見出し画像

文学の散歩道11

 敵(かたき)討ち━━━それは武家社会で認められていた復讐の制度です。実際は明治6年まで遺(のこ)されていたもので、主君あるいは父親を殺害された遺族(嫡子/ちゃくし/あとつぎの意)が、逃亡した下手人を捜して殺すことが出来るというものです。「家」制度を根幹に為す武家社会においては、まさしく武士の面目、意地を賭けた究極の制度と言ってよく、相手からの返り討ちも認められているのですから、法と考えるよりも制度、システムと捉えた方がしっくりくるようです。
 菊池寛は敵討ちをプロット(話の筋)にした小説をいくつか書いていますが、その中でも出色の出来とされる作品がこの「恩讐の彼方に」です。ここではじっくりとその梗概(こうがい/あらすじ)を追ってみることにしましょう。

 ━━━物語はいきなりの斬り合いから始まります。
 主人の三郎兵衛(さぶろべえ)が家臣の市九郎(いちくろう)に斬りかかります。市九郎は主人の妾であるお弓と陰で通じていて、その不義の罪で斬って捨てられようとしていたのです。罪の意識から元々抗う気持ちもない市九郎でしたが、最初の一太刀を左の頬(ほお)に受け、己の血を見ると、その本能から反撃に転じます。必死の立ち合いの末主人を斬り殺した市九郎は、我に返って、「自分が主殺しの大罪を犯したことに、気が付いて、後悔と、恐怖との為めに」へたりこみますが、そこに当の妾であるお弓が現れ、市九郎を叱咤するようにそそのかし、金目の物を風呂敷包みにして二人で逃げ出します。「こうして、この姦夫(かんぷ)姦婦(かんぷ)が、浅草田原町の旗本、中川三郎兵衛の家を出たのは、安永三年の秋の初であった。後には、当年三歳になる三郎兵衛の一子実之助(じつのすけ)が、父の非業の死も知らず、乳母の懐(ふとこ)ろにスヤスヤ眠って居るばかりであった。」※1
 市九郎とお弓は江戸を逐電(ちくでん/あとをくらまして逃げること)し、お弓の教唆(きょうさ/教えそそのかすこと)で美人局(つつもたせ)、ゆすり、そして強盗殺人までするようになり、いつとはなしに信濃から木曽へかかる鳥居峠(長野県)に土着します。そこで昼は茶店を開いて、夜に強盗を働くのです。市九郎ははじめのうちこそ主殺しの罪から良心の呵責(かしゃく)を受けてきましたが、お弓に度胸を据えるように言われ、だんだん悪事の面白さを味わうようになってきます。金のありそうな旅人が茶屋に来ると、それを狙って殺し、死体を片付けるのです。一年に三四度、そうした罪を犯せば一年分の生活を支えることができたのでした。
 彼らが江戸を出て三年目の春、豪農(ごうのう/富豪の農家)の若夫婦が茶店に立ち寄り、市九郎とお弓はこの夫婦を狙います。茶屋を出た二人に先んじて市九郎は一人夕闇の街道で待ち伏せをします。幸せな若夫婦の命を奪うことがどんなに罪深い事か市九郎には分かってはいるのですが、そそのかすお弓の手前やめるわけにもいきません。できれば殺したくないと内心では思ってはいましたが、いざその時になり、脅迫すると、夫の方が強盗は茶屋の主人だと気付いて飛び掛かってきます。市九郎はやむなく夫を刀で殺害します。妻の方はその場にうずくまって震えながら命乞いをしましたが、顔を見られたため市九郎はこれも手拭で首を絞めて殺してしまいます。深い良心の呵責(かしゃく)にとらわれながらも、市九郎が金品を奪って茶屋に帰ると、待っていたお弓は殺された女が付けていた高価な頭の物(くしやかんざしなどの髪飾り)を市九郎が見過ごして奪ってこなかったのをなじります。
 その罵声を聞きながら、市九郎は、若い男女を殺してしまった悔いの残る中で、お弓の欲の深さにいたたまれないほどの浅ましさを感じます。お弓は市九郎に殺害現場に戻って頭のものを取ってくるよう言いつけますが、市九郎は黙ったまま応じません。お弓は市九郎に悪態をつきながら自分で取りに店を出ます。市九郎はお弓のその後ろ姿を見て浅ましさで心がいっぱいになり、ついで今まで自分が犯してきた悪事、殺人の光景が心によみがえり、胸が裂かれるような思いにとらわれます。そして、「自分の凡(すべ)ての罪悪の、萌芽(ほうが)であった女から、極力逃れ」るため、市九郎は、茶屋を飛び出してあてもなく一散に走り出したのです。
 翌日、市九郎は美濃国(岐阜県)の浄願寺に駆け込みます。遁走(とんそう)の中途で偶然この寺の前に来た時、市九郎の懺悔(ざんげ)の心が「ふと宗教的な光明に縋(すが)って見たいと云う、気になった」のです。そこから市九郎の運命が急転します。浄願寺の住職の上人(しょうにん/知徳を兼ね備えた僧)が、深く懺悔する市九郎を見捨てず、自首するよりも「仏道に帰依(きえ/神仏を信仰し教えに従うこと)し、衆生済度(しゅじょうさいど/迷っている人間たちを救済し悟りへと導くこと)の為に、身命を捨てて人を救うと共に、汝(なんじ)自身を救うのが肝要」と市九郎を出家させたのです。市九郎は法名(ほうみょう/仏門に入った者に与えられる名)を了海(りょうかい)とされ、ひたすら仏道修行に励みます。そしてわずか半年に足らぬうちに「天晴(あっぱれ)の智識(ちしき/高徳の僧の意)」にまでなりおおせ、ついに上人の許しを得て、「諸人救済の大願を起し、諸国雲水(しょこくうんすい/行き先を定めず諸国を歩いて仏道修行をすること)の旅に出た」のです。
