見出し画像

現代語訳 樋口一葉日記 8(M24.10.28~M24.11.10)

(明治24年)10月28日 曇り。六時頃、急に地震があった。「今年は大地震の三十七年」(※天明2年(1782)の天明小田原地震、文政2年(1819)の文政近江地震、安政元年(1854)の安政東海地震、安政南海地震と安政二年(1855)の安政江戸地震のように、およそ37年ごとに大地震が起こるといううわさがあった。明治24年は西暦1891年なので、安政元年からちょうど37年目にあたる。)とかいって、非常に危ながる人もいる。十時頃坂上(※地名)の洗濯屋の主人が来た。「明日昼までに綿入れを二枚仕立ててもらいたい」ということだ。断ろうにもそうもいかず、承知した。(その主人は)昼過ぎから(綿入れを作る材料を)持ってきた。国子(※邦子。一葉の妹)と二人で日没までに平縫い(※綿入れの前に袖や身ごろ(胴体部分)を普通の縫い方で縫っておくこと)だけすることが出来た。暮れてから空は晴れていった。風が少し吹いていた。いつものように手習い(※習字)を二時間ばかりして作文にかかった。
明治24年)10月29日 早朝に配達して来る新聞を見ると、昨日の朝の地震は、東京の地こそ何事もなかったようだが、各地の電報によれば、「愛知、岐阜辺りより、伊勢路、浜松辺りなど、並々ならぬ災害であった」という。ただし、「詳細はいまだ分かっていない」という。(※まさに1891年10月28日に起きた濃尾大地震。死者は7000人を超え、家屋倒壊140000件以上の被害があった。そのスケールは1923年の関東大震災に匹敵した。マグニチュード8.0である。)横浜などにも、家屋の崩れたものなどはなかったけれども、電燈会社の電柱などが倒れて、「(電燈を)点灯できない」などと言っている。ある人は大変驚き恐れて、「東京などもまもなく地震がくるに違いないようだ」などと言う。午後二時までに依頼のあった縫物が終わった。それから半井さんに葉書を送った。「明日参上します」とである。書きかけの文章(※小説)を書いたりした。夕刻より『朝日新聞』の号外を売りに来た。地震の報道であろう。この夜床に就いたのは一時三十分であった。夜半から強風。明け方に森川町(※地名)の神社のそばから失火。十二、三戸が焼けた。
明治24年)10月30日 風やまず。空は曇っているようで、大変寒い。新聞が来るのが遅い、と(そわそわとし、やがて届いて)取ってみると、この度の災害地で、特に被害を被ったのは、岐阜県下及び大垣、笠松などである。中でも岐阜は全市焼失、全く実情は分からない。岐阜に近い場所、加納、笠松、関、大垣辺りは死傷者数え切れず、焼失、崩壊など枚挙にいとまがない(※たくさんあって数え切れない意)という。「江崎牧子さん(※前述の乙骨(おつこつ)まきこ。漢学者乙骨耐軒(おつこつたいけん)の孫娘。田辺龍子の親友。結婚して江崎姓となり、岐阜県に住んでいた。明治24年6月13日に手紙を、8月5日には葉書をもらっている。)は上加納高岩町(かみかのうたかいわまち)にお住まいになられているが、どうされたことだろうか。」と思うにつけても、ただ涙がこぼれるばかりである。だけれども鉄道も電信も郵便も不通だというので、安否を問うことも出来ず、空しくため息をついて空ばかり眺めていた。

 十二時頃家を出た。半井さん(※半井桃水)を訪れた。二番地(※桃水の家の住所の番地。麹町区平河町2丁目2。)の住居へ訪問したところ、「いろいろ込み入った話もあるので、最近求めた隠れ家へ。」とおっしゃる。(※桃水は負債を逃れるべく隠れ家をしばしば用いた。隠れ家は平河町2丁目15。)連れ立って、一丁(※1丁は約109メートル)ばかり手前にある、とある裏屋(※うらや/人家や町並みの裏手にある家)に行った。座敷の間数は四つほどであった。書斎であろう、六畳の間に文机(※ふづくえ/読書や書きものをするための低い机。ふみづくえとも。)