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ゆくすえ(小説)4






「殺してやりたい」
 と思った。思ったけれども、この思いをどこに向ければ良いのか、わからなかった。手がかりがなかった。相手に心当たりはない、と言い切られてしまったので、それ以上を聞き出すことができなかったのだ。鬱屈とした黒い塊が喉元まで迫ってくるように感じた。研究をしていても、アルバイトをしていても、その塊は離れない。怒りとよく似ているが、等しくはない。言葉として当てはめるならば、失望や徒労の感覚と近い。しかし一体何に失望しているのか。呆然としているのか。めるろが傷つけられたこと?  めるろが汚されてしまったこと? こんなにも容易く一人の人間の世界を閉じてしまうほどの、人間の、男という性の、暴力性が露見したこと? わからなかった。
 めるろは、もう図書館に行かない。本も読まなくなった。部屋の隅で膝を抱えて座っているだけだ。そうして、ぼんやりと、家の中を見渡しているだけだ。恩田がコーヒーを淹れる時のみ、立ち上がって、そばで動作を見守っている。おはよう、めるろちゃん。お腹すいたね。パン、食べる? そんな日常的な会話はするけれども、それ以上のやりとりはしない。小さな女の子にでもなってしまったかのように、めるろは爪を噛みながら、「うん」と恩田の声に応える。
 めるろのそばにいることが増えた。もちろんめるろの様子を見て、そうしなければいけないのもあった。しかしかえって恩田の方が、めるろを必要としているように恩田には思われた。何をめるろに求めているのか?  自分に何が欠乏しているのか恩田にはわからなかった。しかし、めるろを自分のそばに置いておかなければと思った。強く強く、そう思った。
 アルバイトが終わった後、めるろを膝に乗せてぼんやりしていると、彼女の体重がとても軽いことに気づくのだった。知らなかった。この女のまつ毛が、重力に従って、すだれのように伸びていること。瞬きをすると、上質な傘を畳む時のように、大きな弧を描くこと。形の良い唇はきっぱりと結ばれていて、時々のぞく前歯の形がとても小さいこと……しみじみと見ていると、この女は本当に美しかった。魂の投げだされた女の身体とは、こんなにも美しいものなのか!  恩田は思い、一瞬でもそう感じてしまった自分を慌てて戒める。めるろの細い腰を抱いて、彼女の眺める窓の外へと目を向ける。何も話さなかった。外はどっぷりと夜に浸かっていた。
「おれは、めるろちゃんのことを何もわかっていなかったようだよ」
 そう言うと、めるろは振り向き、恩田の目を見つめ、微笑んだ。何も言わなかった。恩田はめるろを抱く力を強めた。
「軽いなあ」
 話さなくなった代わりに、めるろはよく食べた。なんでも口にした。恩田の買ってきたピザを、手作りしたハンバーグを、あんなにも嫌がっていたチェーン店の牛丼を、出店で売られた駄菓子を、回転寿司を、飴玉を、なんでも、次々に食べた。まるで何かを取り戻すかのように、物凄い勢いで食べるのだった。彼女が狂ったように食べ物を摂取するたびに、恩田はあっけに取られてそれを見ていた。こんなに小さな身体に、どうしたってそのような量が入るのだろう?   彼女はこれから、とんでもなく大きくなってしまうのかもしれない。巨人のように大きくなるかもしれない。その時自分はどうすればいいのだろうか。めるろを動かすのも大変になってくるだろうし、健康の視点から見ても……恩田は的を得ない自身の心配に呆れながらも、彼女が食べるのを見つめた。めるろはそんな心配などお構いなし、というふうに、憮然とした顔で食べ続けている。