 市九郎は、旅をしながら人のために橋や道の修繕などをして善根を積むことに腐心しますが、自ら犯してきた極悪の深さを思うと些細(ささい)な善根をいくら積んだとてとても償いきれないと心を暗くします。時には自殺まで考えますが、「その度毎に、不退転の勇を翻(ひるがえ)し、諸人救済(しょじんきゅうさい)の大業(たいぎょう)を為すべき機縁」が来ることを祈って旅を続けるのです。
 そして享保九年の秋、市九郎が豊前(ぶぜん/大分県)の山国川の渓谷に沿って道を歩いていると、何やら農夫たちが騒いでいます。水死人がいたのです。すると農夫たちは哀れな水死人のために僧形(そうぎょう/僧の姿)の市九郎にお経を願い、この川の上流に「鎖渡し」という無双(むそう/並ぶものがない意)の難所があること、この水死人はその難所で命を落としたこと、今回ばかりではなくそこでは毎年多くの犠牲者が出ることを話します。市九郎はお経をあげるとすぐにその「鎖渡し」へと急ぎます。「鎖渡し」は川の左にそびえる切り立った絶壁で、道はその絶壁に断たれ、丸太を鎖で連ねた桟道(さんどう/がけに棚のように設けた道、かけはし)がその絶壁の中腹を危なげに伝っていました。この桟道から転落して犠牲者が後を絶たないのです。川は絶壁の裾を洗いながら渦巻いています。
 「市九郎は、岩壁に縋(すが)りながら、戦(おのの)く足を踏み締めて、漸(ようや)く渡り終って其の絶壁を振向いた刹那(せつな)、彼の心には咄嗟(とっさ)に大誓願が、勃然(ぼつぜん)として萌(きざ)した。」
 それは、「二百余間に余る絶壁を刳貫(くりぬ)いて道を通じようと云う、不敵な誓願」で、「一年に十人を救えば、十年には百人、百年、千年と経つ内には、千万の人の命を救うことが出来ると思ったのである。」
 つまり、市九郎は、人々を救うべくおよそ360mのトンネルを掘ろうという大願を立てたのです。早速市九郎は山国川に沿った村々に寄進を求めましたが誰も相手にしません。そこで市九郎は、奮然、独力でその大業を為さんと一人絶壁の一端に立ち、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を祈りながら、渾身の力で第一の槌(つち)を岩壁に下したのです。
 それから市九郎の奮闘が延々と続きます。1年たつと絶壁の一端に小さな洞窟が出来ていました。旅人や近郷の人々ははじめ市九郎を気が狂った者として嗤(わら)っていました。3年たち4年たち、嗤うものこそいなくなりましたが、徒労に過ぎぬものと彼らは市九郎の努力を悲しみました。そして9年目にトンネルが二十二間(約40m)になった時、人々はその可能性に気付き始めました。里人は石工を雇って、市九郎の刳貫(こうかん/トンネル)開削(かいさく)に力を貸すようになりましたが、翌年、あまり掘削が進まない現実に早々と諦めて手を引いてしまいます。そういうことが二度あって、それでも市九郎は一人洞窟の中に端座(たんざ/きちんと行儀よく座ること)し、一念に岩壁を掘り続けるのです。そして、18年目、刳貫が岩壁の半分に達したとき、里人はその奇跡に打たれ、二度諦めた自分たちを恥じ、今度は三十人に近い石工を集めて、市九郎を手伝います。そうすると工事は「枯れ葉を焼く火のように」進んでいきます。市九郎は長く日の光も射さない洞窟に坐り続けたため衰残(すいざん)の姿はなはだしく、両足は屈伸もままならず杖にたより、両眼は砕け散る石のかけらで傷ついて朦朧(もうろう)として物の細かな形もわからないくらいに衰えていました。周りは市九郎に休むように言いますが、市九郎は頑として応じません。そして以前と変わらぬまま懸命に槌を振るうのでした。
 そこに、市九郎の命を狙う敵がやってきます。
 実之助です。市九郎が最初に殺した主人の中川三郎兵衛の息子です。市九郎が三郎兵衛を殺した時まだ三歳だった実之助は、主が家臣の為に殺された不届きで家が取り潰される憂き目にあったのです。縁者によって育てられた実之助は、十三歳の時に初めて父の非業の死を聞かされ、報復の怒りに剣の腕を磨き、十九歳の年に柳生道場の免許皆伝を許されるや、敵討ちの旅に出たのです。それは家の再興を賭けた武士の当然の行動でした。
 とはいえ実之助は市九郎を見たこともありませんし、一体どこにいるのか皆目見当もつきませんから、実際雲をつかむような捜索です。年月は過ぎ去り、江戸を出立して9年目の春、実之助は28歳となり、九州の中津(大分県)まで来ていました。宇佐八幡宮に参拝し、境内の茶店で実之助が休んでいると、傍らの百姓風の男が、ある僧が江戸で若い頃人を殺した懺悔から諸人済度の大願を起こし刳貫を掘っているという話をしていました。実之助は興味を抱いて百姓に問いかけ、その老僧が越後の柏崎出身であることを知ります。それは親類から聞いていた市九郎の生まれと一致しました。実之助は勇み立ち、その老僧の名と刳貫の場所を聞いて、敵の在りかへと向かうのでした。
