雪が降る夜

 雪が降る夜には、無性に煙草を吸いたくなる。
 雪は下から降るんだよ、と教えてくれた彼のことを思い出しながら、私はぷかりと煙草を燻らせた。粉雪は軽いから、風で舞い上がってきてまるで傘は意味をなさない。そのことを彼は、下から降る、と教えてくれた。今思うと随分洒落た言い回しだ。
 息を吸うついでに煙草を吸って、ふぅーとゆっくり吐く。その煙は吐息と混じっているせいでより白く染まって、それから宙に溶けていった。
 線香を供えるのは、その香りを死者に手向けるためだといつだか聞いた。この煙草の匂いが、少しでも彼への手向けになってくれれば、彼が安らかに眠れるよう届いてくれれば、そう祈りながら、いつも吸っている。
 この煙草は、彼の友人の吸っていた銘柄だ。彼と友人は親友だった。幼馴染でもあり、互いのことは何でも知っていて、そこに入り込む余地など、恋人の私にすらなかった。
 彼の親友が死んだのは、もう六年も前のことだ。それから彼の煙草の銘柄が、彼の親友と同じものに変わった。
 ヘビースモーカーだった彼の親友は常にこの銘柄の煙草を持ち歩いていた。交通事故にあったとき見つかったのは、ぺしゃんこに潰れたシガレットケースと、転がり落ちて助かったジッポライターだった。それは同じく煙草を吸っていた彼に渡り、そして私の元へやってきた。
 一本目の煙草を吸い終わって、私はそれを灰皿に押し付け僅かにまだ灯っていた火を揉み消し、新しい煙草をくわえ、カチッと音を立てて火を点けた。吸いながらジッポに煙草の先を近づけて、吸う。じわり、と煙草の先端が焼け焦げて、ほんのりと赤く炎が灯った。
 雪の夜は好きだ。積もった雪があらゆる音を吸い込みいつもよりも静かに感じる。真っ暗なのにどこかしらからの明かりを雪が反射していつもより明るい。吐いた息は白くなって煙のように色づき、そして天に上っていく。
 こうして煙草を吸わなくても、なんとなく線香の代わりに煙を焚いている感じがして、好きなのだ。線香でも煙草でもなく、雪の匂いが彼に届けばいい。
 彼が死んだのは昨年。彼の親友と同じく、交通事故で、だ。そのとき私も同乗していた。彼の車で遠出をして、その帰り道、居眠り運転のワゴンとぶつかった。私が目を覚ましたとき、彼はまだ夢の中で生死の境をさまよっていて、そして、私の祈りは届かず、そのまま冷たくなってしまった。私はまだ彼の死を完全に受け入れることはできず、彼の所有物を処分することなどできず、こうして未練がましく彼の吸っていた煙草を吸っている。今でもよく覚えている。彼の煙草を吸う仕草は、とても美しかった。骨ばった手、そこから生えたすらりと長い指先で煙草をひとつ優しく摘まみ、端正な口元に持っていき、薄く開かれた艶めいた唇で挟み、吸う。彼は整った顔立ちで背もすらりと高く、所作それぞれ格好良い方だったが、煙草を吸う仕草は一段と格好良く映った。まさに、惚れ惚れするほどに。
 私は彼が煙草を吸うときをじっと見つめていて、彼はそんな私を見て、見過ぎだよ、といつも笑った。けれど何度見ても格好良かったし、脳裏に焼き付けたいほど好きだったのだ。
 幾度も見た彼の煙草の吸う仕草を真似して、吸っている。けれどやはり彼のようにはいかない。自分では彼ほど格好良く吸うことなどできない。私はいつもその事実を残念に思うと同時に安心するのだ。比べられるということは、まだ彼のことを鮮明に覚えているということだ。いつまでも比べては落ち込んでいたい。彼のことを、忘れたくないから。
 ぼんやりと吸っていると、もう二本目の火がフィルターギリギリに迫ってきていた。もう終わってしまうのか。この彼を思い出す時間を、永遠に感じていたいのに。
 私は大人しく煙草を灰皿に押し付けた。深呼吸をすると、やっぱり息は白く染まって宙に溶けていく。どうしてこの吐息が、一人分しかないのだろう。彼と、彼の親友と、三人分、あったらよかったのに。
 私は窓を閉めて寝室へと戻った。ダブルサイズのベッドは、ひとりには広すぎる。布団を被るもなかなか布団とシーツの隙間は温まらない。私もこのまま冷たくなれればいいのに。いつも布団に潜り込むと、そう思う。そう願う。彼のいない人生を、どうやって生きていけばいいのか。私は起き上がって、三本目の煙草に火を点けた。

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