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ゆくすえ(小説)最終


   ていねいに磨き上げられた食器を、陽の光に透かした。海の底のような深い色をしたそれは、以前から気に入っていたものだった。恩田と暮らし始めたばかりのころ、工房を何軒もまわったのちに買ったものだ。秋の光が穏やかに射して、めるろのこめかみを照らした。窓の外に視線を向ける。きらきらと輝く河川が、遠くまでいちめんに広がっているのが見える。
 新しい部屋には、何もなかった。たいていのものは以前の家で処分をしてしまった。日常を彩る新しいコーヒーミルと美しい食器。必要最低限の衣服、新しいノートパソコン(めるろは、恩田のお下がりを貰い受けた!)。繊細な銀のケースに入ったミントタブレット。哲学書。コンクリートがむき出しになった壁に、大きな藍色の花瓶。それだけだった。恩田は打ちっぱなしのこの部屋を、初めの頃こそ独房のようだと心配していたものの、さいきんでは花が映える部屋だと笑うようになった。めるろがいそいそと決めてしまった物件だったが、彼女の様子を見て、恩田も気に入ったようだった。コンクリートもいいけれど、とめるろは思う。何より大きな窓!   日当たりのよい部屋に壁一面に貼られる窓は、まるで絵画の額縁のように、新しい街を縁取るのだった。少ない段ボールを畳みながら、植物でも増やしたいな、と恩田が言う。めるろも頷いて賛成する。
 以前の街と新しい街とを結ぶのが、この河川である。前のアパートとはそこまで離れてはいないけれども、恩田の勤務先が、ここからすぐそばの私立高校に決まったため、居住を決めたのだった。恩田が高校教師として進み出す一方、めるろは通院することになった。何をするにも気力が湧きにくくなった彼女に、恩田が勧めたのである。そういうわけでしばらくは働かず、家にいることになっためるろは、恩田から譲り受けたノートパソコンで文章を書くことが増えた。恩田との生活の断片を形作られた登場人物に重ねて書いていくと、これまでの胸いっぱいに広がるような喜びや、繊細で鋭い痛みが、再び思い起こされるようだった。心が癒されるような、落ち着くような思い。ときおり書いたものを恩田に見せると、恩田はめるろの頭をぐしゃぐしゃになるまで撫でたので、彼女はむずかる赤子のように恩田から逃げたものだった。
「恩田はもう、キャンプには行かないの」
 めるろが尋ねる。ちょうど恩田は、紺色のシャツの上からカーディガンを羽織り、いちばん上のボタンを留めたところだった。寒くなってきたねえ、と恩田はつぶやく。
「おれ一人では行かないかな」
「あたしのことは気にせず、行ってほしいけどね」
「めるろちゃんが行きたくなったら、また行く。それでいい。というかそれがいいんだよ」
 恩田はそう言って、めるろにもカーディガンを着せてやった。十一月も半ばに入っていた。紅葉でも見に行きたいね。恩田の長い指がボタンを止めるのを見ながら、めるろはされるがままになっていた。子供になったようだと思う。近ごろは女というより、親族とか妹とか、そういう風に扱われることが増えたようだ。恩田を見上げると、彼は目を細めてめるろを瞳に写した。この人モテるだろうなあ、とめるろは思った。初めて会った頃は、全然そんなこと思わなかったのに。今こうして見てみると、彼の瞳の行き先は真っ直ぐとめるろに向いていて、穏やかだった。くすくすと笑うめるろを恩田は不思議そうに見て、彼女の頬を片手でつまむ。
 恩田の身体が好きだ。恩田を恩田たらしめるこの身体が。恩田がここにいてくれるのなら、他には求めるものはない。そしてあたしの身体も今ここにあって、この場所に、ただ二つの身体がここに在る。それだけのこと。そう考える。そのものがあるということが重要なのだ。いつだったか、そのように恩田がいっていたっけ。めるろちゃんそのものがそこにいれば、おれももう他には何もいらない。おれだって、めるろちゃんがそこにいる以外に、求めるものがない。恩田とは、一体ではない。存在は、きっかり二つに別れている。けれども、身体が知覚するもの、反応する心だけは一体となったように思える瞬間があるのだった。重なり合うのは一瞬でだからこそ尊い。それが面白かった。これまでのように、この生活がいつまでも続くのだろう、と不安に思うことはやめた。同じように、いつまでも続いてほしいとも思わなくなった。ただここに、ふいに訪れる、短いけれども、密度の濃い長い瞬間。自らの身体を持ってはじめて相手を十分に感じることができる瞬間。だからこそ、記録する行為を始めたのだった。そうすることで初めて知覚した身体を認識できるから。「見えないもの」とは「見えるもの」をより見えるようにするのだった。めるろは今日もパソコンに向かって言葉を綴る。
 キャンプ。付き合い始めたばかりの頃は、よく連れて行かれた。火を起こす自分の男を、訝しげに見ていた自分が懐かしかった。火を見ると落ち着く。もといた場所に戻れるような気がしてくる。あのときこの男は、そう言ったのだったか。あたしの考えるものとは少し違う。あたしのもといた場所は、どちらかというと……めるろは綴るのをやめて、再び顔をあげる。目の前には美しい河川が広がる。反射する水の光がぎらりと眩しい。