 寝る時も、彼女は恩田のそばに横たわり、彼の性器を頬に当て、よく眠った。恩田の勃起が治まると、手持ち無沙汰になったように、右に折れ曲がったそれをつまんだり離したりして遊んだ。いつか噛みちぎられるかもしれない。そんな思いに駆られ、ヒヤヒヤとしていたが、めるろはただその匂いを嗅いだり、それに頬擦りしたりするだけで、他には何もしなかった。恩田が射精すると、自らティッシュペーパーを使って彼の腹周りを拭き取り、もう一度しっかりと頬に固定し、眠りにつく。されるがままになっている恩田も、ときおりは彼女の服をめくり、形の良い乳房に触れたり、湿ったパンティの下を指で広げたりした。だが、今のふたりはちょうど子供が医者のまねをするように、お互いの身体を見て、相違点をそっと確認するだけに過ぎなかった。彼女の丸みをおびた乳房が重力にしたがって、衣服からまろびでているのを見ると、恩田はなんだか泣きたくなって、その重さを手のひらで感じるのだった。この女は生きている。この女はどこまでも存在している。それなのに。ちゃんとここにいるのに。どうしてかここにいないような気がしてくる。恩田がすすり泣くと、めるろはゆったりと彼を抱え込み、乳首を口に含ませた。めるろの汗と乳輪の匂いが混じって、恩田はまた泣きたくなる。そういうことを繰り返して、季節が巡ろうとしていた。
 一緒に暮らしてはいても、植物のように静かに息をしていたものだったから、少し出かけてくる、とめるろが言ったとき、恩田は驚いて顔を見上げた。
「どこに?」
 そう尋ねると、めるろは「お金を払いに行かなきゃならない」と言った。買い物をした際に、カードで引き落としができなかったから、コンビニで払うことにするのだと。
「おれも一緒にいくよ」
「いいよ。恩田、執筆あるでしょ。あたしアイス買ってきてあげる」
「でも、もう暗いし」
「一人で行けるから」
 「一人で行く」めるろがやはり憮然とした表情でそう繰り返すので、恩田も黙るしかなかった。十月に入ったと言うのに、空気がベタベタとしてまとわりつくようだった。めるろと関係を持ってから、ずっと暑い。そんなわけないのに、そう思わずにはいられない。ずっと、モヤモヤとしている。満ち足りているのに、何かを忘れているような、思い出せないような。恩田はいつもそんな思いがするのだった。室内にいるのにもかかわらず、めるろは汗をかいていた。奇妙に思ってエアコンの温度を確認するが、数値が高く設定されているわけではなかった。「バナナ味のアイス食べたいなあ」めるろはそう呟きながら、恩田のキャップを深く被った。
「気をつけて行きなよ、めるろちゃん」
「うん、まかせて」
 二階建てのアパートから、暗闇に溶けていく、めるろの小さな背中を見た。窓を開けると生ぬるい風が吹いてきて、同時にいやな予感がした。これでめるろを見るのが最後になってしまうような、何かおそろしいことを目撃する予兆のような、いやな感じがした。恩田は少し待って、めるろの後を追った。
 思えば、恋人に、いやそれを超えて、他者にここまで深く入り込むことは、恩田にとって初めての経験だった。自分が変わり者だと言うことは自覚していた。幼い頃から学校という空間には馴染めなかったし、居心地の悪い空間に自らの身体が存在するのが気味が悪くて、何度も何度も手を洗っては、同級生から気持ちの悪い人間だとからかわれていた。中学生になると、数学の計算をするのが何よりも楽しくなった。恩田にとって数学は、小学校の系譜から有機的に結びついていたため、それらが数理哲学への興味へと変化するのには、時間はかからなかった。数学はアプリオリ的に、身体や現実に先んじて論じられるものか。いや数学的な思考はあくまでも身体の派生物であるのか。考えるのが楽しくて仕方がなかった。どちらの思考にも揺れ動いた。この揺れ動く思考自体も、恩田には新鮮で面白く思えた。大学に入って、好きだと思える恋人ができた。初めての理解者だった。美しくはないけれども、文学を愛する人だった。多くの作品を教えてもらった。吸収することが楽しかった。知識が愛しかった。彼女の身体に携えられた果実のような知識を全て、手に入れたかった。そうすることで彼女を知ろうとして行った。しかし、彼女はすぐに恩田から離れて行った。「食べられてしまいそうだもの」と残して。「あなたがいい人なのは分かっている。けれどもこのままでは私が無くなってしまう心持ちがする」。
