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現代語訳 樋口一葉日記 7 (M24.10.08~M24.10.27)

(明治24年)10月8日 快晴。午前は清書。午後は作文。『十八史略』(※じゅうはっしりゃく/中国の歴史書。)及び『小学』(※中国の朱子学の修身書。)を読む。お鉱様(※稲葉鉱)が来られる。明日の各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)の景物(※けいぶつ/時節に応じ興を添える衣装や食べ物。また、連歌、俳諧の点取りの景品。ここでは後者だろう。)を作る。日が暮れてから、母上と共に薬師(※やくし/真光寺内にある本郷薬師。この日は縁日であった。)に参詣した。勧工場(※かんこうば/真光寺のそばにあった本郷勧工場。勧工場はデパートの前身。)を見物する。植木の店に菊が少し見えはじめた。露店が六丁目辺りまで建てられていた。帰り道、途中で姉上(※ふじ)に会った。帰宅後、土産の粟餅を食べた。母上が床に就いてから、姉上(※ふじ)がちょっと立ち寄られた。姉上からも土産に粟餅をもらった。連れの人がいるとのことですぐに帰った。風が荒々しく吹き出して、空の様子が大変すさまじい。十一時に眠りについた。
(明治24年)10月9日 早朝より支度をする。小石川(※萩の舎)の稽古だからである。九時頃より家を出る。風はただ吹きに吹く。だけれども空はよく晴れている。師の君(※中島歌子)にお約束していた茄子(なす)を持参した。(師の君は)大変喜んで「これを昼食の時、煮て食べよう」などとおっしゃる。(そして)春日饅頭(※春日野饅頭とも。東京では葬儀や法事の返礼で用いられる。厚い皮にヒノキやモミジなどの焼き印がされている。)を一つ焼いて召し上がるとおっしゃって、私にも(その)半分を分けて下さった。お話などを少しするうちに、まもなく昼になった。お昼のおもてなしに預かって皆さんがお越しになるのを待っていると、かとり子さん(※吉田かとり子。萩の舎門人。実業家の奥方。明治24年4月11日に出ている。)がまず来られた。今日は来会者十二名ぐらいであった。点取(※てんとり/歌の点数を競う催し)の題は「秋烟(あきけむり)」で、小出さん(※小出粲(こいでつばら)萩の舎の客員歌人。明治24年6月10日にある年齢比べにも出ている。)の乙(※甲の次点。小出粲の採点。)は自分だったので、短冊を貰った。(小出さんは)「不思議にも私の点は樋口君にばかり取られているなあ」などとおっしゃる。「やはり天性というものがあるのだろう。努力しなさい。進歩するのは難しく、退歩するのは大変たやすいものだ。私が後見人になろう(か)。」などと笑い笑いおっしゃっていると、師の君が、「さあさあ、夏子さん(※一葉の本名。)、小出さんに盃をさしあげなさい。(※杯を交わして堅い約束をする意)こうまでにおっしゃるのなら、浮いた(※いいかげんなの意)ことではあるまいに」などと大笑いなさった。いつものひねくれ者(である私)は、とても恥ずかしくて、ただ物の隅に隠れてばかりいるのだけれども、(そんな私を)「馬鹿だなあ」と笑う方々もあっただろう。(※萩の舎での一葉のあだ名は「ものづつみの君」であった。「ものづつみ」とは遠慮深く引っ込み思案であることで、要は一葉は恥ずかしがり屋さんであった。萩の舎入門当初、隣の人とも話をせずにいた一葉を見て、田中みの子が名付けたという。)皆さんが帰られたあと、小出さんも帰った。みの子さん(※田中みの子)と自分と、また少しお話などした。帰宅したのは日没を少し過ぎた頃であった。母上が(私を)迎えにお出になって途中行き違いになった。奥田の老人(※奥田栄。未亡人。一葉の父則義が生前荷車請負の事業を立ち上げようとした際、この人が多額の資金を貸し、一葉らは父の死後もその返済を続けていた。明治24年6月17日に出ている。)が来ていたので、(萩の舎で)いただいた果物などを少しやった。老人は国子(※邦子)が道まで送ってやった。今宵は和歌を二十首ばかり詠んだ。寝床に入っても全然眠ることが出来ないので、再び起きて、書物を読んだ。十二時に就寝した。