 精神科の無愛想な受付が、めるろは嫌いではない。同じ向きに揃えて並べられた長椅子の、いちばん端に座る。周りを見渡すと、老人が多い印象。時々めるろよりもいくらか年上の男性が診察室から出てくる。みんなが同じ風景を見ている。なんだか、映画館のようなま待合室だ。とはいえぼんやりと見ているのは、寄せては返す波と青々とした海、のビデオだったけれど。(しかも、単調に同じものが繰り返される)
 身体が重くて、肘掛けに頬杖をついた。通院を始めてから、心臓のあたりがずっと重かった。横たわっている時も、ずっしりとその部分が床に張り付き、めるろの体力を奪っていく。どうしてか恩田が帰ってくれば、それも治るのだった。休息も取り、処方された安定剤を飲んでいても、特に何かが変わるわけではなかった。恩田といることが何よりの治療であるように思われた。しかし、これでいいのだろうか?  恩田がドアを開け、めるろに向かって笑いかける時間。それまでは眠ることも食べることもできず、ただじっとしている。なにもしない。調子のいい時は、小説を書き、シャワーを浴びる。それだけだ。それでいいのだろうか? 何もできないままで。
よくはない。ふいに盛り上がってきた涙を慌てて袖で拭う。ようやくめるろの名前が呼ばれ、診察室に入る。
「気持ちを強く持つしかないねえ」
 五十代も後半にさしかかったように見える精神科医はのんびりとそう言った。まるであたしが弱いみたいな言い方じゃないか、とめるろは思うが、苦しみに耐える力を持つしかない、ということだと解釈し、頷く。忍耐ね。でも耐え忍んだ結果がこれだ。なんにもできないあたし。気力の湧かないあたし。なんだかそれが本来の自分であるようにも思えてきて、めるろはそんな自分を受け入れつつあった。
「まだ死んじゃいたいとか、思うこともある?」
「まあ、たまに」とめるろは無愛想に答える。このようにふるまわないと、また涙がこぼれそうになるのだった。
「たとえばどういうときに?」
「恩田……あ、この前話した恋人です……彼が不在のときです」
「彼は、自分の想いを話せる存在なのかな?」
「うーん、話せるというより」
 めるろはうつむいた。
「恋人がそばにいて、あたし、初めて自分の身体が完成するような気がするんです。あたし、昔から恩田が近くにいないとうまく喋ることができないんです。あたしの身体はあたしのもの、恩田の身体は恩田のもの。でもあたしの身体、ほんとうはもう一つあったんです、恩田の肉体を含めてあたしで、あたしの肉体を含めて恩田だったんです」
 精神科医は、苦々しく、そう、と笑った。いい人なんだねえ。めるろはムッとして医者を見つめたが、言い返すのも面倒くさくなって、
「まあ、想いを話せる相手です。それでいいです」と呟いた。
「お薬は、次の診察日まで出しておきます。継続して服用して初めて効果の出てくるものだから、調子のいい時も飲んでくださいね」
 精神科医は念押しするようにそう言った。促されるまま立ち上がり部屋を後にする。こんなもんか、と思う。でも、こんなもんでいい、とも思う。あたしのことを分かるのは、恩田だけでいい。いやそんな弱気なものではない。あたしのことを分かっていいのは、あたしと恩田だけなんだ。掃除の行き届いた清潔な病室。心を病んだ患者たち。美しく、さびしい、特徴のない白い建物。めるろはなんとなく足を引き摺りながら、きょうも帰路に着く。



