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エヴァと「決断」、その不可能性について

なぜこんな「呟き」が拡散されるのか

今月の17日に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開延期が発表されました。
こんなご時世だから延期になることは皆予想していたと思いますが、それでもそれを残念に思ったのはぼくだけではないでしょう。

一昨日、その新世紀エヴァンゲリオンの過去作を見返しながら思ったことをツイートしたところ、思った以上に拡散してしまい、当該のツイートはこれを書いている時点で2.9万リツイート、11万いいねされています。

ぼく個人としては、ツイートが拡散されようがされなかろうが、それが物質的な利益にでもつながらないかぎりはどうでもいいと感じていまして、普段好き勝手なことをぶつぶつ呟いているのは完全に日陰者の趣味であります。

しかし、たかだかフォロワー400人にもみたなかったアカウントのツイートがここまで拡散された現象それ自体については、何かしら思うことがないわけでもないです。

長年、といっても歴代のアカウントを通算してほんの数年ほどですが、ツイッターをやってるものとしてぼくは、見知らぬ他人のツイートをリツイートしていく人の感情は概ね3つに大別できるのではないかと考えています。

1つは「悪意」です。「こんな馬鹿なことをいっているやつがいるぞ」という晒し行為です。
ツイッターや5ch(旧2ch)などの奥深く、薄暗くてじめじめした空間に心地よさを感じてしまう人間ならすぐわかると思いますが、インターネットにはおかしな人が沢山います。
殆どの家庭にインターネット環境があり、だれもがスマートフォンをもって自分の意志でコンテンツを送受信できるこの社会は「一億総表現社会」と呼ばれることもあります。あるいは、かつては出会うはずがなかった人々の邂逅を可能にした社会だと言う人もいます。
しかし、誰もが表現できる社会であるということはすなわち誰もが表現できてしまう社会と換言することが可能です。そして、出会うはずがなかった人がつながれる社会ということは、出会うべきではなかった人々をひきあわせてしまう社会であるとも言えます。そうした社会において、出会ってしまった「敵」を攻撃したい、貶めたいという悪意がその他の感情よりも優位になるのはそれほどおかしな話ではないでしょう。

2つ目は「反発」です。これは1つ目の「悪意」とも重なりますが、例えば政治的になにかしら対立があった時、自分のフォロワーに対して「反発への共感」を求めるために、つまり、一緒になって攻撃しようという意志表示のために、人はリツイートボタンを押します。ぼくが好きなクリエイター、失礼、エロゲライターに田中ロミオという人がいますが、「最果てのイマ」という作品の中で彼はこう書いています。


高度に複雑化し、正義というものが無意味化された諸思想の混沌においては、人間の互いに対する許容量の欠如が大きな問題となって立ち現れる。問題は解決しない。希望との距離は縮まらない。ネットをもってしても、である

けだし至言だと思います。

そして3つ目は「共感」です。そのツイートの文章の中に、自分の境遇や体験との一致点を見いだし、一時的に連帯感に似た感情を得ることのことです。勿論、人間はそれぞれ別々の人間ですから、深い意味でわかりあうことなど不可能です。例えば、「虫歯で歯が痛い」といった感覚を、同じように歯医者に来院している人と正確に共有することは不可能です。虫歯の進行度やその人が持つ痛みへの耐性などによってひとりひとりが感じている痛みは異なるからです。しかし、個人がもつ過去の経験から類推して「歯が痛い」という感覚に共感することはできます。そして、私たち人間は、この共感をせずにはいられない生物なのでしょう。だから開発者はSNSをつくり、人々はそれを利用するのです。決してわかりあえない他者とそれでもわかりあおうとするために。しばしばその試みは、上の2つの感情によって失敗するのですが。

