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現代語訳 樋口一葉日記 26 (M26.2.13~M26.2.28)◎凍り付く寒さ、『都の花』に「暁月夜」掲載、桃水の突然の来訪、『胡砂吹く風』、萩の舎の憂鬱、つむじまがり

よもぎふ日記(明治26年(1893))2月

(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意一葉はこれに限らず同じ題を何度も使っている。)

(明治26年)2月13日 昨夜からの寒気が大変厳しい。寒暖計は零度以上五度になった。(※当時気温の単位はまだ華氏である。華氏0度は摂氏零下18度、華氏5度は摂氏零下15度である。日本では大正8年から摂氏が採用された。)私がまだ知らない寒さである。手洗いなどは、熱い湯を注ぎ入れられても依然として氷が解けず、それに倣って、(他の)もの(も)皆同じように凍りついている。仕掛けておいた米が、ひたすら凍りに凍って、桶から出すことも出来ず、これにも湯を注いで、やっとのことで(氷を)解かした。十時になって寒暖計は二十度(※摂氏零下7度)にまで上がったのであった。
(明治26年)2月14日 母上が、小林さん(※小林好愛(こばやしよしなる)。一葉の父則義の元上司。直近では明治26年1月23日に出ている。)のところに用事があって行かれた。この日も朝の間は寒暖計が七度(※摂氏零下14度)であった。
(明治26年)2月15日は少し(寒さが)緩んだ。起き出てみると霜も少なく、今日は二十一度(※摂氏零下6度)だといって一同喜んだ。今日の新聞に、欧羅巴(ヨーロッパ)各州もまれな寒気で、全市皆氷に閉ざされてしまったところもある由である。(※フランスのジジョンという町が雪のため交通不能になり孤立状態にある報道がなされていた。)
(明治26年)2月17日 早朝、地震があった。それから天気が曇った。午後一時頃、湯島四丁目から出火、すぐに(火は)消えた。西村さん(※西村釧之助)が来訪された。六時頃帰宅した。雨が降り出した。九時過ぎ頃、近辺で出火した模様であった。雨は篠をつく(※雨が激しく降ること)ようであったので、立って出て見たが、どちら(で火事)なのかこの夜は分からなかった。
(明治26年)2月18日 雨がやんで風が吹き出した。姉上(※ふじ)が来訪した。母上が血の道(※月経時、また更年期による頭痛、のぼせ、疲労感などの身体の不調。)で顔色がすぐれなかった。
(明治26年)2月19日 小石川(※萩の舎)の稽古を休んだ。
(明治26年)2月20日 安達盛貞さん(※安達の伯父さん。一葉の父則義からの知人で元菊池家に仕えていた官吏。直近では明治25年8月30日に出ている。)の病気で危ないと聞いたので、国子(※邦子)とともにお見舞いに行った。本当に今度こそは最期と思われた。人柄は面白くはなく、いつもはそれほど親しくもしなかったのだが、(伯父さんを)見るとすぐに涙ぐまれて、「ああ、今少し生きていらっしゃってほしい。」と悲しくなった。こういうことを見るにつけても、老いた親を持つ身にはとても物悲しい。枝が静かであろうとすると風がやまないように(※ことわざの「樹静かならんと欲すれども風止まず」からだろう。続きに、「子養わんと欲すれども親待たず」とある。親孝行をしようと思った時には、もうすでに親が生きていないことを嘆くこと。木が静かになりたいと思っても、風が吹きやまずままならないことになぞらえたもの。風樹の嘆とも。)(今から)養おうと思っていた親が(思いのほか)早く亡くなったりなどしたら、天地を恨んでも何の甲斐もあるはずがないのだ。いろいろと考えているうちに胸が痛くなった。この日、望月(※望月米吉の妻とく。望月は一葉の父則義在世時からの知人。八百屋で屋号は豊屋。生活が貧しく樋口家から時折援助を受けていた。直近では明治25年3月21日に出ている。)が来た。日曜なので芦沢(※芦沢芳太郎。一葉の母たきの弟、芦沢卯助の次男。芳太郎は上京して陸軍に入り近衛第一連隊に配属されていた。直近では明治26年2月5日に出ている。)も来た。
