遠くに行くと決意したのは今年の春のことだった。やりたいことがあるから、と夢を語る君を僕は止めようとも思わなかった。可能ならば近くにいて支えてあげたかったけど、学生である僕にはどうすることもできなくて、僕は遠くから応援するだけにとどめることにした。良い女の子を見つけたら付き合ってもいいよ、という彼女に僕は、良い男の人を見つけたら付き合ってもいいよ、と答えた。結局僕らは遠距離に耐える自信がなかった。それくらい僕らは寂しがり屋で、距離と時間という重圧に耐えられるような絆を持ってはいなかった。でもできれば僕を好きでいて欲しい、なんて願望は、我が儘が過ぎる。だから僕は言わなかった。彼女も多分言わなかった。

 夏祭り当日、僕らは離れないよう、いつもより強く互いの手を握って歩いた。汗が滲むのもお構いなしに、その手の温度がどれだけ高くなろうとも、僕らはぎゅうと手を握って離さないでいた。
 かき氷を買うときだけ手を離した。熱くなった手にかき氷の冷たさはあまりにも刺激が強くて、僕らは手を繋いでいなかった方でかき氷を持ち、一瞬で冷えてしまった手をまた二人で熱くなるよう握って河川敷にある階段の隅に座って花火が始まるのを待った。

 色の濃いかき氷を頬張って、互いの舌を見せ合った。彼女の冷たそうな舌がイチゴ味のピンク色で血色がよくなっているように見えることに何故か安堵した。僕の青くなった舌を見て彼女は冷たそう、と指先でそっと、少しだけ触れたとき、彼女の体温の熱さに少し驚いてその指を咥えそうになった。
 かき氷はただでさえ暑いのにさらに人の熱気で温まっているだろう空気のせいでさっさと水となってしまった。味の薄いジュースになってしまったかき氷を僕らはちょっとずつ飲みながら、普段と変わらない会話をした。夏休み前のテストが難しかったとか、あの先生の授業は相変わらず難しいとか、最近読んだ小説が面白かったとか。彼女の未来について、それから僕の未来について語るにはまだ早い気がして、互いに触れることなく、花火の爆発音で僕らは川の向こうの花火へ目を向けた。

 この近さで見る花火は思ったよりも迫力があった。爆発音とともに夜空にひろがる火花の群れ。少しだけ吹いている風がその煙を後ろへ流してくれて、その雲のような煙に反射した灯りも相まってより花火は輝いていた。腹の底に響く爆発音、一瞬だけ眩しい散る火花、重力へしたがって落ちていくその余韻たち。二人して少しの間溶けたかき氷を啜ることも忘れて見とれていた。ふと気づいて彼女の方をそっと見ると、彼女の横顔が花火の灯りによって照らされては暗くなりを繰り返していた。こんなに儚いものだったろうか、と思って僕は、儚く溶けたかき氷の薄まった青色を吸った。青色を吸う間に小さく、綺麗だね、と呟くと、うん、とだけ彼女は返事をして、ずっと花火を見つめていた。

 花火が打ち上がっている15分はあっという間に終わってしまった。最後の多数の花火が連発されている間、観客たちは方々歓声をあげ、あちこちでシャッター音が鳴っていた。僕らはいつの間にかまた手を繋いで、歓声もシャッター音も上げずただ花の咲いている夜空を見つめ続けていた。花火が終わって歓声と拍手が上がって、それが徐々に小さくなると共に人混みが移動しはじめた。混むから少し経ってから帰ろうか、と言うと、彼女は少し躊躇って、あのね、と口を開いた。ピンクに染まった舌はもう、溶けたかき氷に流されて薄くなっていた。線香花火、しない? そう彼女は言って、小さな鞄からすこし曲がってしまった線香花火を取り出した。

 僕らは帰路につく人混みがまばらになった頃にやっと立ち上がって、川の反対側の河川敷へと歩いた。同じように手持ち花火をしようとしている人が何人かいて、僕らはその人達の邪魔にならない程度の距離を空けて、浴衣に砂がつかないよう気をつけながらしゃがんだ。彼女はちゃんと小さなキャンドルとライターを持ってきていた。地面にそっと置いて蝋燭の先端に火を点ける。真っ暗だった視界がぼんやりと明るくなった。赤い光に照らされる彼女はいつも白い肌に紅がついたように見えて、彼女がきっと大人になって化粧をしたらこんなふうになるんだろうな、と想像してしまった。それまで一緒にいられない可能性の方が高いのだから、そんなこと知りたくなかった。僕が彼女の顔から視線を外して蝋燭の揺らめく光を見つめていると、はい、と彼女が線香花火を一本手渡してきたので、うん、とそれを受け取って、二人ほぼ同時に線香花火の先端に火を点けた。
 長細い先端が丸くなって赤く発光し小さく震えた後、まるで恐る恐る存在を主張するように火花が散り始める。赤い球から弾けた先でまた弾けて、まるでさっき見た夜空に咲く花を小さくしたかのような光景が広がっていく。僕らのような子供には、この火花の弾けるだけの可能性があるのかもしれない。けれど僕らにはそんな多くの選択肢なんて見えなくて、ただ選び取れるのはごく僅かだ。だから彼女はその中からやりたいことを選んだ。僕の未来はまだ決まっていない。決められない。ただ漠然と過ぎる今を生きるだけで、彼女のように遠い先へ目線をやったことはなかった。いや、なかったと言えば嘘になる。けれど僕は、僕の未来は、僕のやりたいことはどうしても僕にはできないことで、それを諦めてしまった今僕は、闇の中手探りで灯りを探しているような状態だ。彼女の傍にいるにはきっとこの暗闇を抜ける必要があって、けれど僕にはそのきっかけすらまだ掴めていなくて、だから僕は彼女と一緒に居ることはできないと、そう、思っている。