(明治24年)10月10日 晴天。湯島の天神(※湯島神社。現湯島天満宮)大祭である。母上が昼前よりところどころ(祭りを)遊覧された。午後四時頃帰宅された。「私も老いたことだ。こんなに気楽に遊び歩くこと(といったら)。」とおっしゃってお笑いになった。日没より国子(※邦子)と共に(湯島神社に)拝礼に行く。山車(※だし/祭りの時に出す飾り立てた車)は切通し坂(※地名。坂の名前)の一つあるのみであった。(湯島神社の)境内(けいだい)から新花町(※しんはなちょう。地名)の方へ出ようと、吉田さん(※邦子の友達)の家の正面を通り過ぎたので、邦子が立ち寄った。しばらくして一緒に帰った。家に帰ったのは七時頃であった。しばし休んで、食卓などを持ち出しているうちに、郵便が来た。「今朝兄上(※虎之助。樋口家の次兄だが、素行が悪く15歳で樋口家から分籍された。当時は25歳、陶工をしていた。東京の芝区にいた。)に、時候伺いがてらに手紙を差し上げていたので、それへの返事であろう」と思って(手紙の)封を切ると、さまざま(と書いて)あって、「さて、こちらは(今年の)春から非常に不如意(※ふにょい/ままならないこと。家計が苦しい事。)がちで、どうにもやりようがなくなり、負債についての裁判などが時々あった。(その負債は)到底どうしようもないので、(結局)財産差し押さえということになった。明日は日限となっているので、すっかり破産の憂き目に到るだろう。その頃にそちらに参って(いろいろと)お話ししよう。」ということであった。「金三円ばかりあればなんとかなることではあるが、それすらままならない」などとお書きになっている。非常に驚いて、「何事でしょうか、これは」と言って、母上と一緒に相談した。(母上は)「ここに金四円はある。これをあっち(※虎之助)へ貸せば、こちらに(も)また難儀なことが起こるだろう。どうしようか。」などとおっしゃたが、「ただごとでありましょうか、(破産による)公権剥奪(※国民の権利のはく奪)ということは、人事(※じんじ/人間社会に関する事柄)において大変恥ずべきことではございませんか。(こちらの)家(の方)はまた、私の稽古着の着物を売ってお金に換えてもよいのです。これを持って行かれて、わけを見極め明らかにされて(から)お渡しになってください。(もう外は)暗くなってしまいましたが、『明日』(が期限だ)ということなので、(兄は)今宵は(何とも)過ごし難い(お心地)でしょう。」と言って、車(※人力車)を雇って、母上を(兄の元へ)やった。国子(※邦子)とともに案じ続けて過ごしていると、(母上は)十一時頃ご帰宅になった。「大方片が付くことであろう」と聞いて、少し心が落ち着いた。この夜中から国子(※邦子)が急に腹痛に襲われた。一晩中ただ苦しみに苦しんで、むなしく夜が明けた。