(明治26年)2月22日 晴れ。日没近い頃、(郵便で)『都の花』が来た。(『都の花』は)百号で一度やめる予定だと聞いていたのだが、組織が変わってさらに百壱号を出したのであろう。(※『都の花』100号の予告文によると、今後は組織(※ここでは組み方、編集方針の意)を変え、掲載する作品を5作品に限り、長編小説でも10号を超えないように規制して、10号ごとに内容を刷新する方針を打ち出していた。一葉が『都の花』の編集者藤本藤陰(ふじもととういん)に何を聞いたかは分からないが、これを見る限り『都の花』が100号でやめるようなことはなかったようである。ただし、『都の花』は結局109号で終刊となった。『都の花』は明治21年に創刊し、日本初の文芸雑誌と目され、山田美妙を主筆に二葉亭四迷、尾崎紅葉、幸田露伴といった当代一流の作家が作品を寄せ、一時代を築いた。)表紙は、薄紫の紙に桃桜をあしらった図案でなかなかよい。私の「暁月夜(あかつきづくよ)」がこれに載っていて、永洗(※富岡永洗(とみおかえいせん)/明治期の浮世絵師、日本画家。美人画が得意で新聞や雑誌の挿絵を多く手掛けた。)の挿絵も華々しく、藤陰さんの口上に私のことが仰々しく書かれているのも、(恥ずかしく)赤面されることである。(※『都の花』の見開きに目次があり、その次の頁に藤本藤陰の口上が載っていた。口上とはその雑誌の内容の宣伝のことで、「売出し」というタイトルに続いて次のような文句が書かれていた。「入らツしゃい入らツしゃい(※2番目の<入らツしゃい>は実際は縦長の「く」の文章の繰り返し記号。縦書きのみの表記記号なのでここでは<入らツしゃい>をそのまま記した。)、都の花は当百壱号より、新に名花(※美しい評判の花、また、美女のこと)数株栽(う)ゑ芳香紙面に芬々(※ふんぷん/盛んに匂うさま)たり。入らツしゃい入らツしゃい。志かま(※作家名)の気骨を出だしたるものがたり。柳浪子(※作者名)の涙ツぽいものがたり。女史には罕(まれ)な一葉(ひとは)とは謙称にて、懸け樋(※かけい/地上にかけ渡して水を引く樋(とい))の口より滴る水の、夏も涸れぬ錦心繍腸(※きんしんしゅうちょう/詩文の才能にすぐれていること)、浮きたる恋には靡(なび)かぬものがたりも載せてあります。」賑やかで景気の良い藤本藤陰の口ぶりもさることながら、3番目に載った「暁月夜」の派手な紹介に一葉は顔がほてったのである。)
(明治26年)2月23日 晴れ。中島(歌子)師の君の発会(※ほっかい/その年最初の歌会)について問い合わせがしたい由で、榊原家(※榊原つね。萩の舎門人。明治25年10月15日に入門したと書かれている。一葉はつねを姫君と称している。)から使いの者が来られた。(その使者は)つね姫君の侍女で、いつも小石川(※萩の舎)へもお供をする人であるが、母上が初対面の挨拶をいたしましょうと立って出ると、(その人は)「やや」と驚いて、「あなたでしたか、あなたでしたか、存じ上げぬことでした。」と言った。母上は老眼ではっきり見えないので、「どなた様でしたか、忘れてしまいました。」と言うと、「私はその昔安達さん(※安達盛貞)のところで、千代子(※安達盛貞の長女)の侍女として仕えていた女です。」と言った。私もいつも見て知っている長(※稲垣長太郎)とかいう(名の)大工の妹であった。縁(というもの)は蜘蛛の巣のように(ぐるぐると)めぐりめぐりするものである。それだからこそ天網疎なり(※天網恢恢疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)/天の張る網は一見粗いようであるが、悪事を網の目から漏らすことはない、ということ。悪事を行えば必ず天罰が下ること。)と言って犯した罪は逃れ難いのだなあ。そこから話の口がほぐれて、いろいろな話が大変多かった。この人が帰って、昼過ぎに姉上(※ふじ)が来訪した。「時候あたりでしょうか、気分がすぐれません。」と言うので、茶菓子の馳走などをした。日没後戸締りをして、皆々火桶(※木製の火鉢)のもとに寄り集まって話をしていると、門の戸をこんこんとたたいて訪れた人があった。「日が暮れて訪ねる人があるとも思えないのに。聞き違いかな。」と耳をそばだてると、本当にわが家である。「どなた様ですか。」と家の中から尋ねると、「半井ですよ。夜になって無礼ですけれど。」と言うので、その人(※半井桃水)だと聞くやいなや、胸はただもう大波が打ったようになって、思いがけず、ただ夢とばかりに途方に暮れてしまった。