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西岡壱誠『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく東大読書』

「情報」を「知識」にするための能動的な読書のすすめ。

この手の本の内容の共通点は、「書く」ことだと改めて気づかされる。

読んだ内容を頭の中だけにしまっておくのではなく、ポイントを付箋やノートに書いておく。それらを見返して、追記して、ときには消して。それを繰り返すことで、ただの「情報」が、自分の「知識」として熟成していく。情報と知識は似て非なるものなり。

なるほどなーと思いつつ、でもこれって義務教育の中で普通にやってきたことだよなとも思ったり。

授業を聞きながらノートをとったり、テスト前にノートをまとめたり。

アウトプット前提となっているほうがインプットが上質なものになるという話も、学校の勉強にそのまま当てはまる。

試験(アウトプット)のために勉強(インプット)する。過去問を解いて出題傾向を知り、傾向に沿った知識を教科書や問題集から得ようと勉強する。

子どものころに当たり前にやっていたことを、大人になって、なぜかやらなくなってしまう。

スマホやタブレットの普及でネット環境が良くなっていることと無関係ではないのだろう。いつでも、どこでも、簡単に必要な情報にアクセスできる。

便利ではあるけれど、それで自分の知識が増えたとは感じられない。余計な、どうでもいい、だけど暇つぶしにはもってこいの雑多な情報に日々晒されて、昔よりも頭が悪くなったような気さえする。

同じテーマについて何冊か本を読む場合、同時進行で読まないとあまり意味がないという話は参考になった。人間の記憶のメカニズム的に、一冊読み終えてから次の本にいくよりも、同時進行で読みながら内容の比較をおこなうほうが良いという話。短期間で仕上げなければいけない大学のレポート作成の際は、無意識にこの読み方をしていた気がする。

最近になって紙の辞書を買った。国語辞典。漢字検定準一級の勉強をしていくなかで、あまりに知らない言葉が多くて、これは表面的な暗記だけではダメだと思ったから。

言葉の意味だけならスマホでも調べられるし、むしろそちらのほうが早いし楽だ。でも、それはなんか違うなという気持ちがあった。何年も前からずっと。それは「知識」というものに対するモヤモヤした予感のようなもので、今回この東大読書という本を読むことで、少しモヤが晴れたような気がする。


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