(明治24年)10月12日 国子(※邦子)はまだよくならない。「今日は本願寺(※築地本願寺)のお取越し(※浄土真宗の祖、親鸞聖人のご遺徳をしのぶ集まりを報恩講と言い、お取越しとは、その報恩講を日を早めて催すこと。)とかいうことだ」と、母上は九時頃より参詣された。十時頃より稲葉の奥様(※稲葉鉱)が、正朔さん(※稲葉寛、鉱の息子)とともに来られた。昼食をお出しした。昼過ぎから姉上(※ふじ)が来られた。国子(※邦子)の見舞いにである。四時頃、母上が帰られた。日没少し前に、稲葉さんが帰られた。秀太郎(※久保木秀太郎。ふじの子。一葉の甥。)が来たので、貰い物の赤飯などを食べさせた。今日は法華宗(※ほっけしゅう/日蓮宗のこと)でも十夜(※じゅうや/浄土宗の十夜念仏。毎年秋に行われる念仏行事。阿弥陀如来への感謝に念仏を十日十夜行うもの。よって、法華宗とは誤りで、浄土宗が正しい。)ということで、あちこちから配り物を貰った。(※おそらく赤飯もその一つか。)今日も大変(小説の勉強を)怠けてしまった。
(明治24年)10月13日 晴れ。兄上はいかがなされているのだろう、ただ案じに案じているけれど、全く手紙もなくお越しにもならない。沖縄県より依頼された歌を、師の君(※中島歌子)に添削を乞おうと持って行った。(※このあたりの経緯は不詳だが、一葉には「沖縄名所」と題する和歌が三首ある。)(師の君は)どこかへお行きになられて留守であったから、仕方がない。また(あらためて)参ろうと思って帰った。
(明治24年)10月14日 さしたることもなし。晴れ。
(明治24年)10月15日 も同じく。午後よりある所(※不詳)へ行く。
(明治24年)10月16日 同じく。
(明治24年)10月17日 (萩の舎の)稽古日である。晴天であった。題はいつも通りに二つ。一題十点のものが(私の詠んだ歌に)一つあった。い夏子さん(※伊東夏子。一葉の親友。同じ夏子なので、区別するために一葉こと樋口夏子を「ひ夏子」「ヒ夏ちゃん」、伊東夏子を「い夏子」「イ夏ちゃん」と呼んでいた。)が二つ、鳥尾さん(※鳥尾広子/貴族院議員鳥尾小弥太の長女。明治24年6月10日の年齢比べの時にもこの名が出ている)も二つあった。松井節哉さん(※まついせつや/松居節哉)が入門された。明治女学校の学生で、田辺さん(※田辺龍子(たつこ)のちに三宅姓。明治元年生まれで一葉の4つ上。明治21年、花圃(かほ)という筆名で女性では日本初の近代小説「藪の鶯(やぶのうぐいす)」を発表。元老院議員の父を持つ名家の長女であった。一葉の姉弟子にあたる。明治24年4月11日にも出ている。)の知人である由。見たところ、大変落ち着いた人のようだ。日没少し前に帰宅した。岡田(※不詳)より仕立物を依頼される。母上は「断ろう」などとおっしゃっていたが、「遠路より(頼みに来たも)のなので」と言って、自分が承諾した。

 今宵は旧菊月(陰暦9月)十五日である。空はただ見渡す限り雲もなくて、心惹かれる夜である。(※原文は<くずの葉のうらめづらしき夜也>で、<くずのはの>は<うら>にかかる枕詞。<うらめづらし>は心惹かれる、心の中で珍しく思うの意>「さあさあ、お茶の水橋が開橋になったようなので、(※お茶の水橋は神田川に架けられた橋。初の日本人設計による鉄橋で、明治24年10月15日開橋。)見にいきましょう。」などと国子(※邦子)に誘われて、母上も、「見て来なさい」などとおっしゃるので、家を出た。あぶみ坂(※地名 坂の名)を登り終えた頃、月が昇ってきた。(家々の)軒先も地面も、(月の白い光で)まるで霜が降りたようで、天候はまだ寒くはなく、(月の光が)袖に連れ添うのも趣がある。どんどん行って、橋のほとりに出た。駿河台(※するがだい/地名)が大変低く見えるのも面白い。月は雄大に水面を照らして、行き交う船の火影(ほかげ)も風情があり、(月光を受けて)金色や銀色に輝く波がかわるがわる寄せてきて、砕けては円(まる)みを帯びる(その)姿は、大変美しく心が惹かれる。森は(水面に)さかさまに(その)姿を浮かべて、(そこに月が映って、あたかも)水の上にだけ、(月に)ひとかたまりの雲がかかっているように見えるのもよい。