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野田城の戦い四百五十年

武田信玄が元亀3(1572)年に遠江を攻撃、そのまま三河へ進軍し翌年元亀4(1573)年1月に新城市の野田城を包囲。城将菅沼定盈が1ヶ月近く籠城したものの、水の手を絶たれて降伏。
そのまま三河を蹂躙し、上洛するかと思いきや、武田軍は甲斐へ戻ってしまい、武田信玄は4月に死亡してしまいます。この時、信玄が死ななければ、徳川家はどうなっていたかわからない。
そんな戦いから、ちょうど今年が450年。
と、いうことで地元地区が歩こう会を主催して、野田城を見学ルートにしていたため参加しました。
まず、千郷神社。ここは祭礼時に手筒花火を奉納しています。当日配られた資料によれば、野田城主の菅沼定則が作手菅沼の地から八幡宮を勧請したことが元になっているそうです。境内には野田城の姫屋敷があったとか。
確かに、千郷神社と野田城は目と鼻の先。

千郷神社入口

そして、いよいよ野田城。
写真奥の木が野田城です。丁度城を守る堀的な役割を果たしていた東側の桑渕方面から見た景色です。

野田城を望む

本日の見どころは、今まで薮が酷かった三の丸と二の丸。
野田城は河岸段丘に作られ、三の丸、二の丸、本丸が連なるお団子のような城。

野田城看板。平面図では曲輪が並んでいる様子わかる。

本丸はこれまでも整備されており見学が容易でしたが、三の丸、二の丸は薮がひどくて歩くのも一苦労。地表面も見づらい状況でした。ところが、ちさと郷土研究会では地権者の理解を得て整備を始めており、今回の見学会に繋がったようです。

三の丸から城内に侵入

三の丸に入るや否や、「三日月堀」と書かれた案内表示に度肝を抜かれる。
確かに野田城には三日月堀が城の入口を守っていた、という図面を見たことがありましたが、それは整地されて既に見ることはできない幻の遺構と思っていたのに!

木に「三日月堀」と書かれた案内表示が!

確かに、丸く弧を描く堀状のものがある。
写真だと伝わりにくい問題が発生していますが、下の写真で黒い影の部分が屈曲している様子がお分かりいただけるでしょうか?

わかりにくいけど三日月状の凹み

これ、すごい発見じゃん、と、思いつつ、の、割には特に話題になってないな、と、不思議に思いながら歩いていたところ、丁度、新城市の誇る学芸員の湯浅さんが居られたのでお聞きしたところ、図面の位置とは違う場所で、地権者さんが地面を掘っていたという話も聞くため、即断はできない、とのことでした。今後、薮の整備が進んでいけば、詳しいことがわかると思う、とのことでしたので、今後の進展に期待です。
今回、通路の薮が整備されており、地表面観察がしやすくなっており、土塁や堀の形状がわかりやすくなっていました。

土塁
堀と曲輪の高低差

次に野田城西隣の法性寺へ。

法性寺入口

当日配布資料によれば、明暦4(1658)年に嶋田直次が法性寺を開いたそうで、享保4(1719)年に野田城の門を移築したそうです。と、いうことは、野田城は特に使われることはなかったものの、江戸時代に建物とかがそのまま残っていたということなんでしょうかね?

野田城の門と言われる法性寺山門

このお寺は、丁度野田城東側の竜淵の隣にあります。このお寺の西側の高台に「信玄被弾の地」があります。村松芳休(むらまつほうきゅう)という笛の名手が城内におり、夜になると笛を吹いて戦の合間の慰めとしていたそうですが、どうも、武田軍の方でもその笛の音を聞いており、身分が高そうなので、笛の音に誘われた位置へ向かって狙撃したところ、それが信玄本人であった、という逸話が残されています。

被弾の地に続く階段
ここで信玄が狙撃されたとか

狙撃されたかどうかはわかりませんが、新城市の設楽原歴史資料館では、信玄砲という信玄を狙撃したとされる火縄銃の銃身が残されています。形式としては古いタイプで戦国時代の銃身らしく、大事にされて残された経緯を考えると、地元で信玄狙撃の話は大切に受け継がれてきたことが伺える、ということを、過去に湯浅さんからお聞きしたことがあります。
その後、豊川沿いを北上。菅沼氏が野田に入る前の領主、富永氏の館跡を経由。富永氏は周辺領主、特に今川氏の進出によって衰退したようです。

豊川の頭首工
野田館跡

その後、武田信玄が野田城を包囲した際に居たとされる道目記城跡を経由。現在は、横浜ゴムの社員寮になっています。

カーマ奥の白い建物が道目記城

今回は、直射日光の中、息子が早く歩きたがったので歩くのを優先したのですが、歴史的な場所がたくさんある千郷地区。ゆっくり歩いてみたい、と、改めて思ったところです。
舟着の長篠城襲撃時の松山越とか、あれこれ行きたいところが多すぎる新城市。
困る。

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