を置いて、その上に原稿紙、筆硯(ふですずり)などがとりとめもなく置かれていた。障子が四枚立っている外は縁側であろう。入って右側は小窓であるが、風がとても強かったからか、下ろして閉めていた。左に三尺(※1尺は約30センチメートル。)の戸棚があり、その並びに同じ三尺の、床の間めいた箇所があった。自分はいつもの通りの近眼(※ちかめと呼んだ。一葉はひどい近眼で、人の顔も実はよくは分からなかったらしい。)なので、よくは見えないけれど、何であろうか、景色を写した写真の額があった。半井さんと私とは長火桶(※火桶は木製の火鉢)一つ隔てて向かい合って座った。(半井さんは)いつものようににこやかに笑いながら、「こちらへお寄りなさい」などとおっしゃる。(男女)七歳(しちさい)にして席を同じゅうせず(※儒教の教えで男女は7歳になれば男女の別を明らかにしてみだりに交際させてはならないというもの。日本では戦前までこのような教育がなされていた。)ということは、(実際には)行い難いことではあるが、「こう人気のないところでは(なんだか)不安でもあることだ」と思うと、冷や汗が流れる心地がする。言うべきことも言い出すことが出来ず、手に持ったハンカチのみを好都合なありがたい相棒としてまさぐっていた。(半井さんは)「孝子(※幸子。桃水の妹。)を嫁入りさせることで、大変苦労をしました。世の母親が、『娘を縁付けるのは身が痩せる(思いがする)』ということは偽りではありません。我ながら痩せてしまった心地がします」などとおっしゃった。引き続いて、龍太(※龍田が正しい)さん(※桃水の弟、浩のこと。後述。)と鶴田たみ子さんの関係(について)の一件を(話に)出してきて、とても面目なさそうにおっしゃった。「先日野々宮君(くん)を使って(あなたに私の言葉を)聞いていただいた、そのことです。(※明治24年10月18日に野々宮きく子は一葉宅を訪れ、桃水のことを伝えている。また、10月24日には野々宮きく子宅に行ってきた邦子からも一葉は話を聞いている。おそらく浩と鶴田たみ子のことも話題にのぼったであろうが、日記にその詳細は残されていないので、実際にはどのように一葉の耳に届いたのかは分からない。)我が家からそのような醜聞が発生しようなどとは夢にも思っていなかったので、(何も)知らないで(うかうかと)過ごしていたことが、何かにつけても私の失敗です。それなのに、あなたがこうぷっつり途絶えて来訪されなくなると、私の身に何か(悪い行いでも)あるかのように、讒言(※ざんげん/事実を偽って他人を悪く言うこと)する人がいるではありませんか。わが身は白雪の如く清いものであって、(その潔白な我が身をもって)疑われるのは、大変つらく、一方ではあなた(のおでまし)がひところよりぷっつりと途絶えてしまわれたのを、小宮山(※小宮山桂介。筆名は小宮山即真居士(こみやまそくしんこじ)/東京朝日新聞の主筆。桃水の友人でもある。明治24年5月8日に一葉は小宮山に会っている。)などは怪しがっていて、自分にやはり(何か)曲がった事があるように(彼に)思われるのもこれも耐え難い。それで、どうにかしてあなたに以前のように(私を)訪問していただきたいと思って、大変言いにくかったけれども、野々宮さんに(浩と鶴田たみ子のことを)詳しくお話したのです。自分は、このように粗野な男ではありますが、あなたがたにいささかも悪い心を持つものではありません。そもそもが、(私の)兄弟の中から出た醜聞のため、(あなたの)お母上などやらが危ながって、このように(あなたが私の所にいらっしゃるのを)お引止めされたのではないですか。(そのような)ご心配をなさらずお越し下さったら嬉しいことです。」などとおっしゃった。自分はそんな(危ないという)気持ちでもないのだけれど、笹原(ささはら)走る(※ことわざ。脛(すね)に疵(きず)持てば笹原(ささはら)走る。心にやましいところのある者は、落ち着いて世間を渡ることが出来ないことのたとえ。