小さな物語 大きな物語 〜『夢と文芸』解説〜
12月3日の読書会に向けて、柳田國男『夢と文芸』の解説を試みました。
今回、要約ではなく解説にしたのは、テキストに見かけ以上の「アイデアの密度」があり、ある程度方向性を絞る必要を感じたからです。
民俗学者:柳田國男について
人類学者のレヴィストロースが70年代の講演で柳田國男に言及していて、かなりリスペクトしていたのが印象に残っていました。
人類学の根本的な探求の手法は「比較」です。
すなわち「文化とは相対的なもので」他の文化と比較しないと捉えられないという考え方です(例:アメリカの食事は日本のそれよりハイカロリー。それはなぜか?という理由の探求の過程で文化というものが見えてくる)。
柳田國男も民俗学者として、日本の田舎に細々と伝承された民話を収集しました。
その民話は現代人からは奇異に映るもので、その「違和感」をもとに「昔の日本」と「現代の日本」を浮き彫りにすることができるのです。
「偏差値」もそうですよね。
他者や平均と比べて自分がどの科目が得意で苦手なのか、ようやくわかるというふうな。
タイトル『夢と文芸』の意味
大胆な解釈ですが、
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・夢:個人的もしくは限定的なコミュニティにだけ通じる内輪話
→「小さな物語」
・文芸:一般化(誰にでもわかるように)されたもの
→「大きな物語」
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と定義して話を進めていきたいと思います。
物語の大きさについて
「小さな物語」と「大きな物語」。
それぞれの例を挙げてみます。
(ついでに「中」も)
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小:個人の夢、職場の噂話、内輪話
中:サブカル、ニュース、校則、企業理念
大:宗教、イデオロギー、古典芸術、大ヒット映画、科学、SDGs
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問われる作者の力量
物語の大小は、信じる(支持する)人の規模です。
大きな物語ほど、多くの人が信じています。
もちろん、多くの人に支持されるにはそれなりの、
裏付けなり力量が必要になってきます。
噂話は誰にでもできるけれど、
素人がいきなり大ヒット映画をつくるのは難しいように。
小さな物語はなぜ必要なのか
柳田は現代人が「大きな物語」に飲み込まれてしまっていることに警鐘を鳴らしています(『夢と文芸』は1960年代に書かれたものらしいのですが)。
それは「大きな物語」だけでは個人は非常に生きづらいからでしょう。
「大きな物語」は個人をケアしてくれません。
極端ですが「戦争」という物語と個人の関係を考えるとわかりやすい。
人間は社会的な動物です。大きな社会を支えるためには大きな物語が必要です。ただ、その「社会」や「大義」が暴走してしまうことも歴史ではたびたびです。
このような状況でどうバランスするか。もはや我々現代人は「辺境のムラ」に閉じこもっているわけではなく、(堅苦しい表現ながら)社会の成員のひとりなのです。なので、科学や公共などの「大きな物語」を理解しないことには、社会生活を送ることは困難でしょう。
一方で個人的な体験、すなわち日々の生活に充足を感じ、狭いコミュニティに居場所を得ることも大切なのです。
友人との雑談とシェークスピアの戯曲の出来を比べることは不毛です。
いずれもわたしたちにとっては必要なものだと思います。
「伏線回収」的な第10回です
じつは第10回はこれまでの読書会に対するアンチテーゼでもあるのです。
今までのテキストはそのほとんどが啓蒙主義的でした。
啓蒙とは人々を無知で盲目な状態から、「目を開かせる」ことを言います。
つまり、科学や古典などの「客観」や「普遍的な価値観」を尊ぶ傾向です。
(過去のリストでは魯迅と福沢諭吉が特に顕著ですね)
そんなアカデミックに対して「主観」と「感性」の重要性をカウンターで真正面から「理性的」にぶっこむ柳田國男は、最高にクールでした。
(いささか「普遍的真理」探求に振り切りすぎるケがある自身への自省もこめて)
参考文献
今回、要約をどう手をつけたらよいか非常に苦しみました。
こんなとき正攻法では、柳田國男関連書籍をあたるのでしょうが、
幸運にも(?)たまたま見た映画と小説にヒントを得ることができました。
・『バーニング』:
村上春樹原作の映画化。大きなものに踏み潰される、小さな幸せ。
「小さな物語」と「大きな物語」を言語化することができました。
・『トーニオ・クレーガー』:
芸術に価値はあるのか?芸術は天才だけのものか?
結構今回のテーマど直球に刺さりました。
以上です。12月3日、楽しみにしております。
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