 花火、落ちちゃったね、という彼女の声で我に返った。僕の頭の中のように、光は落ちてまた暗くなっていた。また火を点ける必要がある。この暗闇を、少しでも明るくするには。
ねえ、と彼女は僕に声をかけた。僕はなんとなく彼女の顔を見たくなかったけど、見なければならない気がして、重い目線を彼女の方へ向けた。もしまた会えたら、また線香花火、しようね。そう言う彼女の声は、湿っていた。

 夏祭りのあと、僕らの間は自然と距離が空いていった。3月に急に関係を断ち切るなんて器用なことは互いにできないとわかっていたんだろう。だから少しずつ、紙に張り付いたテープをそっと、紙の繊維がくっついたままにならないように剥がしていくように、僕らの距離は少しずつ剝がれていった。
 友達よりも少し控えめな距離感で卒業式を迎え、彼女が遠くへ引っ越す日の3日前、僕らはたまに行っていた喫茶店で、他愛もない話をした。その時点で少しばかり、本当にこれでいいのだろうかという思いは僕の中に生まれていたんだと思う。最後に振る手がやけに重たくて、僕は彼女より先に手を下ろした。

 僕には何ができるのだろう。
 今の僕に誰かそれを教えてほしい。
 彼女にも周りの友人達にも置いて行かれている気がして、僕はどうしようもない不安と焦燥感と、少しばかりの周りの人達への羨望を抱えて、日々を過ごしていった。

 彼女から連絡が来たのは、彼女と最後に会ってからちょうど1年経ったときだった。なんでもない風を装っていたけどその声は震えていて、何かあったのだとすぐにわかった。恋人ができたのだけど、無理だった。要約するとそんな内容の話で、僕はそれをただ頷きながら聞いていた。僕も新しい恋人ができたけど、すぐ別れてしまっていた。結局僕らは僕らでしかなく、多分きっと他の誰とも噛み合わないんじゃないか。そんなことを思ってしまった。どうするのが正解なのだろう。僕に何ができるのだろう。
 やがて彼女の話が終わって、彼女の少し荒くなってしまった呼吸音だけが電話口から聞こえてきて、僕はそのとき初めて、悔しさとやるせなさと、怒りのような何かが頭の中に流れてきて、僕は、と彼女に口を開いた。
 僕は多分、まだ君が好きだよ。
 そう改めて口にして、僕はやっと、僕のすべきことがわかった。
 僕の再度の告白に、彼女はうんとだけ頷いた。それから言い難そうに、多分、私もだよ、と答えてくれた。
 だから待っていてほしい。会いに行くから。必ず。
 彼女は涙で湿って震えた声で、うん、と頷いた。

 電話をした1年後、遅くなってしまったことを謝罪して僕は彼女に会いに行った。彼女は少し化粧をしていて、2年前の線香花火をしたときの光景を思い出した。少し紅を載せた彼女の頬はとても綺麗で、僕は無意識に手を伸ばしていた。
 ふわりと彼女のシャンプーの匂いが鼻を掠めて、ヒールを履いて少し背の高くなった彼女はあのときよりも顔と顔が近くて、唇はイチゴ味のかき氷を食べたときのように少し赤くなっていた。
 僕は選んだ。彼女といる道を。最初からそうすればよかったのだ。あのときの、子供だった僕の視界はとても狭かった。彼女の傍にいる。ただそれだけでよかったのに。将来の夢がある人達を見て、悔しさと羨望に苛まれて、僕には何もできないと絶望して。でも僕を必要としてくれる人が、ここにいた。だったらそれに応えるために、僕は頑張るべきだったのだ。自分から行動して見つけるべきだったのだ。
「愛してる」
 きっとこの感情が、愛というやつなのだろう。実感はまだ湧かないけれど、きっとそうだ。そう思って、僕は彼女の耳元で囁いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?