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「祈る」だけで終わらないために─「天気の子」再考─

2021年の正月に「天気の子」が地上波で初放送された。
あらためて述べるまでもないが、「天気の子」とは2019年に新海誠監督の指揮の元で公開されたアニメ映画のことであり、前作の「君の名は。」ほどではないものの、高い興行収入をおさめた作品だ。
この作品の公開後、ぼくは自身のブログに感想を記している。

1年半近く前の記事なので今読み返すと、細かい部分でなおしたくなってくる箇所はあるが、ここで書かれている問題意識は今も変わっていない。
すなわち、「世界か少女か」という問いに自分なりの答えをだした帆高の台詞、「ぼくたちは、大丈夫だ」に対する疑義は変わっていない。
だが、その上で今だからこそ付け加えておきたい点はある。今回はその点について書いていきたい。

帆高はマスクをしていない

この映画の登場人物である帆高たちはマスクをしていない。
舞台の時代設定は2021年の夏ごろだとされるが、ぼくたちが生きるこの現実世界で当該時期にコロナ禍が収束しているかどうかは相当怪しい。
だが、現実世界とは異なり、帆高たちはマスクが不要な、コロナとは無縁な世界に生きている。
もっとも、作中の帆高が「実際に」マスクをしているかどうかは重要な問題ではない。ウィズコロナ時代(つまり2020年以降)に製作されて同時代を舞台にした作品に登場するキャラクターはすべからくマスクをしている、ということではない。
しかし、コロナウイルス流行以前と以後につくられたアニメでは、前者と後者を明確に分かつものがある。

それは、作り手の意識に「新型コロナウイルス」というものがあったかどうかという点だ。

その意味で、帆高たちは「マスクをしていない」、つまり、この映画の製作陣はコロナを意識していない
当然だ。この映画が公開されたのはコロナ流行以前の2019年7月なのだから。
しかし、それにもかかわらず、この映画で描かれる風景は私たちが生きている現在の風景とオーバーラップする。
劇中冒頭で登場人物達が「また雨?」「最近ようやく晴れてきたのに」とボヤくシーンがあるが、この光景は感染者の多寡に一喜一憂する「わたしたち」と重なり合う。
そもそも、劇場公開直後はさまざまな現象の象徴とみられていた「雨」はもはや「ウイルス」にしかみえないし、その「雨」から身を守るために作中の登場人物がさしている「傘」は、いまや装着していないと周囲から白眼視される「マスク」を連想させる。
勿論、これは偶然だ。
しかし、この偶然はこの作品が特定の時代におさまらない普遍的な性格を持っていることを示している

帆高の「決断」に「責任」はあるか

編集プロダクションを経営する「大人」である須賀は、劇のラストで帆高に「まあ気にするなよ、青年。世界なんて元々狂ってるんだからさ」と声をかけている。
この極めて象徴的な台詞の前後にあたるシーンをもう一度確認しておこう。
帆高は、「晴れ女」の代償としてその姿を現実の世界からは消失させようとしていた陽菜のことを助けだす代わりに、世界を止めどない豪雨の中に置き去りにした。
故郷の島へ戻ったあともそのことを気にしていた彼は、再び訪れた東京でかつて知り合った老婆(新海誠の前作、君の名は。の主人公である瀧の祖母)に「あの辺りはもともと海だった。だから元ある世界に戻っただけなのかもしれない」という旨のことを告げられる。
その後に訪れた編集プロダクションで須賀から言われたのが上述の台詞であるというわけだ。
言うまでもないことだが、ここで言われているのは「責任」の話である。

ボーイミーツガールから始まる「天気の子」の主題は、最終的に「責任」の問題へと推移する。

須賀は勿論のこと、なにかを察しているのであろう老婆も、「世界は最初から狂っているのだからあなたの決断に責任はない」と帆高を免責しようとする。
「子供(あなたたち)には責任がない」という風に。
勿論、これは善意による発言だが、これに違和感を覚えたのは他でもない帆高自身だ。当然だろう。

もし、彼の行為に責任がないのであれば、責任の主体たりえない彼の行為は矮小化される。彼が陽菜を助けようと助けまいとその行為に責任が一切ないのであれば、彼はそもそも「大きな」決断などしていなかったことになる。
しかし、ラストのシーン、陽菜が天に向かって何かを祈る姿をみた帆高は大人達の考えを振り切り、「違う。やっぱり違う。あの時、僕は、僕たちはたしかに世界の形を変えたんだ」と思い直す。そしてそのような決断が可能だった自分たちは「狂った世界」でも「大丈夫だ」と確信する。

この確信に疑義を呈したのが前述したぼくのブログ記事である。
つまり、責任ある主体として生きていくことを決断したはずの帆高たちがそれでもいずれ「狂った世界」にのみこまれてしまうのではないかという懸念を、数ある名作が「セカイ系」という一つの大きな枠組みのなかにのみこまれていってしまった歴史に重ねてみたわけだ。

冒頭で書いたように僕のなかにあるこうした問題意識は変わらない。続編でも作られないかぎりは、帆高たちの「その先」については想像するしかないのだから。そして続編はつくられないだろう。「君の名は。」の登場人物が「天気の子」に登場したようにおまけのような部品として呼び出されることはあっても。
しかし、件のブログ記事を書いてから一年と約半年がたち、世界の情勢も変われば、ぼく自身の考えにも変化した部分があった。
ただし、それは必ずしも良い方向にではない。

