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散文集 2024年3月

各SNSで書いた散文をまとめました。


東京ドームの愛称がビッグエッグだったことをふと思い出して、たまごの殻を内側から見てみたいと考えていた。自我がもしたまごの中にあって、ぼくたちが経験しているこの世界が殻の内側に映し出された映像なのだとしたら。人生という巨人戦を終えたあと恐ろしく大きな世界を見ることだろう。
(2024年3月1日)


誰かとの距離。みなさんが今いらっしゃる場所が北海道網走市とどれだけ離れているのか。いや、そんなことよりもこころの距離が大切に思う。こころが近ければ、たとえあなたが木星の周回軌道上にいるとしても身近にあたたかく感じられるだろう。触れることなくても体温は伝わるんだ。きっと。
(2024年3月4日)


上野発の夜行列車。もう失われてしまった旅情。北へ帰る前に訪れる上野駅は、東京にあって東京とは違う空気が流れる場所だった。東京駅にも羽田空港にもない独特の重たさ。上野を発った車窓に少しずつ日常が映し出される頃、レールの音に誘われ、まるで夢から醒めるように眠りに落ちてゆく。
(2024年3月4日)


こどもの頃、何度も同じ夢をみた。トラックが行き交う道路。ひまわりに囲まれた木造駅舎。それを眺めるだけの夢。目覚めたときは懐かしさを感じていた。もうその夢をみることはない。その景色がどこにあるかわからないけれど、ぼくにはぼくの知らないふるさとがあって今も探しつづけている。
(2024年3月5日)


季節がおわる。背負っていた荷物を下ろす。誰もが次の季節の到来を信じ込んでいるけれど、はっきりしているのはこの季節がおわることだけだ。ぼくはもう繰り返すことに疲れちゃったから新しい季節が来なくてもいい。それでもぼくの背中はなにかを語りたがっている。新しい荷物がそこにある。
(2024年3月6日)


三月になると積雪の表面がまるで緊張を解くように柔和な表情をみせる。雪を見て春を感じるのはたぶん北国ならではだろう。残雪はまるで泣くように融けて痩せてゆく。本気で殴り合った相手にリスペクトが湧いてくるように、あんなに待ち望んだはずの春の足音に耳を塞ぎたくなってゆく。
(2024年3月8日)


無線で使われるCQという略符号。その語源には諸説あるようだけど、そのひとつがCome Quickというもの。CQとはすべての無線局に対して呼びかけるときに使う。延々とCQを呼び続けるのを聴いたこともある。誰でもいいから早く来てほしいと願う夜。長い夜を持て余しながらここまで生きてきた。
(2024年3月9日)


写真を撮るとき、その写真を見せたいひとのことを想像する。あのひとはこの光景をどう思うのだろうか。そうやって撮りためた写真のうちどれだけがあのひとの目に触れただろう。生まれた意味を失ったデータの塊を消し去ることができなくて、ぼくの容量を日々圧迫しようとしている。
(2024年3月12日)


いつかひろげた地図を畳まなければならない。路地の隅に咲く悲恋や雲の笑顔が見える丘。ぼくはまだこの世界で知らないことが山ほどある。ぼくたちの時間はどうにもできないチカラによって区切られてしまう。だから地図を畳まなければならない。寂しがりの海を胸に刻まなければならない。
(2024年3月13日)


古い時計であれば針が動くたび音を立てる。時を先に進めることに対する決意を示しているように思えた。いまの時計は音を立てない。ぼくたちは無自覚に時という概念を受け入れている。それはどこからやってきてどこへ去って行くのか。それに気づかないまま、西日に照らされた部屋があたたかい。
(2024年3月16日)


カーテンを開けたまま月の沙漠を部屋に広げて寝るのが好きだった。月光を浴び続けると自分のなかのある変化に気づく。月の妖しさを感じてしまったら二度と少年には戻れない。ぼくはそのことを知らなかった。長い時間を経た今でも、月を眺めるとなにか取り戻したい気分になってしまうのだ。
(2024年3月18日)


空は晴れない。晴れてしまえば大切にしていたものが空に還ってしまう。放射冷却のようなそのメカニズムがこの季節に生じる不安の原因だということを、ぼくはいつまでも秘密にしていなければならない。誰かに知られてしまえばもう気流に乗れなくなってしまう。ここに根を張って咲く花を踊らせることもできなくなる。
(2024年3月22日)


朝方の窓におぼろ月が浮かんでいる。はっきり見えないことは優しさだと思う。ぼくを傷つけない配慮なのかもしれない。秋の月はそのすべてを、隅々までみせてくれていた。長い冬が終わるとともに月の軌道の先にみえるものも変わってしまったのだろう。存在が感じられればそれでいい。しあわせなら、ぼくはそれでいい。
(2024年3月25日)


この風景を残そうと思った。まぶたの裏に、そして記憶に。もうすぐ遠い場所となるこの町で積み重ねてきた煉瓦は決してひとつの色に塗ることはできないけれど、根底にあるのは群青いろだ。その濃さがぼくを縛り付け、ぼくを自由にしてきた。これからのぼくはどんな色を吐き出すだろう。どんな煉瓦を積むのだろう。
(2024年3月28日)

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