脛に傷があると笹の葉がそれに当たって痛いので急いで通り抜けようとすることから。一葉は桃水の話を聞いても鶴田たみ子の妊娠の相手は桃水だとまだ疑っているようだ。)お心であるようだなあ。(それから)小説のことについてしばらくお話して、以前(私が半井さんに)送っておいた小説を、「近いうちに筆名を用いて世に出したい」などとおっしゃった。(私は)「何とも恥ずかしい限りですが、しかるべく(お取り計らい下さいますよう)。」と言って依頼した。小説本を四、五冊借りて、「また参りますね」と言って立った。(半井さんは)いつものように「今しばらく」などおっしゃったが、長くいるのも非常につらいので、そのまま帰った。九段坂(※地名 坂の名)より車(※人力車)に乗って、家に帰ったのは五時少し前であった。(すると)難陳歌合(※なんちんうたあわせ/明治24年10月23日にも出ている)の巻物が廻ってきていた。(※難陳歌合の会がある時は、味方の歌は前もって詠っておき、それを回覧して評しておくのだろう。)今日はこれの判じ(※「判ず」の形式名詞か、名詞の「判詞」か判然としないが、いずれも、歌合せで、判者が和歌の優劣を定め、その根拠を述べること。また、そのことばを指す。)をする。床に入ったのは十一時であった。

(ここで半井桃水について整理しておきたい。半井桃水は万延(まんえん)元年(1860)長崎県対馬(つしま)に半井家の長男として生まれた。半井家は代々対馬厳原(いづはら)藩の典医(※てんい/医者、また、医薬をつかさどる者)で、父湛四郎(たんしろう)は、龍田家から入り婿で半井家の養子となった。湛四郎は朝鮮人参の検査のため朝鮮釜山(プサン)の倭館に勤務、桃水も明治5年(1872)13歳で朝鮮に渡り、父の仕事を手伝ったりなどした。明治8年(1875)に東京に行き、英語学塾共学舎の学僕として住み込み、そのころから戯作や新聞に興味を持つ。その後西京新聞に入社、続いて魁(さきがけ)新聞に移り、そして朝日新聞の海外特派員となった桃水は明治16年(1883)再び朝鮮釜山に渡る。そこで知り合った同郷の成瀬モト子(※美貌だったという)と結婚したが、モト子が翌明治17年(1884)に肺病で死去。桃水は二度と結婚しないと亡き妻に誓ったという。明治19年(1886)に朝日新聞が東京支局を開設すると、明治21年(1888)に桃水は小説及び雑報担当記者として迎えられ、東京に移り住み、次々と新聞小説を発表。故郷対馬から妹の幸、弟の浩、茂太を迎え、兄弟4人と幸の友人鶴田たみ子の5人、二人の弟子、そして二人の下女(※女中のこと)と暮らしていた。妹や弟は学生であり、桃水一人で大所帯を経済的に支えることは大変であったと推察出来よう。明治24年(1891)7月に鶴田たみ子が浩の子を出産し、桃水は、たみ子を故郷の福井県敦賀に帰し、浩を医学校から中退させ、米問屋に養子にやる。その後たみ子と浩は福井で家庭を持った。一葉が明治24年4月に初めて桃水を訪れたのはそんな時だったのである。なお、桃水の父、湛四郎(たんしろう)が入り婿だったので、元の龍田家に跡目がなく、そのため次男の浩が龍田家を継いでいた。一葉が浩の事を龍田と呼んでいるのはそのあたりの事情を知っていたからであろう。)

(明治24年)10月31日 小石川(萩の舎)の稽古である。朝風が大変寒かったので起き出てみると、霜が真っ白に降りていた。「初霜ですね」などと言う。八時頃家を出て、師の君(※中島歌子)の元へ行く。「暮秋(※ぼしゅう/晩秋の意)の霜」という題がまず出て来た。
   めづらしく朝霜みえて吹(く)風の寒き秋にも成(なり)にける哉(かな)