薄霧が立ちのぼり漂って、遠方はとてもほのか(にしか見え)な(い)のに、電気の灯火(ともしび)(だけ)が(霧の中に)かすかに見えるのも趣がある。「さあ(もう)参りましょう、参りましょう」と言ってばかりで、こんなにも離れがたいことといったら、とてもつらい(ほどだ)。「またこんな夜にいつか見に来ましょう」など語り語りしながら、駿河台より太田姫稲荷(おおたひめいなり)の坂を下りてくると、下から登ってくる四人ばかりの若者が、衣服は簡素でいでたちは爽やかに、その場にふさわしい漢詩を誦(じゅ)しながら来た。(※誦すとは詩歌を声に出してよむこと。誦する。若者は月の漢詩でも口ずさんでいたのだろうか。)「ああいいなあ、男であったら、私も(詩歌を誦するのを)我慢できないほどの(美しい)夜の趣ですねえ」と国子(※邦子)がうらやましげに言うのも可笑しい。(万世橋(※まんせいばし、よろずよばし。/神田川に架かる橋の一つ。)を通る)馬車がとても騒々しかったので、さっと小道に走り入って、「神田の森(※お茶の水橋の西の方は森になっていた)に月を見に行きましょう。」と言って、(それから)坂を登る間がとても苦しかった。(坂を)登りきってふと見返ると、月はいつしか高くなって、二本ある杉の陰に隠れて、のぞき見ないと、見づらくなっていた。歌を詠まないのは大変残念なので、いろいろと思いを巡らしたけれど、月の光に圧倒されたのだろうか、全く趣向もひらめかないのは、「やはり詠むなということでしょう」と言って、笑いながら(歌を詠むのは)やめにした。大通りを帰って来る時、はなはだ名残惜しく思われたが、母上がお待ちになっておられるのがとても気がかりで、急いで帰った。(帰宅したのは)八時前であったけれど、(母上は)時計をすぐ手元に引き寄せて、(時計を)のぞいていらっしゃた。やはり遠くまで遊ぶのは、大変悪い事であった。母上を(先に)床に就かせて、少し作文をした。この日は秀太郎(※一葉の甥。姉のふじの子)が、小学校の運動会として、鎌倉地方へ遠足であったので、「さぞかし疲れただろうに」などと心配して過ごした。
(明治24年)10月18日 晴れ。午前中に、母上はよそへ行かれた。自分は依頼された仕事を始めた。山下直一さん(※やましたなおかず/明治24年8月1日の日記では大病していた。同年9月16日にも樋口家を来訪している。)が来られた。「下宿替えを昨日しました」とのことだ。少しお話して、家の新聞などを貸し与えて帰した。昼過ぎから菊子さん(※前述の野々宮きく子。元々は一葉の妹邦子の友人で、年齢は一葉より3つ上。半井桃水(なからいとうすい)の妹幸(こう)と同級生であったため、小説を書くことをめざした一葉は、菊子を通してこの4月に桃水との面会を果たした。)が来られた。(東京府高等女学校の)卒業試験が終わられて、大変喜ばしげであった。「一昨日より半井さんの所に遊びに行って、夕べ帰りました。(半井さんは)『夏子さん(※一葉の本名)はどうなさっているのだろうか』などと、それはたいそう心配そうにおっしゃっていました。ご参上なさいませ。」などとおっしゃった。こちらもかねてより、おそばに参上したいと思いながら、それでもやはり差し障り(※明治24年9月26日に、邦子が関場悦子から聞いた半井桃水のよからぬ噂を一葉は引きずっていたと思われる。)があって参らなかったので、いつも心に苦しく思われるばかりであった。(それだから)このように親切におっしゃってくださることにつけても、なおいっそうとても気恥ずかしい(心地になる)。(菊子さんは)いろいろとお話されてお帰りになった。この夜、隣家の中島(さんのところ)で、とても珍しいことなどがあった。(※盗難事件と思われる。なお、この中島家は同姓の中島歌子、中島倉子とは無関係である。)くら子さん(※中島倉子。中島歌子の妹。)に手紙をしたためた。十一時頃寝床に入ったが、考えることが多くて、眠ることも出来ない。(ようやく)一時ぐらいであっただろうか、華胥(かしょ)の国に到着した。(※夢の中にはいること。中国の故事による。古代中国の天子黄帝が、夢で華胥(かしょ)という理想的な国を見、そこから悟りを得て国が自然に治まったという。そこから理想郷、心地よい夢の世界を華胥の国と呼ぶ。)