「最近帰ってくるの、早くない?」
「現場が空いているからね」
 暗がりの中、恩田はそう言って、シャワールームに入っていった。はっと気づき、めるろは慌てて鞄から処方箋を取り出す。夕食後、一錠。恩田が帰ってきたタイミングで飲めば、忘れない。ピルケースから小さな錠剤を取り出し、ぐいと飲み込む。
「めるろちゃんも浴びるか」
「え」
「最近はお風呂入れていないんでしょう、洗ってあげるから、来なよ」
 恩田は笑って手招きをした。めるろはそんなに匂っていたのか、と軽くショックを受けながらも、うんと頷く。入浴さえおっくうになっていた身体。うねりの強い癖っ毛の髪が、さいきんは落ち着いていて気に入っていたのだが、匂うのならばしかたがない。靴下を足で脱ぎながら、浴室へ向かう。
「肌、白いなあ、めるろちゃんは」
「恩田が黒いんだよ」
 恩田はボディソープをネットで泡立てて、めるろの身体に乗せていった。めるろは目を細めて撫でられる猫のようにされるがままになっていた。
「めるろちゃん」
「足も洗うの」
 恩田は頷いてめるろを浴槽のふちに座らせた。そっと脚を差し出すと、恩田は丹念に洗い始める。足の指に恩田の細長い指が絡まると、なんだかくすぐったかった。そのうち、恩田は、めるろのふくらはぎにある茶色いほくろに口づける。石鹸のにおいが立ち込めた。ゆっくり足を開くと、恩田は脚の間に顔を埋めた。天井を仰ぐ。湯気でぼやけて、視界もままならなかった。
「赤いなあ。ここだけ」
 恩田のくぐもった声に、めるろはけけ、と笑った。我ながら白痴の子の笑い方みたいだと思った。そこは誰だって赤いよ。恩田だって赤いでしょう。そう言うと恩田も真面目な顔で頷く。なんとなく、もう恋人には戻れないだろう、と思った。恩田の陰茎は、硬くなっていなかった。あたしたちはもう、セックスができないだろう。恩田もうすうす気づいているのかもしれない。めるろの腰を抱いて、子供が母親に甘えるように頭を乗せている。
「あたしたちどうなるんだろうね」
「どうなるんだろうな」
「別れた方がいいのかな」
「わからない」
「わかんないよね」
「おれたちはもうきょうだいみたいだから」
「あたしたちはもうきょうだいみたいだから」
「……」
「……きょうだいみたいに暮らしても、あたしはべつにかまわない」
「おれもかまわない、でも」
「でも?」
「めるろちゃんはもうじき元通りになる。今までの生活ができるようになる。きみはぜんぶぜんぶ、大丈夫になるんだ」
 恩田はそう言った。有無を言わせぬ物言いだった。身体にやさしくシャワーが当てられる。身体を伝う泡が静かに排水溝へ落ちていくのを見た。ぜんぶ大丈夫。すべて。すべてが大丈夫なのだ。恩田にそう言われると、めるろもなんだかそんな気がしてきて、頷いた。
「恩田」
「うん」
「あたしのことを気にかけてくれてありがとう」
「こちらこそ」と恩田は静かに笑った。あたし、この人の、顔の造形が好きだ。涼しい目元が好きだ。薄い唇が、ものすごく好きだとめるろは思った。



「めるろちゃん、凄い火事だよ!」
 墨の塗りつけられたような夜だった。交通整備のアルバイトを終えた恩田が、息を切らせて帰ってきた。もう恩田の帰ってくる時間か! めるろは驚いて、を切る手を止めた。一つの柿を切るだけで、数時間もかかっていた。
「河沿いから見える。すげえ燃えているんだ、煙もすごいよ」
「河沿い……?」
「河川敷まで降りれば見られるよ」
 恩田に引っ張られ、あわてて支度をした。花びらが描かれた青い器に橙の柿の実が映え、見惚れていたところだった。名残惜しい、と思いながら、ミュールをつっかけて走る。星空がめいいっぱいに広がり、頭上で瞬いていた。走るたびに鼻の奥に冷気が刺し、めるろの頬を紅潮させた。繋がれた恩田の手。しなやかな恩田の背中。どこまでも走っていけそうだった。開ける視界の中で、恩田と一緒に走っていくことが、今後の自分に定められた運命だと、めるろは思った。恩田は息を切らしていた。サイレンが、うるさいね。めるろが言っても、うん、と頷くだけだった。恩田はもう目の前の火だけを見つめている。分かりきったことだと思いながらも、さびしく彼のえりあしを見つめた。ふとしたことでふたりの心は近づき、そうかと思えばすぐに離れていく。波のようにゆらゆらと、めるろの思いは動いてゆく。