 そしてついに実之助と市九郎が出逢います。市九郎は今や菩薩(ぼさつ)として扱われていて、了海様と呼ばれていました。実之助は洞門(どうもん/ほらあなの入り口)から這い出てきた市九郎を見て大変失望しました。実之助にとって、まだ見ぬ仇(かたき)は憎々しいものであってほしかったのです。ところが当の市九郎は衣破れ、長い頭髪が皺(しわ)だらけの額を覆い、足の肉は正視できないほどただれた、人間の残骸のような老僧でした。実之助はそれでも心を励まして市九郎に敵討ちの宣言をします。すると市九郎は少しも驚かず、むしろ主の遺児に出会った親しさを以て答え、「実之助様、いざお斬りなされい。」と少しも悪びれず死すべき心を定めるのです。実之助は悩みます。深い罪の懺悔に身を粉にして19年刳貫を掘り続け、しかも唯々(いい/逆らわず従うこと)として命を捨てようとする市九郎の有様に、まるで憎しみが失せて来たのです。肝心の憎しみが消え失せてしまっては復讐になりません。しかし、復讐しなければ武家としての家名の再興は出来ません。打算で人間を殺すことも忍びず、無理にも憎しみを呼び起こして仇を打とうとした時、市九郎の危急に気付いた石工たちが市九郎をかばいます。石工や行路の人々が実之助を取り巻き、市九郎の身体に指一本も触れさせまいとするのです。それでも市九郎は石工たちに妨げ無用と言って、実之助に自らを差し出そうとします。その時、石工の統領が実之助に了海様(市九郎)を討つならこの刳貫が完成してからにしてほしいと願い出ます。今でさえ自ら討たれようとする市九郎と哀願する群衆の姿に、実之助はそれを許すことにします。
 その日から五日目の夜、すぐに市九郎を討ち取れなかった自身に不甲斐なさを感じていた実之助は、彼を警戒する石工たちの気が弛んだ隙(すき)に暗い洞窟の中に入り、ひそかに了海(市九郎)を討とうとします。洞窟の中は入り口から来る月光と、所々にくりあけられた窓から射しいる月光とで所々ほの白く光っているばかりです。奥深く進むと「クヮックヮッと間をおいて響いてくる音」がこだまし、凄みを帯びて実之助の聴覚を襲います。それは了海が深夜一人暗中に端座して鉄槌を振るう音でした。経文を唱えるうめくような声も聞こえます。実之助はその悲壮な姿に心打たれ、了海の菩薩そのものの有り様と、闇討ちをしようとしているまるで追いはぎのような己の姿を見比べ、戦慄が走るのを感じます。そして深い感激を抱きながらそのまま何もせず洞窟から出たのです。実之助の心には、もう了海を闇討ちしようという気持ちは跡形もなくなっていました。
 そのことがあって間もなく、実之助は刳貫の工事を手伝うことにします。ただ茫然(ぼうぜん)と待っているよりも、自分も槌を振るえばそれだけ復讐の日が短縮されるはずだと気付いたからです。
 敵(かたき)と敵(かたき)とが二人並んで槌を振る光景━━━実之助は本懐を達する日が一日も早かれと思い、了海は一日も早く大願を成就して実之助の願いを叶えてやりたいと思っているのです。しかし、「実之助の心は、了海の大勇猛心に動かされて、彼自ら、刳貫の大業に讐敵(しゅうてき)の恨みを、忘れようとし勝で」した。そうして石工たちが休んでいる真夜中にも二人の敵同士は黙々として槌を振るうのでした。
 そしてその時がやって来ます。それは了海が刳貫に第一の槌を下してから21年目、実之助が了海に廻(めぐ)りあって1年半を経た延享(えんきょう)三年九月十日の夜でした。石工も引き上げたのち二人して懸命に槌を振るっていた時、了海の力を込めて振り下ろした槌がついに最後の岩盤をくりぬいたのです。空いた穴から向こう側の月光に光る山国川の姿がありありと見えます。了海は「おう!」と叫び、歓喜の泣き笑いを挙げ、「実之助どの、御覧なされい。二十一年の大誓願端(はし)なくも(はからずもの意)今宵成就いたした。」と横にいる実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せます。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは岸に沿う街道に間違いありません。「敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙に咽(むせ)んだ」のです。
 が、しばらくすると了海はこう言います。
 「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お斬りなされい。かかる法悦の真中に往生致すなれば、極楽浄土に生るること、必定(ひつじょう)疑いなしじゃ。いざお斬りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げを致そう、いざお斬りなされい。」
 だが実之助は涙に咽(むせ)ぶばかりです。心の底からの歓喜に泣きじゃくる老僧の顔を見ていると、最早それを敵として殺すことなど思いも及ばない事でした。実之助は「敵を打つなどと云う心よりも、此の嬴弱(かよわ)い人間の双の腕に依って成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸が一杯であった」のです。実之助は老僧の手を取り、二人すべてを忘れて感激の涙に咽び合うのでした━━━。