(明治24年)10月19日 晴天。何事もなし。
(明治24年)10月20日 晴れ。何事もなし。図書館に行く。
(明治24年)10月21日 晴れ。同じく。
(明治24年)10月22日 
明日半井さんをお尋ねしようと思う。手紙を書きしたためて出した。「しかし、約束した文章(※明治24年6月17日に桃水に全面的な書き直しを言われたこと(推測)。)はまだ少しもしたためていないのに、(それが)大変気がかりだなあ」と思ったけれど、しいて(手紙を)出した。入湯などして(明日の)用意をした。空はよく晴れて塵ほどの雲もないけれど、いつも半井さんのところへ参る時に(は)雨が降らない日はなかったので、「(さあ)明日はどっちだ(※雨が降るか否か)」と国子(※邦子)を顧みて言うと、「たとえ(このよいお天気を)あてにしても、まさか(ね)」と言って(にっと)微笑んだ。(すると)夜になってから、半井さんから手紙が来た。孝子さん(※こうこ/幸子が正しい。桃水の妹)のことで、「二十七日に嫁入りすることになっている。」よし。(※当時幸子は東京府高等女学校在学中であったが、福岡病院の戸田という人と卒業試験終了後すぐに結婚の運びとなった。)「(ですから)その後に参上されたし」ということだ。急なことで本当だとも思えない。とても怪しい。十二時に寝た。
(明治24年)10月23日 
早朝寝床を出ると、雨が降りに降っていた。「(ほら)このように、また降られるはずだったのだ」などと言っているうちに、朝日が差しのぼってくる頃より、ただ晴れに晴れていくのも面白い(ことだった)。稽古題(※萩の舎の和歌の宿題)を五題、各評(※かくひょう/事前に回覧した歌に無記名で評を加えておく)を一題、難陳(※なんちん/難陳歌合(なんちんうたあわせ)のことで、文学遊戯の一つ。歌合(うたあわせ)とは、和歌の作者を左方(ひだりかた)と右方(みぎかた)に分け、その詠んだ歌を一首ずつ詠み合って、その優劣を比較、勝負の判定をするもの。難陳は敵方の歌の悪いところを難じたり、自分の方の歌をその論難に対して陳弁(ちんべん/わけを述べて弁解すること)することで、歌合の勝負の判定が下される前に行われる。)を三題を詠んで、昼飯を食べた。昼過ぎから、望月(※もちづき/一葉の父則義在世時からの知人。八百屋で屋号は豊屋。生活が貧しく樋口家から時折援助を受けていた。明治24年9月21日も出ている。ここでは借金の返済に来たものか。)が来る。(それから、)新平(※不詳。主に邦子が下駄に蝉表(※せみおもて/下駄の表の地で、籐(とう)の皮を細かく編んだもの。)をかける内職をしており、新平はそのもとになる下駄を作っていた人らしい。)が来る。(新平は)「国子(※邦子)の蝉表がほしい」としきりに言うので、まもなく二つばかり手に入れた。(新平は下駄を)百足ぐらい持ってきた。「なかなかこれほどのものは二つとない(逸品だ)。」などと言う。(※邦子が作る蝉表はとても評判がよかった。明治24年8月3日にもそのことが出ている。)私自身の(得意と思っているが金にもならない)歌と比べられたら、どうしたものか。穴にも入りたい(気持だ)。十一時、床に入った。