(という私の歌が)「実景です」ということで十点になった。(※中島歌子は実際実情を詠むことを歌の理念とした。)次は「紅葉浮水(もみじみずにうかぶ)」(という題)であった。「龍田川紅葉(もみじ)みだれて流るめり(渡らばにしき中や絶えなむ)」(※古今集の歌。龍田川に紅葉が乱れ入って流れているようだ。この川を渡ったならば、せっかくの紅葉の錦が中途で切れてしまうようだ、ほどの意)という歌を本歌取り(※ほんかどり/先人のよく知られる歌を「本歌/もと歌」としてその言葉、思想、趣向を取り入れて新しい歌を作る表現技巧。新古今集の時代に盛んであった。)にして、
   いさゝ川渡らばにしきと計(ばかり)に散(ちり)こそ浮かべ岸のもみじ葉
(※<いささ>は小さい意。小川を渡るなら、そこに錦と見まごうばかりにその葉を散らし浮かべてくれ、岸の紅葉よ、ほどの意。字余り。)
 このように言って、師の君にひどく叱られてしまった。「本歌取りをして、それ(※本歌の情趣)を(しっかり)受けた言葉がない」ということである。「それならそれでよろしい、(私の)小言に弱らずになおこのような歌を詠んでもいいでしょう。その中には少しは(よく)聞こえるのも出てくるでしょう(から)。」などとおっしゃった。皆さんがお帰りになったのは四時半であった。自分が帰ろうとする時、師の君が、「少し待ちなさい」ととめられた。小紋ちりめん(※こもんちりめん/ちりめんに小紋染をした晴れ着)三ッ紋付(※みつもんつき/背と左右の袖の後ろに一つずつ紋をつけたもの)の引返し(※ひきかえし/袖口や裾(すそ)のところで表地と同じ布地を裏に回して仕立てたもの。表地がその分必要なのでぜいたく品。)着物を、表の分だけ(※二枚重ねの表の方。着物の正装は二枚重ねが礼法。)くださった。「これはお歳暮にさしあげようと思っていたのだけれど、早い方が都合もよいでしょう。新年など誰それの会に出るにあたって、紋付きがないと(あなたも)どうかと」と言って(私に)くださった。ありがたいことといったらなかった。
少し(外が)暗くなっていたので、途中まで母上が(私を)迎えにいらっしゃった。一緒に帰って、夕飯を食べたあと、明日(※鳥尾広子の家で難陳歌合の会がある。鳥尾広子は貴族院議員鳥尾小弥太の長女。明治24年6月10日の年齢比べの時、10月17日にもその名が出ている)の景物(※けいぶつ/歌会の景品)を買いにと、本郷二丁目の信富館(しんぷかん)という勧工場(※かんこうば/デパートの前身)に行った。ものを買いそろえて帰ったのは九時頃であった。それより書きものを少しして、今宵は早く寝てしまった。
明治24年)11月1日 朝から快晴。時候はことに穏やかで、本当に小春日和であった。十時頃まで判(※前述の「判じ」のこと)にかかる。それから髪あげ(※髪を結いあげること)、化粧などをして、(※萩の舎の一葉の後輩弟子、疋田達子(ひきたたつこ)は、古典の講義をする一葉の姿を次のように述べている(昭和22年の談話)。「薄い髪(け)の前髪を小さく取った意気な銀杏返しを、いつもきれいに梳(と)きつけて、鼻筋の通つた瓜実顔(うりざねがお)に白粉(おしろい)気はありませんが、女のたしなみでございますね、口紅をちよつとさしてをられました。」「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)より)十二時半から家を出た。師の君のもとに参上すると、「今行きます、少し待って」とおっしゃってお支度なされた。それから(師の君と)連れ立って(鳥尾家の難陳歌合の会に)向かった。(師の君が)「帰り道は、我が家より車(※人力車)を走らせますから、それ(※一葉が乗ってきた人力車)はお返しなさい」ということで、我が車(※人力車)は鳥尾さんのところから帰した。(鳥尾さんの所の)室内の模様も庭園の風景も別に記すことにする。師の君(が選んだ最も)抜きんでいた歌は、「初冬紅葉(しょとうのもみじ)」(※歌合の題。以下も同様。)は鳥尾さん、「隠家(かくれが)」では自分、「恋」も鳥尾さんであった。自分は柿を五ついただいた。鳥尾さんの所をまかりでたのは日が暮れてよほど後のことであった。