立って出て門の戸を開くと、いつものように物静かに門の中へ入る(半井さんの)姿、嬉しいなどとはしばらくして気持ちが落ち着いた後のことで、何もかも霧の中にさまよっているようであった。明けても暮れても、嬉しい時にも悲しい時にも、決して(その人を)忘れた時はなく、夢にもうつつ(※現実)にもわが身を離れない人で、その上さらにこの一日二日気もそぞろに(その人からの音信が)待たれて、訪い訪われるはずの仲(※恋仲)でもないのに、不思議にも、「言づての便りでもあればなあ、せめて手紙でも見たいのに。」などと人には(決して)言われぬことを思い、(それで)何度も門に出て(来るあてのない手紙を待って)立ち尽くして、(違う人からの)郵便にだまされて、恥ずかしかったことも一度や二度ではなかった(のだ)。(※一葉は「暁月夜」が『都の花』に掲載されたことを半井桃水に報告に行きたかったのだろう。前回桃水に会ったのは「うもれ木」が『都の花』に載ったことを報告に行った明治25年11月11日である。自分の作品が雑誌に載れば、それを口実にして元の師匠である桃水に会えるという思いが一葉の胸に秘められていたはずだ。だがそれを母や妹に自ら言い出す一葉ではない。だからせめて半井先生から「暁月夜」を見たという手紙でも送ってくれないかと、空想に似た淡い望みを抱いていたのだろう。)(その人を前にして)言うべきことも思い浮かばず、尋ねるべきことも忘れて、顔が火照るのがとても耐え難かった。半井さんは静かに口を開いて、「(音信を)途絶えさせました疎遠の罪は、(どうか)成り行きのまま大目に見てお許しください。(あなたから)年賀状をいただいたのに、その返信もお出しせず、去年より風邪をひいて、新年になってからは長らく湯治になど遊びに行っていたものですから、こう(※無沙汰をしたこと)なってしまいました。」などとお詫びなさった。(続けて、)「去年いただいた御歌のお礼かたがた、製本した『胡砂(こさ)吹く風』をご覧に入れて差し上げたく、そのために(来たの)ですよ。(※明治25年12月7日に桃水は小説「胡砂吹く風」を本にするにあたって、一葉に和歌を一首所望する旨の手紙を出している。一葉もすぐに歌を書いて返事を出している。)書肆(※しょし/本屋。書店。当時は本の制作、出版、卸、小売り、古書の売買までを一手にしていた。)が欲張って、売る方にはとても早く(本を)まわすというのに、作者(である私)の方にはなかなか送ってもこないでいて、ようやくのことで私の手にまわってきたので。」と言って、『胡砂吹く風』上下二巻を(私に)くださった。表紙は美麗、図案も見事で、なかなかの大部(※たいぶ/頁が多く厚いこと)である。前編(上巻)の題字は朝鮮の忠士(※ちゅうし/主君や国家に忠義を尽くす人)朴永孝(※パク・ヨンヒョ/朝鮮の親日派の政治家。金玉均(キム・オッキュン)らとともに開化党を結成し、クーデターを計ったが失敗、日本に亡命していた。桃水は特派員として朝鮮にいたのでその頃からの知己であったようだ。一葉の日記の明治25年5月22日にも出ている。)、詩は花州逸人(※かしゅういつじん/不詳)とかで、(どちらとも)半井さんの知己であろう。私が(詠って)差し上げた和歌は、華やかに口絵の前(の頁)にあって、林正元(※はやしまさもと/「胡砂吹く風」の主人公。日本人の父と朝鮮人の母を持ち、両国の為に活躍する英雄として描かれた。)の肖像(※これが口絵)と並んでいた。(※つまり右の頁に一葉の歌、左の頁に林正元の肖像画があったわけである。)素園主人(※不詳)の文章(※原文は<文(ふみ)>で、手紙、漢詩の意味もある。)、半井先生の端書き(※序文)、巻末には愛読者から送られた詩や文章の類いが多く載せられていた。(※「胡砂吹く風」は元々新聞に連載された小説である。ファンレターであろう。)(その中の)無名氏(※むめいし/名が分からない人を呼ぶ言葉)から寄せられた詩の中に、「甞期海外挙奇勲 鉄釼芒鞋意気振 不識素心帰落莫 一篇偉作表前身」(甞(かつ)て海外に奇(く)しき勲(いさお)を挙げんと期し、(※かつて海外にすばらしい功勲を挙げようと期して、ほどの意。)鉄釼(※てっけん/鉄剣)、芒鞋(※ぼうあい/草鞋。)に意気振るう。(※鉄剣と草鞋を携えてその冒険に気概を振るった、ほどの意。)素心(※そしん/もとからの志)落莫(らくばく)に帰れるや識(し)らざれども(※志がならず物寂しい結果に終わったのかどうかは分からないが、ほどの意。)