見出し画像

文学の散歩道5 永井荷風

 永井荷風八十年の人生は、女に彩られたものでした。しかもその対象は芸者、女給、ダンサー、娼婦といった女ばかり━━━荷風はそんな玄人(くろうと)の女たちを愛したのです。それを象徴する作品が「踊子」です。
 ━━━主人公の「わたし」は浅草の楽団の一員で、ダンス場や劇団で生計を立てている男です。「わたし」は、シャンソン座の踊子、花枝とアパートで同棲していましたが、ある日花枝の妹である十七歳の千代美が踊子になるべく上京してきます。そこからアパートでの三人暮らしが始まりますが、ある蒸し暑い晩、横で寝入っている花枝の隣で、「わたし」は千代美とあっさり関係を持ってしまいます。千代美はその後も何食わぬ顔で、踊子の稽古(けいこ)に出かける日々を送りますが、姉の花枝に隠れて「わたし」との関係を続けます。そのうち、千代美には盗癖があること、ダンスの先生の田村とも関係を持っていたことなどが分かりますが、「わたし」は憂いはするものの決して怒ることなく千代美を抱き寄せるのです。当の千代美はいつも平気な顔です。やがて、千代美は妊娠します。誰が父親なのかも分からぬ子でしたが、「わたし」は花枝に千代美とのあやまちを告白し、三人でその子を育てることにします。やがて千代美は子供を置いて一人アパートを飛び出し、芸者屋に入ります。「わたし」は人の好い花枝をごまかして、そんな千代美と逢引きを楽しむのです━━━。
 圧巻は、物語の終わり近く、花枝に隠れてホテルで待ち合わせた二人の場面です。「わたし」が服を脱ぐのを待ちかねるように、千代美は透けたシミーズ一枚で両手を腰にバレエの身振りよろしく男を迎えるのです。その姿には何の罪の意識も後悔の念もありません。千代美は生来の娼婦なのです。
 荷風の眼はそんな千代美を礼賛(らいさん)する程です。つまり、荷風にとって、女は娼婦でなければ「女」ではないのです。そこに荷風の文学の特色が見て取れます。

 荷風畢生(ひっせい/一生涯の意)の名作「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」では、私娼お雪の人間的な愛情を感じた途端主人公の男はお雪のもとを離れていってしまいます。娼婦が一人の人間として立ち現われることは、荷風にとって娼婦が娼婦でなくなること、「女」でなくなることを意味するのです。「人間」は要らない━━━そこに、荷風独特の人間観、むしろ人間不信とも呼ぶべきありようが見えてきます。

 荷風は「人間」を描いた作家ではありません。成程、娼婦を描かせたら彼の右に出る者はないでしょう。しかし、彼の文学には「人間」が不在です。この「人間」不在という中で、荷風の文学は詩情豊かな風物詩を見事に作り上げるのです。風物をこそ愛し、その風物を自らの詩情で奏(かな)でる荷風の文学に余計な「人間」は不要なのでしょう。そしてその風物の最(さい)たるものが、荷風には娼婦であったことは疑えません。
 ━━━文部省の重鎮を父に持ち、その遺産で一生食うに困らなかった荷風。若き頃アメリカやフランスに留学、その学識から森鷗外、上田敏の推薦により一時慶応義塾大学教授を勤めた荷風。馬面に丸眼鏡、常に背広を着用し戦後の東京下町を徘徊する荷風。鞄と傘を手に日課のように娼婦がたむろする裏通りやストリップ小屋の楽屋に立ち寄り、踊り子たちと親しむ荷風。最後は誰もいない自宅で背広のまま血を吐いて死んでいた荷風。
 ━━━もしかすると、そんな自由気ままに生きた荷風その人こそが、荷風が残した唯一の「人間」像なのかもしれません。

※適宜括弧( )を付して、読みと意味を添えました。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?