師の君のもとへ帰り着いてからのち、「よい歌を詠んだご褒美」などとおっしゃって、食事をたまわった。また、車(※人力車)をも用意してくださって、家に帰ったのは六時であった。今日の来会者は、水野さん親子(※水野忠敬(みずのただのり)とその長女銓子(せんこ)。水野忠敬は元沼津藩の殿様。明治24年6月10日の年齢比べに出ている。)、つや子さん(※小笠原艶子。前述の年齢比べに出ている。)、齢子さん(※長齢子(ちょうれいこ)萩の舎門人。書家で漢学者の長三州(ちょうさんしゅう)の娘)、きく子さん(※前島菊子。前述)、みの子さん(※田中みの子。前述)、い夏子さん(※伊東夏子。前述)、かとり子さん(※吉田かとり子。明治24年4月11日の花見の宴で出ている。)のぶ子さん(※小川信子。前述の年齢比べ、そして9月17日の田中みの子の月次会(つきなみかい)にも出ている。)の皆さんである。「来る十九日は、前島さんのところで難陳歌合をしましょう」と約束した。この日、江崎牧子さん(※前述)に手紙を出した。というのは、電信が全通したからである。稲葉さん(※稲葉寛)が来た。
明治24年)11月2日 快晴。裁縫をした。何事もなし。日没後書見(※読書)をした。十首ばかり歌を詠んだ。習字を一時間。十二時に床に就いた。
明治24年)11月3日 天長節(※てんちょうせつ/天皇誕生日)なので、いつものように餅を少しばかりつかせた。山下さん(※山下直一(なおかず)。明治24年8月1日には大病をしていた。9月16日、10月18日にも来訪している。)が来られた。御汁粉を作ってさしあげた。(山下さんに)雑誌を借りた。「(次は)『早稲田文学』を借りましょう」と約束した。昼過ぎに山下さんは帰った。午前中に裁縫を上着だけ(※師の君からもらった紋付き着物の直し)をやってしまって、午後から下着の裾直しをする。各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく)が廻ってきた。田中さん(※田中みの子)から滝野川(※たきのがわ/東京の北豊島郡の地名。かつては渓谷があり紅葉の名所であった。)へのお誘い状があった。断りを出した。日が暮れてから書見。
明治24年)11月4日 晴天。午前は裁縫に従事した。午後から習字および書見をした。今日から小説を一日一回ずつ書くことを務めとすることにした。一回書かなかった日は黒点を付すと決めた。ただし、自分の心(の中)だけ(の黒点)である。日没後、国子(※邦子)とともに紙類を中島屋(※紙屋の名。明治24年8月3日にも出ている。)に買いに行った。心正堂(※しんせいどう/筆墨店の名。本郷区湯島天神にあった。)で筆を買いたいと思っていたが、日没からは(心正堂は)門を閉めて売っていない。やむを得ず帰った。久保木の姉上(※一葉の姉、ふじ)が来た。稲葉さん(※稲葉寛)に葉書を送った。十二時に床に入った。
明治24年)11月5日 曇り。朝から小雨、昼から照ってきた。安達(の伯父さん)(※明治24年8月5日に出ている。一葉に読書や作文をすると脳の病になると諫(いさ)めた人物。10月1日にも一葉の母たきが葡萄を送っている。)へ預け物を取りに行った。女坂下(※地名 坂の名)の、心正堂で筆を買った。三河屋(紺屋(※こうや/染物屋)の名。湯島天神にあった。)に洗い張り(※着物の洗濯の方法。糸をほどいて反物状態にして水洗いを行い、次にその反物状の着物に糊をつけて板などにぴんと張って乾燥させる。)を頼む。昼前に帰宅する。今日も一日何することもなく終わった。あああ、怠惰だ。(※原文は<咄(とつ)、怠惰>で、<咄>は舌打ちのちょっ、あるいはため息、驚き怪しむときに漏れる声をあらわす。ここではため息と取った。)本日、まき子さん(※江崎牧子)から葉書が来た。まずは無事であった。
