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僕達はなんとなく

この間家にいる時に、少し寒いなぁと思い、もこもこ気味の上着を羽織ろうとして、長袖のTシャツを1枚しか着てなかったことに気がついたと同時に、この1枚でも過ごせてたくらいにはあったかくなって来たんだなぁと、春がやって来ていることを感じました。

春の訪れを感じる日のお日様はふんわり眩しく、白っぽい黄色味がかった色のフィルターを通して、目の前に広がるものを柔らかく優しく見せてくれます。

力が入っていた肩からすーっと力が抜けて、歩む足の歩幅を少し大きくして前に進みたくなります。

春の訪れを感じると、身体も心も軽くなります。

と、数年前までは、3月にやって来る春の訪れに対して鈍感だった私は、春の訪れに対してこんなに心を寄せることありませんでした。

数年前、3月のあの日、私たち家族の大切な人がいなくなってしまった瞬間から、私たちの足は鉛がくくりつけられたかのように重く重くなり、足を前に踏み出すだけで、もう精一杯になってしまいました。

そんな時、春の訪れは、気を抜くと灰色に見えてしまう日常の風景を、春の陽の優しい色のフィルターをつけて少し明るく柔らかく見せてくれました。
こわばった身体は、心地の良いあたたかさでじんわりとほぐしてくれました。

どこにも行き場のない空虚な寂しい感情を胸に抱えたまま、それでも日々を営む力をくれたのは、あの時足を前に踏み出す力をくれたのは、3月に注がれた春の訪れだったんだなと、今年の3月になって気がつきました。

ふんわりと寄り添ってくれるあたたかい力を受けたから、私たちは家族は、少しずつ、前を向いて歩めるようになり、楽しいことを楽しいと思っていいんだと思えるようになり、今、元気に暮らせるようになったんだなと思いました。

そんなことを考えていた時に、ふと、日本のロックミュージシャンが歌うある曲の歌詞を思い出しました。
そして、あ、歌詞の意味が腑に落ちたと思いました。

その曲を初めて聴いたのは高校2年生の時で。
こんなことを言ってくれる大人がいてくれるんだと感動して泣いてしまいました。

あの時もきっと、あの時の私には腑に落ちたのだろうと思うけど、今回はもっとずっしり腑に落ちました。

私はなんでもはっきりさせようとして。
あやふやなままにしようとしなくて。
「なんとなく」であることを嫌がっていました。

でも暮らしていく中では、大切な人がいなくなってしまったり、理由の説明がつかない出来事や正解のない問題が突如やって来て。

その時はたまらなく苦しくて困ったりするけれど、良くなりたい良くなりたいと工夫を重ねて暮らしていけば、時間がかかってもそれを乗り越えられたりします。

なんでもはっきりさせなくても、少しあやふやなままであっても、工夫を重ねて歩んでいけば、「なんとなく」いい状態になっていけます。

はっきりさせないとか、あやふやなままであるとかは、私にとっては、面倒くさいからやらないとか、なんでもいいから、どうでもいいから考えない、とかとは全然違うんだなって気付きました。

ゴールが見えなくてもひとまず歩みを進めてみると、気がついた時には大丈夫な自分に、幸せな自分になっているんだなって思ったら、あの曲の歌詞の通りだって驚きました。

改めて曲を聴いてみたら、また少し前に進めました。

毎年3月に春の訪れを感じるたびに、少し強くなった私であの日を思い出せたらいいなと思います。

篠原 友紀

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