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笠頭山陣地 徳川家康、野田城救援に失敗。

野田城の戦い450周年だそうです。

設楽原歴史資料館チラシ

野田城の戦いとは、元亀4年(1573年)1月から2月にかけて武田信玄が2万の軍勢で、徳川方の菅沼定盈以下400の軍勢が籠る野田城を包囲したという戦いです。結果、野田城は開城しますが、城主定盈は人質交換で無事に返り咲き、しかも、信玄は、この後体調が悪化し、口の中にできものができて歯が5、6本抜けて死に、川家康は首の皮一枚で助かります。

この野田城包囲戦の際徳川家康は救援要請を受けて援軍として野田城に現れます。が、信玄の包囲軍がスゴすぎて、とても救援は無理家康は野田城から豊川を挟んだ対岸、笠頭山に陣を敷き、金扇の馬印をひるがえしたが、吉田城(豊橋市)まで引き上げています。その後も、もう少し豊橋寄りの賀茂の照山まで再三出陣するも救援することはできず、野田城は水の手を絶たれ開城、降伏した、という経緯があるそうです。(『新城市三十年誌』H2.6 新城市538ページ)

笠頭山(旗頭山尾根古墳群)から野田城までは直線距離で約2.5km。包囲陣も良く見えたことでしょう。

関係図(Googleマップ)

と、いうことで、登ってきました!

笠頭山は旗頭山古墳のことです。

下は墓地。古墳の下ですから、過去から現在までお墓、という場所。家康は、古墳に陣を敷いた訳です。古墳は眺めの良い場所に作られるため、陣地になったり、城にされたりすることが多いのです。(忍城攻め時の石田三成陣地とか。)

南無阿弥陀仏。ちょっとお邪魔させていただきます。

手前の道を登っていくと鳥獣害避けの柵があり、さらに進む。
そこかしこに古墳が古墳で騒ぐと碌なことがない、というのが学生時代考古学研究会に所属して発掘していた時の経験。ひたすら念仏を唱えながら進む。もっとも、古墳の埋葬者は仏教伝来前だろう、と、気づくが、適切なものがわからないので、念仏を継続。

看板と古墳群

とにかく眺めが良い。驚きの眺望なんですね、ここ。昔の為政者が、ここを古墳にしようと思ったのも良くわかります。ここから魂魄となっても、自分の領地を守ろうと思ったのでしょうね。

抜群の眺望。手前の石は古墳や古墳の石積みが崩れたものと思われる。

とにかく「お邪魔します。すんません、すんません。南無阿弥陀仏。」と、ひたすら平身低頭で進んでいく。何せ人のお墓。粗相があってはえらいことになってしまいます。細心の注意を払いながらひたすら登る。とうとう頂上へ。ここにも古墳が。ここが一番の大王なんでしょうか?

頂へ。

そこまで登ると、野田城方面が見えます。
家康もここまで登ったと思われます。
金扇の馬印を立てて「ごめん定盈、やっぱ無理。」って、叫んだのでしょうか?

野田城方面を望む。家康「ごめ〜ん!無理だわ!」

さて、この時、家康は一つの逸話を残しています。
○籠城は橋々
 天正元年(1573年)正月、武田晴信は野田城を攻めた。城将菅沼新八郎定盈はこのことを注進した。家康は「やがてわしが援兵をだすまでは、味方の諸城は堅くもちこたえよ。すべて籠城は橋々」と言って、すぐに軍を笠頭山まで進めた後に本多豊後守広孝が「橋々とおっしゃったのはどのような意味でしょうか」とたずねると、「まず籠城の心得は、門を堅め、弓や鉄砲を配り、敵を城門の橋まで思うように引き寄せて深追いせずに軽く引き取れば、城は支えよいものである。しかし籠城とさえいえば、まず橋を引いて自分から居すくまるので、兵力はふるわず、ついには攻め落とされる」といわれた。(後略)
(『原本現代語訳 名将言行録』(下)岡谷繁実 ニュートンプレス社 190ページ)

籠城する際、完全に引きこもると兵がだれて落城してしまうので、橋を残して適度に闘うことで緊張を高めることが必要、ということでしょう。小田原城攻めの際、城にずっといたことで内部崩壊した北条氏の例もあります。

ただ、この逸話、家康は籠城の心得を言ってますが、結局、救援できてない。家康、籠城勢に偉そうコイてるけど、自分救援失敗してんじゃん、て、思ってしまいました。
それに、本多豊後守広孝は「後に」聞いてるんですよね、「橋々」の意味
家康が言った「橋々」の意味は、ちゃんとみんなに届いていたのでしょうか?前回、家康は人との会話下手くそ、という話を書いてますけど、会話が下手とかいうレベルじゃなくて、肝心なことが伝わってなかった説すら考えられます。

だめじゃん家康。

笠頭山陣地(旗頭山古墳群) 
〒441-1337 愛知県新城市八名井反林2
麓の豊川市長慶禅寺をめざしていくとわかりやすいかと。

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