明治24年)11月6日 午前、奥田の老人(※奥田栄。未亡人。一葉の父則義が生前荷車請負の事業を立ち上げようとした際、この人が多額の資金を貸し、一葉らは父の死後もその返済を続けていた。明治24年6月17日、10月9日にも出ている。)が来た。(奥田さんは)「震災義捐金(ぎえんきん)を出した」と言った。私も、「どうにか少しなりとも出したい」などと思いながらも、母上がお許しにならないので仕方がない。昼食をすすめた。一時過ぎに帰宅された。机のそばにはいながら、思うこと何もできず、わが身が恥ずかしい所業である。日没後、小林好愛さん(※こばやしよしなる/一葉の父則義が東京府庁に勤めていた頃の上司。)の老母死去の知らせが、青山さん(※青山胤通(あおやまたねみち)東京帝国大学医科大学教授。のちに森鷗外の依頼で一葉の肺結核の診察をし、絶望と診断することになる。妻の孝子が小林好愛の長女。)、師岡さん(※師岡宗春(もろおかむねはる)/神田区の開業医)から来た。母上の下駄を買いに行く。
明治24年)11月7日 晴天。早朝(から)母上は小林さんへお悔やみにお行きになられた。自分は小石川(※萩の舎)の稽古である。八時三十分頃家を出た。そこへ赴いたのは九時前であっただろう。今日は慈善音楽会の催しがあるからだろうか、来会者は大変わずかであった。午後二時に暇乞いをして帰宅した。家の都合があったからである。母上は既に帰宅(されていた)。午後四時頃強い地震があった。すぐに母上を庭に出させるなどするうちに止んだ。あやしい風説(※10月29日に東京でも大地震があるという噂があったことが記されている)(を聞いていたため)に(これまでの地震の対応の甘さに)懲りていたからであるようだ。日没後、母上は再び小林さんの所へ赴いた。今宵一晩通夜をするためである。姉上(※ふじ)が来られた。お話などして、「泊りませんか」と言ったけれども、「あちら(の家)も無人だから」というので(結局)帰した。九時頃であった。
明治24年)11月8日 早朝に母上が帰宅された。(母上は)すぐに眠りにつかれた。自分は図書館に書物を見に行った。(行くと)まだ開館になっていなかったので、桜木町(※地名)より根岸布田(※ねぎしふだ/地名。<布田>については不明。ただの根岸と思われる。)の稲荷(※根岸の石稲荷神社)までそぞろ歩き(※目的もなく歩くこと。漫歩。)をした。名高き御行の松(※おぎょうのまつ/根岸の西蔵院(さいぞういん)の不動堂にあった樹齢300年を超える大きな松。昭和3年に枯死。)などを見物した。ほおずき屋の奇談があった(※不詳)。やがて(図書館の)開館を待って、入った。『太平記』(※たいへいき/室町時代の軍記物語。全40巻。)『今昔物語』(※こんじゃくものがたり/平安時代の説話集。全31巻。)及び『東鑑』(※あずまかがみ/吾妻鏡とも。鎌倉時代の日本の歴史書。)を借りた。ただし『東鑑』は読まないで『太平記』ならびに『今昔物語』のみを(先に借りた『東鑑』と替えて)借りて読んだ。図書館を出たのは日がやや西に傾きだした頃であった。向ヶ岡弥生町(※むこうがおかやよいちょう。地名)の坂で、若い書生(※学生)でまだ十七、八(歳)の者と、十四(歳)ばかりの者が、菊の鉢植えを藁縄(わらなわ)で結んで下げてきていたのが、その縄が切れてしまって進むのに難渋していたので、自分が締(し)めていた絹紐(きぬひも)を取って(※帯締めの紐か)、差し上げようとしたこと。その時通りかかった大学の生徒が不思議そうに見ていたこと。その(紐を差し上げた)書生の振舞のこと。西片町(※にしかたまち/地名)で(その書生らと)別れたこと。(※原文でも、この書生を助けた話はすべて<事/こと>で終わる文を用いている。詳しく述べる時間、あるいは意志がなかったのだろうが、出来事の要所を捉えた印象深さがある。)家に帰ったのは日没の少し前であった。それより、母上は、再び小林さんのところへ参られた。十一時に床に就いた。