(明治24年)10月24日 空は晴れているけれどとても寒い。八時頃より家を出た。(萩の舎で)師の君(※中島歌子)は昨日からいつものようにわずらいなさって、大変苦しげでいらっしゃったが、「近衛(このえ)家の令夫人(※貴族院議員近衛篤麿(このえあつまろ)の夫人、衍子(さわこ)。22歳であった。のちの内閣総理大臣近衛文麿(このえふみまろ)の母。文麿を出産後、肥立ちが悪く亡くなった。なお、令夫人は身分が高い人の妻の敬称。)がお亡くなりになったので、そのお弔いをしないわけにはいかない」とおっしゃって、自分に留守を任せて、朝のうちに(葬儀へ)行かれた。(亡くなった令夫人は)前田利嗣さん(※まえだとしつぐ/加賀前田家15代当主。前田家は加賀藩(石川県)の歴代藩主。中島歌子は加賀前田家に出稽古で歌を教えていた。)の妹さんで芳紀(※ほうき/年頃の女性の年齢)二十三歳(※数え年)とか聞いて心にとどめた。若君がご出生された日であったとか。(萩の舎の)来会者は、今日は多くはなかった。伊東夏子さん(※一葉の親友)も、とても遅れて来た。前島むつ子さん(※前島武都子。前述の前島菊子(明治24年6月10日の年齢比べ、同年8月1日に本を借りた旨でも出ている。)の妹。郵便の創業者、前島密(ひそか)の娘。)さんが入門された。十時頃、師の君がご帰宅された。(今日の稽古の)題は二つであった。師の君より近衛篤麿さんの哀傷の歌をうかがったところ、(次の通りであった。)
「なき数に母の入りしもしらぬ子のゑがほ見るさへかなしかりけり」
(※<なき数>は死んだ人の数。<ゑがほ>は笑顔。)
「誠心誠意の作は、本当にまあ、天地(あめつち)をも動かすことが出来るのです。」と言って、師の君はお嘆きになられた。午後四時頃、一同皆ご帰宅された。師の君は大変気分が悪く苦しそうで、すぐにお臥(ふ)せになられた。自分が家に帰ったのは、日没の少し前であった。国子(※邦子)が、野々宮さん(※野々宮きく子)を訪ねて『女学雑誌』(※当時の雑誌)の他少々書物を借りて来た。(野々宮さんは)「半井孝子(※幸子)さんがお嫁入なさるお祝いを、少し持って行った方がよろしいでしょう」と(言っていた)いうことだ。「それでは、明日の早朝に」と心の準備をした。久しくお尋ねしないうちに、いろいろと怪しい話など(※鶴田たみ子の出産をめぐる半井桃水のよからぬ噂)が多かったこと、半井さんが、それを私に包み隠そうとしてご苦心なさったことなどを聞くにつけても、少し微笑まれた。十二時に床に入った。
(明治24年)10月25日 朝から曇り。八時頃家を出た。半井さんを訪ねた。門に車(※人力車)が来ているのはお客様がいらっしゃるのかと思ったのだが、そうではなくて、(半井さんや幸子さんが、)兄弟知己のお方などへだろうか、暇乞いに向かわれるということであるようだ(※幸子は結婚後、福岡に住む予定)。自分は玄関でお祝いを述べるなどして帰ろうとしたが、孝子さん(※幸子)が、「兄も家におります。しばしお上がりなさいませ。」などと言う。(半井)先生も出てこられて、あれこれとおっしゃったが、(私は)「また来ます。」と言って帰った。(半井さんは)「二十七日に福岡地方へ(幸子を)送りやりますから、そのあとに必ず来てください。少し話し合いたいことがあるので。」などと言った。(※一葉は半井桃水に会ってからずっとその尊称に<うし>(※「大人」と記す。師匠、先生の意)を用いていたが、妙な噂を聞いて以来、<君>(※きみ/敬意をあらわす呼称。ここでは「さん」と訳した)をも使うようになっている。本来<の給ふ>(おっしゃるの意)とすべき箇所でも<言ふ>(言う)と記していることからも、一葉の桃水に対する微妙な心の動き、陰影ある心のありようが、こんなところにもあらわれているようだ。)帰り道に、師の君が昨日とてもご気分が悪く苦しそうだったので、お尋ねした。ちょうど今、佐々木さん(※佐々木東洋。中島歌子の主治医で、佐々木医院を経営。明治24年8月1日にも出ている)に診察を受けに行かれるというところだった。お留守の際の用などを言いつけられて、師の君がおでかけになられてから、手紙を二、三通したためて出し、(それから)自分はすぐに家に帰った。昼過ぎからは書見(※読書のこと)をした。この夜は十二時に床に入った。