、一篇の偉作(※偉大な作品)前身(※以前の姿)を現す。(※作者の以前の姿がこの一篇の偉大な作品で分かる、ほどの意。)というものがあって、何とはなしに(半井さんの)昔の姿が思われて、灯火の影からかすかに顔をあげると、(半井さんの)優しげに微笑んでいる顔だちは、本当に、林正元が今ここに出現したかのようであった。私の小説「暁月夜」をいつのまにご覧になったのだろうか、(「暁月夜」について)詳しくお話をされた。いまなお折節に(私の事に)目を留めていて下さる嬉しさは、とても比べるものがない程であった。(だけれど)とりわけお話しすることも多くはなく、「それでは」と(半井さんが)行かれるのをお止めすることもなかなかできず、お見送りする時は悲しくて仕方がなかった。(実際、)嬉しいともつらいとも何とも言いようがない。夢かうつつかとも判別することが出来ないのだから、言いたかったことも何も、ただもう全くどうしてよいのか分からなかったのだ。
『胡砂吹く風』は朝鮮(を舞台にした)小説で、(全)百五十回の長編だ。桃水先生はもとより文章が粗く、華麗さと奥深さには欠けていらっしゃる。(※原文には<幽棲>(ゆうせい/俗世間から離れて静かに暮らすこと)とあるが、おそらく幽邃(ゆうすい)、幽遠、幽玄あたりの意味合いで使ったのだろうと思われる。筑摩書房版一葉全集には「幽凄」歟(か)、という補注が付されている。また、原文の<かき給へり>の<かく>を「欠く」ではなく「書く」ととれば、「(その大ざっぱな筆で)華麗な(物語)と奥深い(物語)をお書きになられた。」と訳出することも可能である。)またご自身も文に努めるところはなく、ひたすら(物語の)趣向、意匠ばかりを尊重されていると思われる。そうではあるけれども、林正元の知恵と勇気、香蘭の節操(※香蘭は林正元の許嫁。商家の娘であったが一家離散し行方不明となる。流浪を続けていたが自らの節操を守り、のちに林正元と再会し結ばれる。)、青陽の苦節(※青揚が正しい。彼女は香蘭の父の商売仇の娘であったが、やはりこの家も没落して悪者に囚われていたところ、林正元により助け出される。が、苦難の末正元の身代わりとなって死んでしまう。)ともにいささかも損なわれたところはなく、読んでいくにしたがって喜ぶべきところは喜ばれ、悲しむべきところはひたすら涙がこぼれて仕方がなかった。そうであるのは(小説)編中の人物が(そう)活動するのではなく、私の心の奥に(そのように)操るものがあるからであろう。(※小学館版一葉全集のこの箇所の補注に、一葉のこの認識には三界唯心(※明治26年1月8日の日記に詳説しているが、要は、何もかも自分の心から生まれるという仏教の教え。)があるように記してある。)田中みの子さんは、学問も深くはなく、学識もまた高くはない人ではあるが、『胡砂吹く風』について非難されるところがたくさんあった。(※おそらく新聞連載時から一葉にそう言っていたのだろう。)それも(すべてが)当たっている説ではないだろうけれども、ともかく、(「胡砂吹く風」は)完美(※完全にして美しいこと。非の打ちどころがないこと。)の作品ではないだろう。いやいや、もしたとえ、この小説が世の中に顧みられないほどのものであって(も)、人には半文(※一文の半分。わずかな金銭。)の価値さえなくともよい(のだ)。私にとって、(この本は)生涯の友であり、これをおいて他に何があるというのか。細い光の孤燈(※たった一つの灯火)の下、闇夜の雨が窓を打ちつけるような(寂しい)夜、(この本と)人知れぬ思いをこまやかに語って、(誰)はばかることなく悲しんだり、喜んだりすることは、この世に求めて得難いところである(のだ)。(※一葉はすでに桃水の作品には真の文学的価値がないことを見抜いている。だがそれ以上に、恋する桃水から贈られたこの本がどんなに嬉しかったことか。「孤燈」以降の文章は、たった独り寂しい夜に、この本を読んでいれば、まるで桃水と語り合い、ともに悲しんだり喜んだりしている気持ちになることを一葉は表現しているのであろう。)この夜はこの本をひもといて、暁(※夜明け前)の鐘を独り聞いた。
 引(ひき)とめんそでならなくにあかつきの
         別れかなしくものをこそおもへ