  河の向こうはいちめんに燃えていた。何が燃えているのかも判断がつかなかった。大きな火事だった。消防車、救急車、パトカーが交錯して停まっている様子が見られた。ごうごうと音を立てて火が燃え上がり、白い煙が黒々とした闇をぼかしていた。煙たくて、思わず涙目になる。騒ぎを聞きつけて多くの人々が河川敷まで出てきていた。恩田はじっと燃える建物を見つめている。
「燃えたのは、住宅なのかな」
  独り言のように呟くと、恩田は、
「どうだろう」と言った。
「大学の方ではないみたいだね」
「繁華街の方かもね」
  恩田は河川敷の土手に座った。めるろも身を寄せて隣に座る。そっと目をやると、恩田の瞳が赤かった。目の前に広がる炎を映しているのだった。ついこの間まで住んでいた街が、あんなにもたやすく燃えるものなのだ!  引越しをしたタイミングが良かった。もし、今もあそこに住んでいたら……? めるろはなんともいえぬ因縁を感じ、怖くなって恩田の腕にしがみついた。目の前の黒々とした河が、火に照らされて白く、ちらちらと反射した。

「子供の頃、おれの家、火事になったんだ」

  ふいに恩田がそう言った。めるろは驚いて、ほんとうに?と尋ね返す。恩田は頷く。
「小学四年生のとき。深夜だった。あっという間に燃えてしまった。勝手口から燃えたからすぐに分かったんだよ。母は静かにおれの手を引いて外に出た。父だけが家の中にいた。燃え広がっても、出てこないんだ。誰も助けにいかなかったんだよな」
「どうして?」
「どうしてだろうね」と恩田は言った。「ただ、燃えてしまったんだよな」とぽつりと言った。
周囲が騒がしくなってきた。火災を見るために、人々が集まってきたのだった。対岸には、いっせいにスマートフォンが向けられている。撮影をすればお金になるのだろうか、などとぼんやり思った。テレビ局に売れば、どれくらいの値段で買ってくれるのだろう。恩田はポケットを漁って、おれは忘れちゃったみたい、とおどけて見せたので、めるろは笑った。
「その過去は、恩田が火を好きなことと関係しているのかな」しばらくの無言ののち、めるろが尋ねると、「そうかもしれない」と恩田は呟いた。
「何か。火が立ち上るのを見て、何かをやり直せるような希望が見えたのかもしれない。父が死んで……母は精神的に不安定な人だったから……母さんが、もう怒られなくて、殴られなくて済むって。おれと、母さんで、ようやく新しい家族になれるんだ、そういう気持ちだったよ」
 物事の仕切り直しとしての炎。めるろは思う。いつだったか恩田の生まれた故郷を思ったこと。冷たい雪の中で、不安定な母と暮らしていた幼い少年は、何を思って、歩いていたのだろう。
「いま、住んでいる場所が火事になったらどうしよう」
「そのために河の近くにしたのではないの?」
「え」
「そう思っていたけど」と恩田は言った。「キャンプにいったとき、めるろちゃんはずっと河の中流を眺めていたでしょう。めるろちゃんは、おれみたいに燃えるものではなくて、流れるものの存在を強く感じているんだ、と思った。めるろちゃんは、おれが火に執着するのを不思議がっているけど、俺にとっては、めるろちゃんが水に興味を示す方が、面白かったよ」
 めるろは海沿いの故郷を思った。坂道を下っていくと、寒々しい海が広がっていた。海水浴場ではない、ざっくばらんな海だった。潮風に吹かれているせいで、幼いめるろの髪はいつも傷んでいた。あのころは、祖父と、母と三人で暮らしていた。身体の大きな祖父は、めるろを背に乗せて遠くまで泳いだ。海はどこまでも広がっていた。怖いくらいに、青かった。祖父は寡黙な性格で自分のことをあまり話さなかったが、よくウニを割ってめるろの口に運んでくれた。祖父の指は硬く、豆だらけで、鉄のような匂いがした。夕方ごろ、派手に着飾った母親を見送ると、祖父は幼いめるろを夜の海へと連れて行った。何にも、見えないなあ、めるろ。海の轟きと闇の恐ろしさに、めるろは半泣きになって祖父の腕にしがみつき、不安定な足元を何度も確かめた。祖父は小さなめるろの手を優しく握った。そして言った。ママはな、おまえのこと、ちゃあんと好きだからな。ごめんな。めるろ。ごめんなあ。いいよ、とめるろは笑った。じいちゃんは、あたしのこと好きでしょう。祖父は、もちろん大好きだよ、と呟いた。よかったと思った。顔が見えないけれど、じいちゃんはここにいる。ちゃんといま、ここにいるんだ。これからもずっとここにいるんだ。幼いめるろはそう思った。きっときょう、ママは帰ってこない。でももう、帰らなくていい。じいちゃんと、ふたりで海でずっと暮らせればそれでいい……