明治24年)11月9日 薄曇りである。母上が早朝帰宅された。今日は小石川(※萩の舎)の稽古なので、髪あげ(※髪を結いあげること)などをした。突然、田辺有栄さん(※たなべありひで/山梨の衆議院議員。野尻理作(明治24年10月1日に葡萄を送ってきた野尻家の次男)とも親交があった)が訪れた。狼狽したこと。意味ありげなお話があったこと。(※このあたりも原文が<事/こと>で終わっている。詳しく書くつもりがなかったのだろうか。)田辺さんが帰宅して、すぐに自分も母上も家を出た。(※母たきは小林家の葬儀に行った)(萩の舎に)参着したのが遅かったので、師の君が不機嫌であったこと。来会者は二十九名ばかりあった。小出さん(※小出粲(こいでつばら)。萩の舎の客員歌人)とみの子(※田中みの子)さんとのこと。大造さん(※井岡大造(いおかたいぞう)。萩の舎の客員歌人)と初めて会った。片山てる子(※片山鑑子。萩の舎門人。建築家片山東熊(かたやまとうくま)の妻で、工学博士田辺朔郎(たなべさくろう)の姉。父が田辺孫次郎。孫次郎の弟、田辺太一が田辺龍子(三宅花圃)の父)さんの実母に会った。(会が終わって、)師の君が「泊りなさい」とおっしゃったけれど、「家の方に(そうと)言っていないので」と言って暇乞いをすると、「それならば」と車(※人力車)を頼んでくださった。帰宅する。母上は(遅い)自分を迎えに行きながら、西村さん(※西村釧之助/にしむらせんのすけ。一葉の母たきが乳母奉公をしていた稲葉家で奥女中をしていた太田ふさ(結婚後西村きく)の息子。たきとふさは仲良しで、親戚同様の付き合いをしていた。訓之助はこの頃小石川区に文房具店を出した。明治24年6月23日、10月5日にも出ている。)の新宅を見てこようとおっしゃって、お行きになられたという。行き違いになったようだと思うと、(母上が自分を)捜されているだろうことが大変心苦しく、すぐにまた(母上を)迎えに行った。師の君が車(※人力車)を(私に)おつかわしになるほどに「危ない」とおっしゃった夜道を、灯火(ともしび)もないまま(女)一人で行くのは、私にも母上にも、大変何とも言いようのない(ほど)罪(な行い)であったことだ。(※原文は<罪成けり>で、ここでの<罪>は、してはいけない行い、ほどの意)表町(※おもてちょう/小石川区表町。地名)という所で母上を捜し当てて、一緒に帰った。八日ほどの月(※新月から満月に至る間の、新月から8日ほどたった頃の月。上弦の月。向かって右半分が光る半月)が、雲(の間)に出没して、夜霧が道を見えなくするまで辺り一面を覆うなど、まるで幻燈(※げんとう/強い光線とレンズを用いてガラス板に描いた絵や写真の像を幕に映写するもの。現在のスライド、プロジェクターにあたる投影装置。)のような心地がした。二人が家に帰り着いたのは九時であった。十二時に床に入った。
明治24年)11月10日 薄曇り。最近物入りが続いたので、いつもの困窮がひとしおきびしく、どうにも(やりくりの)しようがないという。十五日には小出さん(※小出粲(こいでつばら))が催す薊園(※あざみぞの/不詳。小出粲の知人か)の追善会(※故人の冥福を祈って供養などの善事を行う会)で、桜雲台(※おううんだい/上野にあった会席料亭)に招かれている、その時に着るものを縫わなければならないのだが、「それどころか」と小説の著述に従事した。十四日までに書いてしまおうと思ってである。昼前に稲葉さん(※稲葉寛)が、正朔さんとともにいらっしゃった。縫物を依頼された。仕方なく承知した。午後、大根を買った。十四、五本で、三銭五厘だという。この安さにも驚いた。四時頃より雨が降り出した。母上は血の道(※月経時などに女性の心身に起こる異常。頭痛、のぼせ、発汗、悪寒など)で横になられていた。この夜、小林家から、「明日初七日の逮夜(※たいや/忌日、命日の前夜)なので」ということで招待状が来た。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?