(明治24年)10月26日 晴天。国子(※邦子)が関場さん(※関場悦子)のところへ行った。半井さんの負債事件(※桃水が待合に多額の負債があるという噂)のことを聞いてきた。尾崎紅葉(※おざきこうよう/明治の大ベストセラー作家。文学結社、硯友社(けんゆうしゃ)を率いて当時の文壇に大きな影響を与えた。『金色夜叉』が有名)不品行であることなど、とても多くを話した。岡田(※不詳。10月17日に出ている)より仕立物を取りに来た。「また、依頼したい」など言うので、これも受け合った。午後、鳥尾(※前述の鳥尾広子)家(で行われる)難陳歌合(なんちんうたあわせ)(会のために)二題(※二つの題に応じる歌を)詠んで送った。頭を悩ませたけれど、その甲斐がなかった。今宵は、寝たのは十二時であった。そう(※うまく歌えなかったこと)ではあるが、望むことが実現し難いのは、自身のことながらいや(な気持ち)だ。
(明治24年)10月27日 昨晩、雨が降ったのだろうか。朝、庭が少し湿っていた。七時頃地震があった。亡き兄の命日(※一葉の一番上の兄、泉太郎は明治20年12月27日に亡くなった)であるから、はたつもの(※はたけつものとも。畑から収穫されるもの。麦、粟、稗(ひえ)、豆など。)を煮たものなどをしてお供えした。鳥尾さん(※鳥尾広子)のところへ行くときの準備にと思って、(紺屋(※こうや/染物屋)に)洗い張り(※着物の洗濯の方法。糸をほどいて反物状態にして水洗いを行い、次にその反物状の着物に糊をつけて板などにぴんと張って乾燥させる。)させた着物を縫って仕立て直した。接(は)ぎ合わせ(※傷んだ布のつぎ合わせ。接(は)ぐは、つぎ合わせる意)が、昼前までかかった。下前(※和服の前を合せるときに下になる方(右側)の身ごろ(胴体部分)のこと)の襟は五つかけはぎ(※かけつぎとも。衣服の傷や穴を元の状態へ修復する裁縫技術)をした。袖にはかけはぎは二つあった。
 宮城のにあらぬものからから衣なども木萩(こはぎ)のしげきなるらむ
(※<宮城の>は宮城県仙台市の宮城野で、萩の名所。<あらぬものから>は「ないけれども」の意。<から衣>は和歌でよく使われる枕詞だが、ここでは素直に「着物」の意。<など>は「どうして」。<も>は感動、詠嘆で「もまあ」の意。<木萩>は「小萩」で、「萩」を「接(は)ぎ」に掛けている。<しげき>は数が多い意。<なるらむ>は「のであろう」。宮城野の萩ではないけれども、私の着物はどうしてまあこんなにも「小さなはぎ」が多いのだろう、ほどの意。要は、一葉が自分の着物のつぎはぎの多さを自ら笑った歌)
 絶えず大声で笑うのも面白い。(※おそらく妹の邦子と一緒に裁縫をしていたのであろう。その時、上の歌を一葉が詠い、邦子と共にお腹を抱えて笑いあったのだろう。貧乏でもそれ以上に仲の良い姉妹の情景が浮かぶ。)日が暮れてからは手習い(※習字)をした。今宵は筆の運びが本当に思いのままで、いつもの時よりは少し多く書けた。一時に床に就いた。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)









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