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ゆっくりと呼吸するまち

このごろ家を建てたいと土地を探している。

先日とある土地情報がでていたので現地を見に行ってみた。そこは大きな道路から横にそれた道をずーっといった先にあった。あまり広くはない道路をしばらく進むと「ようこそ〇〇まちへ」と書かれた古めかしいゲートが立っていて、そこを過ぎると山間に唐突に住宅地が現れた。

とても古く感じるまちだった。

かつて銭湯だったと思われる建物の看板は壊れたまま。道路の舗装からは草が生えている。山の斜面にギュウギュウに建ち並んだ家々はどれも傾いてみえて、いるはずの住民の姿はどこにもなかった。

昼間なのに妙に薄暗いかんじがする。

「なんだか怖い。もう帰ろう」

気味が悪くなってきた私は主人にそう言うと目当ての土地を見るのもそこそこにその住宅地を後にした。

新しいまち

私の住むところは地方の県庁所在地のベットタウンと呼ばれるまちだ。ベットタウンとなってからもう数十年。ひとの増加にともなって増えてきた新規住宅地も、ひとつやふたつではなくなっている。

私が先日みたのもその住宅地のひとつだった。

かつて紛れもなく『新しいもの』だったはずのまちの、未来の姿なのだった。

それを目にしてからというもの、なんだか不安な気持ちと、おぼろげな疑問を抱くようになった。

山を拓いたり田んぼをつぶしたり、そういう風にして、新しい場所に新しい建物を建てることが、はたして、未来をつくるということなんだろうか。

新しいものが新しいのは、今だけで、今新しいものも、ほんのすこしの未来には古いものになるというのに。

生きているまち

近ごろアパートのまわりで水道管工事が行われている。

そのあたりはちょうど私の通勤路なので、毎日朝と帰りに彼らの仕事ぶりを横目に通るのが日課になった。はじめて間近でみる工事の様子は、なかなか興味深い。みていると毎日毎日掘ってはもどす作業を繰り返している。

そうして数か月かけて『地震に強い水道管』へ交換していくのだという。

私はそのポカンと掘られた穴をみて、そうかこのいつも歩く道の下には水道管が張り巡らされていたんだ、という当たり前の事実をはじめて意識した。

まちというのは、ある意味では生きもののようだと思う。

血管みたいに水道管が巡り、骨のようにして道路がはしる。
そこに家々や建物が肉付けされていく。

まるで生きものの身体そのものみたいだ。

生きもののようであるからには、私は、まちには循環のなかにあってほしいと願うようになった。

空いた土地にいそいで作られた住宅地が、たった数十年の間にさびれていく。侘しくなる。そこにもうひとが住まなくなったって、また畑や田んぼに戻るわけではなくて。ただポツンと過去に置き去られていく。

そういうのは、私は悲しい。

あの侘しい住宅地みたいなものは、もうそんなにいらない。

人間の作ったものは人間がきちんと循環させなければいけないと思う。自然が勝手に土にかえしてくれたりはしないのだから。

では、循環するまちとは、どういうことなんだろう。

循環するまち

ひとつには、ひとが絶えず住むことだと思う。

人口がどんどん少なくなるこの時代、ひとが絶えず住むというのは、親から子へ御家を継続させるという意味ではないのだろう。むしろ、いかに所有を手放すか、という話になる気がする。

私は、たとえば土地を買ったとして、その土地を子孫代々へ残したい、という思いはあまりない。自分の子どもが将来同じ家に住んでほしいという思いも今のところはない。(もちろん住んだってかまわないのだけど。)同じ家や敷地じゃなくていいと思う。このまちのどこかに住んだらそれでいい。自分の子どもじゃなくて、誰かほかの若い家族だっていい。役目を果たした家は次の必要な人たちに活用してほしい。

というのは、まぁ要は空き家とかもったいないじゃん、必要なひとに使ってもらうよ、っていうことなんだけど。そういう土地をぜひ買わせてほしいなぁという私の願望でもあるんだけど。

いろいろな土地をみてまわって、つくづくそう思う。

個々じゃなくて、みんなで、まちに住む。というスタンス。
に、なったらいいなぁと。


もうひとつは、建造物や人工物は直したり、ときには壊したりすること。

古い水道管を何度も掘ったり戻したりしながら地道に『地震に強い水道管』に変えることは、実はすごく未来に向かっていることなのではないかと思うのだ。水道管は直さなければいずれ過去のものになるだろうけど、直せばそれは未来につながっていく。

とても地味だけど、とても未来だ。

人工的につくられたものは、そうやって循環するしかない。

そして壊すこともまた、未来なのではないかと思っている。

今の時点でもう使わない建物なんかを、そのまま未来に残してしまうのは、現代に生きるものとして、なんだかほんとうに申し訳ない。後始末をさせてしまってごめんねという気持ちになる。

山間のさびれつつあるあの住宅地が、数十年してほんとうにもうひとがいなくなって誰も使わなくなる日がきたら、全部壊してまっさらにして、また自然の循環のなかにかえすことは、可能なことなのだろうか。すごく大変でむずかしいことではないだろうか。

まちを、たたんだり始末をつけたり、そういうのもこれからは必要になると思うけど、きっとつくるよりもほんとうにむずかしいことだ。

だからこそ、これからの未来のまちには循環して続いていってほしいと思う。


ひとも建物も変わっていっていい。

ゆっくりと長い年月をかけて呼吸をする。
でたりはいったり、つくったり壊したり、少しづつ形をかえながら在り続ける。

そんな生きたまちで、私は暮らしていきたい。

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