『パッドマン』に見る脱・エリートなリーダーシップ

遅ればせながら映画『パッドマン』を見ました。
中津TSUTAYA(ここは準新作100円)で借りてくる。

遅ればせながら、というのも8月末にある社会起業関係の合宿に参加しまして、そのときのグループワークのテーマがこの映画に着想を得たものだったのですな。

映画を見ていたならば、ショートカットはできたでしょう、というポイントがいくつかありました。しかし情報が限られたなか(インドの生理用品普及状況なんて考えたこともなかった)、グループでの話し合いを行いながら、方向性やプロセスは悪くなかったのではないか、と考えます。

それは根底にあるのが「社会における女性の立場の低さ」です。我らがグループも議論の末、ここにたどり着きました。
女性の身体や健康に関する無関心。それは女性が尊重されない社会に端を発しているし、逆に言えば、「アクション」を変えれば社会の意識を変えることにつながるのではないか。
映画の主人公も、私たちもそのように考え、具体的な対策を練っていったのでした。

文章がここまで来て、ハタと思い当たります。
「インテリゲンチャの読書クラブ」第二回・魯迅『吶喊』を比較してしまうのです。
魯迅は無知と迷信に支配された中国を「文学による精神改造」をもって変革しようとします。その方法は『阿Q正伝』に見られるように、徹底的に典型的中国人のアンチと化して、その習性をあざ笑う手法を取ります。
(教科書ででてきた『故郷』はもうちょっとソフトかつウェットですね)
無論、類似点も見られますよ。猿神とかね。なんだかヘンにかわゆいのですけど。

対して『パッドマン』。
まず印象的だったのはビジネスコンテストの際の俳優だったか、とにかくお偉いさんのスピーチです。「インドには10億の頭脳がある」
わたしは10億の頭脳、それぞれに役割がある、というふうに捉えました。
既に知識や資金のあるひとたちが社会起業という枠組みの中で、10億の頭脳をサポートをする。そういうふうに。
比べれば、「精神の改造」すなわち天才による矯正。魯迅はニヒルでエリート主義な印象。
(長い目で見ると「底上げ」に繋がりますが)

まあ、「政治を担うのはエリートか民衆か」
はプラトンの時代からの大きな問なのですが、エリートでなくとも、
「頭脳で活躍できる」時代になってきたのかもしれません。
これは宝くじで一攫千金、という意味ではありません。
社会での役割において、エリートと市民の垣根がなくなってきたのではないでしょうか。

さて映画について。主人公は習慣を変えて、社会を変えようとします。
現代という時代にも、人間工学(言い換えれば「人間という自然」)にも即しているような。すっと納得させられる、社会の変え方です。
資本主義やトレンド、グローバル社会にどっぷり浸かっていないのも、またいい。

この妙に懐かしい感じ、人間が本来無自覚に知っているもの、
そういうものをこの主人公は持っているように思えます。
妻への愛と細やかな気配り。時代や文化を超えた普遍性を体現します。
(男としては勉強になるのよ)
そういう快いキャラクターは一貫しているから自然と感情移入して応援したくなるのでしょう。
いわば当たり前に気づかせてくれることに、この映画の大きな価値を感じるのです。


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