「あたしはなーんにも、持っていないよう」
 めるろはそう言って舌を出したものだった。あたしねえ、あんたみたいに数学もできなければ、あんたの元カノみたいな知識もない。漢字も書けないし、掛け算も危ういよ。総理大臣の名前も知らない。なぜ? 恩田は尋ねる。なぜ持とうとしないの。持とうとすれば持てるような人じゃないか。すると、彼女はいうのだった。何にも持ちたくないのよ。何かを持っていると言うのはしんどいから。大切なものがどんどんこぼれていきそうな気がするから。でも何にも持っていない人に、みんな、厳しいのよね。
 めるろが何も持っていない、とは思っていなかった。むしろ、何もないゆえに、全てを持っているような思いがした。だからめるろに恋人になろうと誘われた時、身体が燃え上がるような喜びを覚えた。自身の知的好奇心が満たされる瞬間のように、めるろという女の身体がそこに在るだけで、新しかった。愛しかった。数学も、文学も、知ろうとしない、必要としない女がどのように生きているのか。何を思い、何に心を痛め、何を愛そうとするのか。何に価値を置き、どこに救いを見出そうとするのか。恩田にとってはめるろの身体そのものが哲学であった。哲学など、文学など必要なかったのだ。だって彼女は学問そのものであったのだから。
 コンビニの酒棚に隠れてめるろを覗くと、彼女は二人分のカップアイスと一緒に、自身の払込票を提示しようとしていた。恩田はほっとしてその姿を見守った。しかし、めるろはなかなか動かなかった。不器用なめるろは、払込に必要な三万円の札を揃えて入れることができず、なかなか自動レジに反映されないようだった。
「そんなんじゃ全然だめだよ、もうやるから貸して」
 店員に大きな声で言われているのを、恩田は聞いた。一瞬しんとして時間が止まったように思えたが、恩田の気のせいだったのだろう。気づいたときにはめるろは大声をあげて、わあわあ泣き出してしまっていた。店内がめるろに注目するのも構わず、めるろは札を丸めて、払込書も破いて床に放り投げた。
「みんながあたしをバカにするんだ、あたしだって好きでバカなわけじゃないのに、みんながあたしをいいように使うんだ」
 恩田は素早くめるろの腰を抱くと、自身の財布から代金を取り出し、支払いを済ませた。転がったアイスを袋に入れ、集まる視線をこめかみのあたりに受けながら、外に出た。喉元が熱くなって、あの塊が再び込み上げてくる思いがした。この地を離れなければいけないと思った。俺たちはもうここに住むことができない。この場所は、永遠にめるろを縛りつけるだろう。俺たちはもうここに存在することができない。
「おしっこしたいよ」
 歩きながら、めるろが言った。ぐずぐずと鼻をすすっていたせいか、めるろの顔は赤かった。恩田は困ったようにあたりを見渡したが、用を足せるような場所はなかった。もう少しで家だから、我慢できる?  めるろは首を横に振って
「公園でするよ」
 と言った。ぎくりとした。それは恩田にとっても避けるべき場所になっていたから。ただ、「どこの公園?」そう返さないわけには行かなかった。
「いつもの公園、あそこの、通りの」とめるろはなんの含みもなく、のんびりとそう答えた。


 めるろが犯された場所は、何事もなかったかのように、しんとしてそこにあった。元々小さな公園で、汚れた、少ない遊具しかなかったものだから、普段から子供もいなかった。黄色に染まりつつある木々の葉が、音をたてて風に吹かれていた。改めて月日が流れているのを、恩田は感じる。この木も、きちんとここに存在している。姿を変えながらも、それは昔と同じものなのだ。