(※(行かないでと)引き留める袖ではないのに、(本を閉じる)暁の別れが悲しくてもの思いに沈んでしまうことだなあ、ほどの意。)
(本を読まない)昼間は(その本と)しばしのお別れである。
(明治26年)2月26日(※原文は日付なし) 萩の舎の発会は二十六日であった。心の晴れないことが重なったので、(とても)行くことが出来ないと思っていたが、やはり世の中に入りまじる身である(から)と思い直して行った。(来会する)人は昼からだけれど、いつもこのように午前中から(師の君を)手伝うのである。小石川(※萩の舎)に師の君のところを訪ねて、一緒に車(※人力車)を連ねて行った。(※発会は万源楼という料亭で行われた。万源は明治25年2月21日、明治24年5月31日にも出ている。)しばらくして田中さん(※田中みの子)も来られた。わずらわしい話に耳も塞ぎたいのを、どうにかこうにか聞き流していたら、まもなく人のいないところに私を呼び寄せて座らせて、みの子さんは大変しみじみと師の君のことについて語った。いつものことではあるが、大変つらい。夏子さん(※伊東夏子)が来られてからのいろいろなこと(※伊東夏子にも何かを言われたのか。)、その(母上の)延子さんから私に頼んできた言葉など、あれを聞いてもこれを聞いてもそのつらさは耐え難いものであった。(※どうも萩の舎の内部で何かいさかいがあったようである。上流階級の女性社会の中での内紛、うちわもめに一葉は嫌気がさしているのが見て取れる。)榊原(※榊原つね。3日前の2月23日に出た姫君。)、小笠原(※小笠原艶子。直近では明治25年9月5日から8日に出ている。)、水野(※水野銓(せん)子。直近では明治25年4月5日に出ている。)、中牟田(※中牟田常子。直近では明治24年6月10日に出ている。)などの姫様たちは、華やかに飾り立て今日が晴れ(舞台)と(美しく)装っているのは、大変罪がないことである。「上をよそふて花見哉」(※江戸時代の俳人、上島鬼貫(うえじまおにつら)の句に、「骸骨のうへを粧ふて花見かな」(※一皮むけば骸骨に過ぎない人間(女)たちが美しさを装って花見をして楽しんでいることだ、ほどの意。仏教の虚無的な無常観をあしらった句。)という故人(※今は亡き人、ここでは上島鬼貫)の悟りは面白いけれど、やはり麗しいものは麗しいものである。三宅さん(※三宅龍子)が来られた。星野天知さん(※『文学界』を創刊。明治25年12月26日に出ている。)からの書状(※一葉の書いた小説「雪の日」を『文学界』3号に載せる了承を求めたものであった。)を、『文学界』一号とともに贈られた。「筆墨料(※ひつぼくりょう/原稿料)を送られましたので返事をお書きになって。」と(龍子さんに)請われて書いた。(※『文学界』の原稿料は一葉と北村透谷にだけ支払われたという。)(龍子さんは、『文学界』の星野天知さんたちが)私の事を「つむじまがりの女史」と言ったとか。(それを聞いた)雄二郎さん(※三宅雄二郎。龍子の夫。)が戯れに、「(それは)本当か」と龍子さんにお尋ねされたところ、(龍子さんは)「(夏子さん(※一葉の本名)は)いつも銀杏返し(※髷の一つ)が(頭に)載っていないことがないから、そこのところは分かりません。」と言って笑ったとかいうことだ。(※銀杏返しの髷をいつもしているから、つむじが見えない、という洒落。それにしても、三宅龍子はそんなことまで一葉本人に伝えて、けろりとしている。)散会は六時であった。天知さんからの手紙は大変丁寧で感心させられたが、(※原文は<天知氏よりの文はいとねんごろにて力まけせしかど>である。問題は<力まけせしかど>である。後ろから解析すると、<ど>は逆接の接続助詞で活用語の已然形に付く。とすると、<しか>は過去、完了、存続の助動詞<き>の已然形であろう。だから<しかど>と合わせて「~たが」「~たけれど」ほどの意となるのは間違いない。次に、<せ>だが、そのあとの<しか>、つまり<き>が活用語の連用形に付くから、まず思いつくのは使役の助動詞<す>の連用形(下二段活用)である。ただし、動詞の<す>であってもこれはサ行変格活用なので<しか>とは特殊な接続になり<す>の未然形の<せ>に付いてしまい<せしか>となる。つまり、ここは使役の<す>か動詞の<す>か判別できないのである。だから後半の<せしかど>は、<せ>が使役の助動詞であれば「~させたけれど」と、<せ>が動詞であれば「~したけれど」となり、そのどちらかだということになろう。