 菊池寛の小説は、テーマ小説と呼ばれています。それは一つのテーマを設定し、そこに向かって意図的に物語を進めていく手法だとされています。確かにそれはその通りですが、それよりも強調しておきたいのは、彼の文章のテンポの良さと端的(たんてき/てっとりばやくわかりやすいの意)な表現力、そして何と言っても菊池寛の人間的度量(心の大きさ)です。菊池にかかれば本当は難しく大きなテーマでも、明快で御(ぎょ)しやすい(扱いやすいこと)ものに見えてくるから不思議です。この「恩讐の彼方に」も本来、贖罪(しょくざい/罪ほろぼし)とは何か、それによって罪を本当にあがなうことが出来るのか、敵討ちの無意味さ、封建性への批判等々、よくよく考えさせられるテーマがばらまかれているのですが、どうしたことか、そんなことは吹き飛んでしまうほどの爽快な結末に、菊池の並々ならぬ人間的力量が感じられるのです。
 彼の文章には、ある観念が付随していて、どうもそれを省略しては彼の小説は成り立たないような気がしてなりません。その観念とは、結局は彼の道徳観念に帰せられることにもなるのでしょうが、そういった平べったい善悪云々といったことよりも、より強い彼の生きた人生観が作品を大きく支配しているように感じるのです。
 このことは、この小説のより簡明な梗概を見るときにはっきりと分かります。例えば、ある文学辞典に記されている「恩讐の彼方に」の梗概は次の通りです。