「海の近くに生まれたから、海に帰りたいのかもしれないなぁ。一番幸せな時期だったから」
「今はどう?」
「今も幸せ、同じくらい、幸せ。川の近くだと、じいちゃんのことも思い出せるもの」
   警察は、放火殺人の可能性も含めて、捜査しています。見物人が動画でも見ているのか、スマートフォンから、そのようなニュースが聞こえてきた。男性の遺体が、見つかっているらしい。あの中でかんたんに焼かれてしまったのだろうか。夜になり切れていないこの時間帯に。街で息をしていただけの人間が、たまたま。偶然、何者かの、悪意によって。恩田はただ、じっと前を見ていた。だからめるろも前を見た。
「めるろちゃん、おれたちの街が燃えていくよ。おれたちがいた過去が燃えていくよ」
「おんだ」
「何もなかった。あそこには何もなかったんだ。だからおれたちはやり直すことができる。おれたちの身体は〈ここ〉にあるのだから、おれたちは〈いま〉ちゃんと実存している。それ以外にはなにもない。〈いまここ〉しかないんだ」
  言い聞かせるようにそう繰り返す恩田に、めるろは胸がふさがるような思いがした。
「わたしはこうして恩田といられるんだから、幸せよ」
「おれもそうだ、おれもそうだよ」
 恩田は吐き捨てるように言った。
「おれはただ、めるろちゃんが息をする。めるろちゃんが何か発する。めるろちゃんが笑う。それが世界のすべてだと、思うだけだ。おれはそうだと、きっと思うんだ」
  めるろは口を開いて、なにかを言おうとして、やめた。代わりに恩田の肩に頭を乗せた。煙が目に染みたのか、目に映るすべてのものが滲んだ。恩田の震える肩が、それを誘発したのかもしれなかった。恩田が、あたしのこと背負っていったように、あたしも恩田のこと、背負っていかなくちゃならないんだ。恩田がすることすべてを肯定し、これでいいんだって、これこそがあたしたちのゆくすえなんだって、言い張って行かなくちゃならないんだ。心が重ならないときだって、体が近くにいないときだって、ずっと隣にいてあげなくちゃいけないんだ。大丈夫だよ、とめるろは言った。
「あたし、いつまでも、恩田と一緒にいてあげる。だから、ぜんぶ大丈夫なんだよ」
  恩田は顔を覆い、膝を抱えながらしゃくりあげた。めるろは彼の背中を抱え、平たい背中に頬を押し付け、河の先を見つめた。火は以前にも増して強く強く燃えあがり、明るい夜をもたらした。身体が熱かった。恩田の身体が熱いのか、自分の身体が熱いのか、わからなかった。ねえ、恩田、あたし、


  恩田のことがすきだよ。


  あたしは知らない。恩田がほんとうに殺人を犯したのか、あたしは知らない。恩田がほんとうにお店を燃やしてしまったのか、オーナーを殺してしまったのか、あたしは知らない。けれどもそれはあたしにとってどうだっていいことだった。恩田が恩田のままなのであれば、どうだっていいことだった。
「逃げたい?」
「逃げたいね」
「にげてみる?」
「にげてみるか」
  にげてみる。ぜんぶすててにげてみる。どこまでも恩田と、歩いてみる。それもいいと思う。あの部屋に戻れなくても、この都会から離れても、大学に行く夢が叶わなくても、恩田の身体があたしの身体のそばにいるのなら、それでいいと思う。


  めるろは立ち上がって、恩田の手を引いた。ふたりは赤い川を背に、街灯に照らされた道のりに目を向けた。振り返ることはない。道はどこまでも続いている。どうしようもないふたりが歩いている。それはとてもまっすぐな道で、さみしい。


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