そこでこの前の語句を見ると、<力まけ>とある。これが全く分からない。そのまま訳せば文字通り「力負け」である。腕力や実力が足らず負ける意である。一葉はもちろん誰とも戦ってはいないし、まして『文学界』のボスの星野天知と力を争うはずはない。しかし、こう書いてあるのなら、「天知さんからの手紙は大変丁寧で力負けさせたが」(<せ>が使役の助動詞<す>の場合)と訳すか、「天知さんからの手紙は大変丁寧で力負けしたが」(<せ>が動詞の<す>の場合)と訳すかしか仕方がない。もしこの「力まけ」が、星野天知がそんなに丁寧に手紙を書くほど自分は筆の力があるわけではない、という意味で書かれているとしたら、思い切って、「天知さんからの手紙は大変丁寧で私のことを買いかぶっているのだが」とでも意訳するしかないだろう。それはそれでどうにか通じるには通じるだろう。それにしても、どうもこの<力まけ>はこの場面にそぐわないように思われる。星野天知は一葉に筆の力があるから丁寧な手紙を書いたのだろうか。まだ会ったことがない相手だからこそ馬鹿丁寧な手紙を書いたのではないだろうか。一葉にもそれは分かっていたはずだ。すると、この<力まけ>という言葉がますます怪しくなってくる。本当に<力まけ>と書いてあるのだろうか。小学館版一葉全集でも筑摩書房版一葉全集でも同じく<力まけせしかど>と字を起こしている。そこで、大胆ではあるがこの<力>をカタカナの<カ>と見なして読み直すと、<かまけせしかど>になることに注意してもらいたい。<かまけ>は動詞「感(かま)く」で、感心する意である。そうするとそのあとの<せ>は使役の助動詞と自ずと決まって、<かまけせしかど>は「感心させたけれど」と訳せよう。この場合の使役の対象は自分自身だから「(私を)感心させたけれど」ということである。要は、「感心させられたけれど」ということであろう。この仮説は、突飛なのかもしれないが、「力負け」よりは随分と自然であり、文章の流れにずっと沿うものであろう。もとより実際の直筆の日記の<力>が漢字の「力(ちから)」なのかカタカナの「カ」なのかは実際には分からないだろう。そこで、今回はより自然な仮説の訳を本文に示させてもらうことにした。)私の事を(少し)仰々しく考えておられるのがとても面白かった。『文学界』にも「若松(※若松賤子(わかまつしずこ)。巌本善治の妻。バーネットの「小公子」の翻訳で著名であった。)、花圃(かほ)(※三宅花圃)、一葉の諸名媛(※しょめいえん/もろもろのすばらしい姫君たち、の意。)」とか書かれているのは、実(じつ)(※実質)よりは名(※名声)がまさる世の中(であって)、ほんとうの誉れある姫君のためにも残念なことである。この夜は早く寝た。
(明治26年)2月27日 三枝さん(※三枝信三郎。一葉の父則義の恩人真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治26年1月2日に出ている。)に手紙を出した。それは(借金の)返済の違約を詫びたのである。昼頃より雪が降り出した。万感の思いここにあふれて、散り乱れた心はとりわけ鎮め難いものであった。私が雪の日に心惹かれるのは、愛(いと)おしむのではない、悲しむからである。火桶(※木製の火鉢)をはさんで穏やかにお話しをし、(あの人が)手ずから御汁粉を調理してくださったあの日、(私の)恋も悟りもあの雪の日があったからこそなのだ。(※明治25年2月4日の出来事(雪の日)を追想しているのである。その日は一葉にとって半井桃水との最も幸福な時間であった。)
(明治26年)2月28日 この日も少し雪が降った。頭痛が耐え難く、一日横になっていた。芝から兄(※虎之助)の使いとして道忠(※塙道忠(はなわみちただ)虎之助の陶器絵付けの弟子。旧姓能勢。直近では明治26年2月9日に出ている。)が来た。久保木(※久保木長十郎。ふじの夫)が依頼した品物が出来上がったので、(道忠が)持参したのである。野々宮さん(※野々宮きく子)から手紙が来た。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)




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