 「主人の愛妾(あいしょう)お弓と通じ、これを見とがめられて主人を斬って女と逐電した市九郎は、切取り(人を殺して金品を奪うこと)強盗をして過していた。女の貪欲(どんよく)に一念発起して、了海と名のり、諸国行脚(しょこくあんぎゃ/僧がほうぼうの国をめぐって修行すること)、豊前(ぶぜん/大分県)の耶馬渓(やばけい/大分の地名)で、洞門開鑿(かいさく)の大業(たいぎょう)をおこす。中川実之助が父の仇(かたき)をさがし、了海をつきとめる。了海の悲願を知り、協力して、洞門を掘る。二一年目に開通、敵(かたき)どうしは手をとりあって、これを喜んだ。」※2

 これではこの小説の味わいが無いに等しく、最後に敵同士が手を取り合って喜ぶ意味がさっぱり分かりません。ですが、あらすじとしては正しく、まさにその通りに話は進んでいったには違いないのです。
 つまり、この小説はその骨格だけでは全然量(はか)れない作品だということです。この論考の冒頭から長々と梗概を書き連ねたのも、そのあたりに事情があります。菊池の文章は、テンポの良いストーリー展開と共に、登場人物の心理を深く、明確に、そして精細に描写しているのです。つまり、その登場人物の心の有り様、変遷こそがこの作品の主題であり、決して、贖罪で洞門を完成することそのものを書きたかったのではないということです。主人公市九郎の悪から善への転身とその一念の深さ、それを敵(かたき)と狙っていたはずの第二の主人公実之助の改心への道のりこそが、この作品の主題であるはずです。二人の主人公がたどりついた心の場所こそがこの作品の終着点であり、菊池の人生観を表すものであって、その菊池の思いを託した市九郎や実之助の心の変遷こそ、この作品の本当のストーリーだと断言できます。そうでなければ、例で示したような骨抜きの梗概になるはずがないのです。
 そのことを踏まえてこの「恩讐の彼方に」を見直してみると、そこには菊池寛という人間がそこかしこにあふれているように思えます。彼の文章に芬々(ふんぷん/においが強く感じられること)と漂う明確な人間哲学と呼んで然るべきものが、先にも言いましたが強く作品を支配しているのです。彼の作品が、その骨格だけ眺めても何も伝わらないのは、話の筋はその枠組みでしかなく、血と肉が通ってこそ真の作品が完成することの謂(いい/意味)でもあるのです。そしてその血肉が主人公たちの心の有り様、菊池の人生観であることは言うまでもありません。