「ここで、やられたんだよ」
 めるろは言って、しゃがんだ。恩田もしゃがみ込む。黒くてよく見えないが、柔らかい土だった。
「パンツ、ないなあ」
「パンツ?」
「パンツ。埋めたの。汚くなったから、精液ついたから埋めたの」
 めるろはそう言った。返す言葉もなかった。ただめるろがこのように、具体的な言葉で説明することで乗り越えようとしているのだとしたら? 恩田は唇をきつく結んだ。
「ここでするから向こう向いていて」
「うん」
 立ち上がって後ろを向いた恩田は、雲間から月が出てきているのに気がついた。日が短くなっているのだった。まだ十八時だというのに、十五夜を過ぎた月が、どっしりとそこに浮かんでいた。影の模様まではっきり見える。背後でめるろの尿の音を聞く。匂いもない。けれども長く、長く続く。さやさやと草花を濡らす音を聞きながら、この女の身体に、以前のように出入りすることは不可能だろう、と思った。この女はもう幼くなってしまった。あまりにも無防備になってしまった。もともとこの女はセックスが好きではなかったが、近頃は積極的に身体を重ねたものだった。事件があって、子供に戻ることで、彼女は身を守っている。自我を守っている。そこまで考えて恩田はやりきれなくなった。問題を突き詰めることは好きだ。しかし、子供になった女とのセックスを突き詰めるほど、自分は醜悪ではない……
「おしっこしました」
 めるろが木の根元を指さして真面目にいうので、恩田は笑った。
「花が咲いてくるかもしれないね」
 そう返すと、めるろは真面目な顔で頷いた。そろそろ帰ろうか。めるろの手を取ると、彼女はぽつりと呟いた。
「それでもまた生きて、存在していくのよね」
 その瞬間、電流のような衝撃が走った。身体の力が抜けていき、再びしゃがみ込む。彼女は、いま、おれを励ましたのか⁉︎  手を繋いだまま、彼女の細い膝を凝視する。全て理解できたのだった。“これ”こそが自分に足りないものだった。“これ”を見るのをおれはずっと怖がっていた。ずっとこの女のことが知りたかった。この女の痛みを知りたかった。この女が何に苦しんでいるのか、わかりたかった。少しでも和らげてやりたくて、寄り添おうとしていた。
 でも、違う。
 論文にかまけて、自分のことしか考えられなかったこと。めるろのいてほしい時に、いることができなかったこと。そんな自分が悔しくて、苦しかった。痛かった。どうしようもなく、悲しかった。死んでしまいたいほど、情けなかった。恥ずかしかった。言うまでもなく、めるろの痛みこそが、恩田の痛みと直結していた。
 おれはめるろの痛みを、遠くから見ていた。ほんとうは、この痛みはおれのものでもあったのに。おれはこれを受け止めて、一緒に向き合っていかなければならなかったのに。それを見ないようにして、めるろ一人に痛みを押し付けて、安全な場所から保護する役割を引き受けていた……。
 めるろの苦しみは、おれ自身の苦しみでもあったのに。
「……めるろ、おれたち、引っ越そう。別のところで暮らそう。おれはしばらく働くし、めるろはしばらく休んでいればいい。新しい町で暮らそう。誰もおれたちのことを知らないところに行こう」
 めるろは黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。それはまるで啓示のように、気高いひとつの詩ように、恩田の耳に入っていった。
「水の近くがいいと思うの」
 恩田は深く頷いた。

 帰り際、下着を埋めたという木の根本を、もう一度見つめた。めるろが放尿したあたりが、闇の中でより黒黒と染まっているような気がした。


 恩田はもう振り返らずに、彼女の右手を握って進み出した。



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