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小説とは

子どもの頃から読書が好きだった。でも、その「好き」はおそらく、アニメが好きとかお菓子が好きとか、それらの「好き」とレベル的には変わらないものだっと思う。特別な「好き」ではなくて、生活の中のありふれた「好き」だった。

大人になっても相変わらず本を読むことは好きだけど、「好き」のレベルは子どもの頃とはあきらかに違う。もっと特別な「好き」になった。

読むだけでなく自分でも書きたいという気持ちが芽生えたのは昨年のことで、4000字から6000字くらいの短い作品をいくつか書いてみた。小さな賞に応募してみたり、ネット上に載せてみたりした。

自分で書くようになってから、小説ってなんだろうと考えるようになった。小説を書いていると聞くと、プロの作家を目指しているのかと思われるかもしれないけれど、作家になりたいかどうかは自分でもよくわからない。

料理やスポーツと同じような感覚かもしれない。誰かが作ってくれたものを食べるばかりではなくて、自分でも作る。観戦するだけではなくて、自分でもプレイする。誰かに評価してもらえたらもちろん嬉しい。

小説を書くってなんだろうなーと思い、小説の書き方的な本を読んでみた。

なんでもいいから書くというよりは、自分なりの傑作を書くための方法論。

まえがきで紹介されているミラン・クンデラの言葉がかっこいい。

「人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ」

限界を超えることが、小説というものの本能。小説を書くという行為は言葉の限界に挑戦することであり、それは自分の限界に挑戦することでもある。

パッとみカッコイイけれど、実際はこのうえなくカッコワルイ。書くことは、自分の能力の限界を直視することだから。

書き始めればすぐにわかる。語彙力、表現力、構成力。必死に最後まで書き上げても、できあがった作品はなんとなくチグハグで不格好で、推敲に推敲を重ねて、なんとかマシだと思えるレベルにもっていく。

小説を書くことを気安く「趣味」と言いづらい理由がここにある。「趣味」という言葉には、もっと楽しい響きが含まれている気がするから。

小説とは何か、を考える、いちばんいいやり方は、「小説を書いてみる」―というものです。
小説の、最初の一行は、できるだけ我慢して、遅くはじめなければならない
書きたくなって、そのことをすぐ書く、というのがダメなのは、詩だって、小説だって、同じです。

小説を書いてみることを勧めながら、一方ですぐに書き始めてはダメだと言っている。四の五の言わずにとにかく書き始めましょうという内容を予想していたので少し意外だった。

何を書きたいのか、自分のなかで熟成させる期間が必要ということらしい。思いたってすぐに書くならSNSのほうが向いている。

たとえば私はこのnoteの記事を、書きながら考えている。何を書くかあらかじめ決めていない。本の感想が多いので、書き始めるタイミングは本を読み終えたとき。最近は印象に残った文章を手書きでノートにメモしているので、メモ作業が終わってそれらを一通り読み返したタイミングでノートパソコンを開く。

小説を書く作業というのは、違うということだ。すぐに書き出さない。

小説とは書くものじゃない、つかまえるものだ

なんだか恋みたいだ。するものじゃない、落ちるものだ、的な。

つかまえるまでは、書き出してはダメということらしい。

他の小説家の作品をまねることが大事だという話のなかで、よしもとばななは太宰治の作品をまねして成功した作家だと言及されていて驚いた。太宰治の作品も、よしもとばななの作品もいくつか読んでいるが、両者を結び付けて考えたことはなかった。「あかんぼうのようなまね」ではなく「遺伝子レヴェルでまね」した作品だから、よほど気をつけて読まないとわからないということだろう。

まねするのに適した作品を紹介するブックガイドは、葛西善蔵や谷川雁など初めて知る作家の名前もちらほらあって参考になった。

精神のチューニングがずれている人たちの作品は、時に傑作になりうる。

精神のチューニング、という言葉が、この本を読んで一番印象に残った。私の精神のチューニングは、どんな感じだろう。

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