 もう一度、市九郎の心の有り様を見てみましょう。
 市九郎は主を斬り殺した時からすでに良心の種を心に宿しています。お弓にそそのかされ悪の道に染まっていますが、若い夫婦を殺害した時からその良心の種は悪を凌駕(りょうが/他のものをしのぐこと)しはじめ、仏門に入ることによってその良心は大きく膨れ上がり、刳貫(こうかん)を開削する時点ではその心は無限の広がりを呈していることは明らかでしょう。菊池は市九郎が実之助と出会ってからは「市九郎」ではなく法名の「了海」を用いて彼を指す工夫をしています。つまり、市九郎は漸次(ぜんじ/だんだんと)人間から菩薩へとその心を高めていることが分かります。いや、これは深める、と表現したほうがよいのかもしれません。洞門が深くなればなるほど市九郎は菩薩化しているのですから。
 一方、後半に登場する実之助です。
 彼は市九郎を父の敵(かたき)と捜索する武士ですが、実際には市九郎に出会ったとき、彼は失望を覚えます。このあたりが菊池のリアリストたる所以(ゆえん/特別な理由)ですが、会ったこともない仇を実之助がどう心に描いていたか、それは人間の残骸のような市九郎ではなかったはずです。ここに、復讐心を支えていたもの━━━武家社会において最(さい)たる(第一である)目的である家の再興という武士としての面目━━━の脆弱(ぜいじゃく)さが露呈されます。頭にある観念と現実の生身の人間との齟齬(そご/くいちがい)が象徴的に示された箇所と言ってよいでしょう。ついで、闇に乗じてひそかに市九郎(了海)を殺そうとする場面は印象的です。実之助は菩薩同様に洞門を掘り続ける了海の姿に、かえって自身の浅ましさを思い知ります。実之助はここで了海の巨大な菩薩心に圧倒されたのです。そこから実之助の心は確実に変わっていきます。了海と並んで刳貫(こうかん)を掘るようになった実之助に、以前の復讐心は消えてなくなろうとしているのです。実之助が了海の心の深さに呑み込まれていくのです。彼の恨みは穴を掘るにつれて薄れていったはずです。つまり刳貫(洞門)は、市九郎にとってはその罪が、実之助にとってはその恨みが消えていく比喩になっているのです。
 二人の心は最後に一つになります。ついに刳貫が完成し、二人が最後に手を取り合って咽び泣く場面、それは神々(こうごう)しいまでの人間讃歌に満ち溢れています。悪人であった市九郎は完全に菩薩たらんとする「人間」として完成し、それを許す実之助は武士の前に一人の「人間」としての面目を獲得することが出来たのです。まさに「恩讐の彼方に(相手への恨みを越えてという意)」というタイトル通りのフィナーレに、読む者は強く感動せずにはいられないでしょう。この小説が菊池の代表作とされる所以もそこにありますが、その根底に流れている菊池の、「人間」たらんとする人生観を見過ごしてはいけません。
 先にも述べましたが、菊池寛の文章にはある観念が付随しています。その観念とは、非常に強固で明確な「人間」への意志、と言ったらいいでしょうか、そんな人間観に基づいた、人間の生き方、人生観です。菊池の強烈なエゴはその人生観を完全に肯定します。彼の人間的度量はそのエゴの大きさに比例した人生の肯定力だと思われます。それがはっきりと示されたのがこの「恩讐の彼方に」なのです。