「世界か少女か」という虚構

この映画のなかで帆高は「世界か少女か」という問いをなげかけられる。
そして、この問いかけこそがこの作品が「セカイ系」と称されることもある理由である。
この「セカイ系」という言葉で表される一連の作品群(ぼくはこの言葉が嫌いであることを断っておかなければならない。ぼくがこの言葉を使う際は、常にこの但し書きがあるものだと思ってもらって構わない)は、作品を通して繰り返し読者や観客にこの「世界か少女か」という問いを投げかけてきた。
このような作品がゼロ年代を中心に流行した原因については、90年代に盛んだった終末論ブームの名残にみてもいいし、同時期の社会情勢にみてもいいかもしれない。だが、理由はともかく、当時のオタク達はこれらの作品に熱狂していた。
換言すれば、「世界か少女か」という虚構に「没入」していたのだ。
良い物語の条件、というとそれだけで論争に発展しそうなほど重いテーマだが、誤解を恐れずに言えば、ぼくはその条件の一つに「没入が可能であること」があると思っている。

つまり、本来何の関わりもないはずの他者に(それどころか存在しないはずの他者に)感情移入をして、現実にはありえないはずの世界を受け入れて、物語を「自分ごと」として捉えることが可能である作品は、ぼくにとっての「良い物語」の条件に当てはまる。
これを前提として仮説を立てれば、「セカイ系」に熱狂してきたオタク達は「世界か少女か」という問いを「自分ごと」として捉えていたのではないか。
勿論、彼らがそれまでの人生においてそのような二択を選んできたかどうかということは問題ではない。
重要なのは、「自分の決断が世界に影響を与えることがありえる」という虚構を彼らが一定のリアリティを持って受け入れていたということだ。
主人公の決断が世界のあり方に影響を与える物語を楽しめる程度には。

翻って、「天気の子」にいまいちのめりこめなかったという人々の意見を聞いてみると、「豪雨によって水没した地域に住む人々」に同情的な声が多い。つまり、「水没した地域には大勢の人間が住んでいた。大勢の人間を不幸にして一人の少女を助けることは本当に正しいのか」というわけだ。
ぼくは、映画公開当時、この批判が単に「倫理的」な(特に功利主義的な誤謬による)観点から出されたものだと思っていた。しかし、それは間違いであったと気づいてしまった。他でもない「新型コロナウイルス」によって。現在も続くこの世界的危機に瀕してぼくはだんだんとこの物語にはまれなかった人々の気持ちが分かってきた。
感染症の危機に対抗するために奔走している「責任者たち」がする「決断」(それは近い将来の景気や社会情勢にも影響するだろう)を前に自分はなにもできないということがはっきりと分かってしまったからだ。

世界の変容にただ身を任せていくしかなかった「水没した地域に住んでいた人々」と同じように。

実際のところ、「天気の子」に批判的な人は、倫理的な観点から帆高の行動を批判しているのではなくて、こうした人々のあり方に自分を重ね合わせているのではないか。
世界のありように自分は一切関わることができず、常に「自分ではない誰か」によって重要な決断は為されるのだと考えているからこそ、彼らは「世界よりも少女」を選ぶ主人公に批判的なのではないか。
もしかしたら、世界が危機に瀕するたびに、自分の無力さを自覚してそう考える人は増えていくのかもしれない。
そうだとしたら、映画公開当時よりも事態は深刻になっている。

「祈る」だけで終わらないために

すでに述べたように「天気の子」は普遍的な作品である。
「コロナウイルス」が流行するはるか以前から、世界は何度も危機に陥ってきたし、人類はそれを乗り越えてきた。
今回はまだ乗り越えることができるだろう。
だが、それでも遠からず同じような危機を迎えることになる。
それがどのようなものになるかはわからないけれども、その時もぼくは「天気の子」のことを思い出すだろう。
しかし、もしその時、すべての人々が「世界か少女か」という虚構に「没入」できないほど「決断」を「他人ごと」と考えていたとしたら、その時こそ、世界は終末を迎えるのかもしれない。それは帆高のような(あるいは帆高とは反対の選択をするような)「決断」の主体がいなくなるということなのだから。
現実の世界は過酷だ。一方で「究極の選択」であるかのようにきこえる「世界か少女か」という問いかけには希望がある。少なくともどちらか片方は守れるからだ。
しかし、現実の世界はそもそもぼくたちに選択肢など与えてくれず、「世界か少女か」という甘えを許さない。

「世界」も「少女」も失う可能性があるのだ。何の決断もできないままに。

決断のできない主体からは「責任」が予め剥奪されている。
それにも関わらず、「責任者たち」は自らの失策の責任を下位の者に押しつけようとしてくることがある。
だが、そのような行為は意味をなさないだろう。押しつけられた側は、そもそも決断ができていないのだから。責任は幽霊のように何もないところから突如出現するものではない。
ではぼくたちは、どのようにして安易な自己責任論に陥らない形で「決断」の主体になって「責任」を取り戻せばいいのか。
実のところ、これに対する完全な回答をぼくは持たない。この事態をどのように乗り越えればいいのかもわからない。

ただ、一つだけ間違いなく言えることは、天に向かって何かを祈っている陽菜をみてその祈る心が折れないように祈っているだけでは足りないだろうということだ。
ぼくたちは帆高ではないから、あのような決断をすることはできないかもしれないけれど、それでもできる範囲の決断をすることで自分にとって大切な何か(少女、それは文字通りの意味でなくてもいい)を守っていくことはできる、かもしれない。
もしあなたが「水没した地域に住む人々」になることを恐れるのであれば、帆高の選択に文句があるのであれば、自分たちが決断を繰り返し、責任の主体となって(自分の)世界を変えていくこと(あるいは守っていくこと)、やれることはそれしかない。とりあえず、今のところは。
「天気の子」があの時、ぼくたちに訴えかけていたことは、そういうことではなかったか。
自戒をこめてそう思う。
反省をこめてそう思う。
かつて公開したブログ記事にいま付記したいことがあるとすれば、この点である。

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