 さて、菊池寛は作家としてよりも文芸春秋社の創設者、社長としての方が有名かもしれません。しかし今でもそれが少し悪目立ちしているような気もします。「生活第一、芸術第二」という信条も有名ですし、後には通俗小説しか書かなかったという事実もあり、「サザエさん」の作者長谷川町子が書いた自叙伝漫画「サザエさんうちあけ話」にも登場※3、札束が胸元からのぞいていたりする場面が描かれていますから、どうしても金満(きんまん/大金持ち)作家としてのイメージがつきまとっているのです。
 しかし、菊池寛の「半自叙伝」「葬式に行かぬ訳」を読めば、彼が世に出るまでどんなに貧しい生活をしていたかが分かります。幼少期から教科書も買えない家庭に育ち、人の援助で大学に行き、卒業してもシミや穴だらけの袴(はかま)をはく他なく、恩師の葬式に持っていく香典もなく、彼にとって、金の苦労は格別でした。結婚も資産家の娘という条件で相手を探してもらったほどです。それほど彼は人生の辛酸をなめてきたのです。
 ━━━だから、人生は分からないのです。
 「恩讐の彼方に」(大正8年)を書いた時、菊池はまだ31歳、「文芸春秋」創刊(大正12年)までまだ4年あります。はじめて原稿料を得たのが29歳の時ですから、まだそれほど楽な生活ではなかったはずです。そんな彼を救ってくれたのは結局彼自身の強い人生観だったのではないでしょうか。
 それを示す言葉が「小説家たらんとする青年に与う」(大正12年)という小品に残されています。

  「とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るということと、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。」※4

 「すなわち、小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。」※4

 「そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿(かく)された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。」※4

 菊池にとって、「人生観」こそが「文学」であったわけです。
 盟友芥川龍之介が「芸術派」の代表なら、菊池寛は「人生派」の代表として大きく文壇にのしあがっていくことになります。
 ━━━芥川と言えば、菊池寛が芥川を評している文章の中に次のような言葉があります。

 「芥川の創作には一分の隙のない用意と技巧とが行き渡つて居るが、それと同じやうに、実生活の上でも芥川は一分も隙を作らないやうに思はれます。此の点は感心はしますが、同情はしません。
 芥川の創作は今の日本では芸術的には最高の標準にあると思ひます。森田草平氏が技巧の点では第一人者と云つた事に賛成します。又その観照の澄み切つて居る点でも一寸類がないやうです。が、芥川の創作には人生を銀のピンセットで弄(もてあそ)んで居るやうな、理智的の冷淡さがあり過ぎるやうに思はれます。もう少し作者がその高踏(アルーフネス/俗世間から離れそれより気位高くいること)を捨てゝ、作品の中に出て来てもよいと思はれます。」※5

 なるほど、着物で帯を結ばないまま歩いたり、気付かず腕時計を二つしていたり、中央公論社に抗議に行って「婦人公論」の編集長の頭を殴ったり、どちらかというと無造作で人の眼をさほど気にしない言動が目立つ菊池寛ですから、芥川の隙のなさに「感心」はしても「同情」はしないのです。そして、「人生を銀のピンセットで弄(もてあそ)んで居るやうな、理智的の冷淡さがあり過ぎる」と指摘する菊池自身は、全くその反対の性情の持ち主であったに違いありません。「作者が」「作品の中に出て」きているのもまさに菊池本人です。菊池寛は良い意味でも、時には悪い意味でも自分に大変正直な人間だったように思えます。
 そして、そこにこそ「人間」菊池寛の輝きがあるのです。「芸術」よりも「生活」、すなわち、生きる「人間」だと頑として譲らない菊池の人生観は彼自身の生き様でもあったはずです。のちに文壇の大御所と呼ばれ、芥川賞、直木賞を制定しその賞金で貧乏に苦しむ若き文士に希望を与え、文学の社会的位相をより「現実的」なものたらしめたのも、その菊池寛の人生観でなくて何だと言えるのでしょうか。
 何よりも生きる「人間」としての文学の創造━━━そこにこそ菊池寛の、菊池寛たる面目があるのです。

※引用は次の通りです。
※1筑摩書房「現代日本文學大系44 山本有三 菊池寛集」より。梗概の中の他の引用もここからです。
※2新潮社「増補改訂 新潮日本文学辞典」より「菊池寛」の項から。
※3朝日新聞社 長谷川町子「サザエさんうちあけ話 似たもの一家」より。
※4筑摩書房「現代日本文學大系44 山本有三 菊池寛集」より。
※5菊池寛 「芥川の印象」より 初出は「新潮」(大正6年10月)青空文庫参照
また、適宜括弧( )を付して読みと意味を添えました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?