前置きが長くなりました。今回、ぼく自身は、自分のツイートが拡散された理由として、この3つの理由のうち、「共感」によるものが多かったのではないかと推測しています。勿論、すべてのリツイートをチェックしているわけではないので(というよりも殆どチェックしていませんが)、なかには悪意に満ちた反応もあったかもしれませんが、当該のツイートにぶら下がっているリプライを読むかぎりでは、「自分も似たような経験をした」や「今まさに会社でそのような選択を強要されてる」といった「共感」によるものが殆どだったからです。

だからどうしたという話でもあるのですが、コンテンツ力のない自分では、今後、ツイートがここまで拡散されることはないでしょうし、これも何かの切っ掛けということで三月に初めて以来、ほったらかしにしていたnoteを使ってリプライにぶら下がっているツイートの返信の代わりとしようと思ったわけです。ここまで読んだ人は最後まで読んでね。

自由な「決断」は可能か

冒頭ですでに述べた通り、新世紀エヴァンゲリオンは、多くの人の心を掴んではなさない人気作品ですが、ゼロ年代後半から劇場で公開されているシリーズ、新劇のほうからエヴァを知ったという人の中には90年代のテレビ放送版をみたこともないという人も多いのではないでしょうか。私はリアルタイムの世代ではありませんが、オタクなら名作はマストで視聴しておくべきだという妙な義務感もあって高校のころにツタヤかどこかで借りて一気見しました。

そしてこの作品が、90年代当時の若者の間でメガヒットになった理由を知りました。多様な言葉で語られるこの作品が「迷いと決断」をテーマにした作品でもあったからです。バブル時代が終焉を迎えた90年代は、阪神・淡路大震災があったり、オウム真理教による地下鉄サリン事件があったりと何かと落ち着かない時代でした。しかし、そんな中でも少年は成長し、やがて社会にでることを「決断」しなければなりません。そうしたぼんやりとした不透明な未来像から心理的に不安定になった少年たちは、突然大人社会に放りこまれたエヴァンゲリオンのシンジ君が迷い、そして「決断」する姿に共感したのでしょう。

そしてシンジ君の姿に共感するのは、当時の若者だけではありません。令和の時代になっても尚、若者が大人達から「決断」を迫られることは変わらないですし、昨今のコロナ騒ぎによってますます先行きの見えない社会になっていくことは間違いありません。

そんな中、自宅で自粛している折にYoutubeでいま無料公開されている新世紀エヴァンゲリオンの新劇をみて何かしら感じることがあってツイッター内検索をかけてぼくのツイートにたどりついたという人も多かったと思います。

ところでぼくは先ほどから「決断」、「決断」と意図してこの単語にカギ括弧を付けて書いていますが、これを読んでいるみなさんは人生でいくつの決断をしてきたのでしょうか。進学、就職……と人生には無数に決断が迫られるタイミングがあると思いますが、なにも人生の転換点についてばかりでなくてもこれを読んでいるということは、今、この瞬間にあなたは生きるということを「決断」し続けているということもできるわけです。

今、「それは詭弁だ」と思った方は多かったのではないでしょうか。その通りです。「生きる」ということを選択し続けているなどと言われても、そんなに強い意志をもって生きている人ばかりではないですし、もしかしたら今この瞬間に消えてしまいたいと思っている人もいるかもしれない中で消極的に選んでいる「生きる」と言う選択に「決断」という言葉をあてるのはふさわしくないような気もします。

しかし、それではそもそも「決断」とは何なのでしょうか。いや、そもそもぼくたちは本当に「決断」することが可能なのでしょうか。

あの短いツイートからも読み取れることかと思いますが、ぼくは幼少期にやらされていた「空手」という習い事が苦手でした。そのために毎週の土日をつぶしてしまうことも嫌でしたが、そもそも人を殴ったり蹴ったりすることに興味がなかったので、格闘技そのものにあまり関心をもっていませんでした。

それだけではなく、道場では練習の前に道場訓を大声で読み上げなければならないという決まりがあり、こうした体育会系の雰囲気もぼくはかなり苦手でした。

なのになぜ空手を習い始めたかというと、祖父の意向によるものでした。若い頃はそれなりに空手の大会などで優勝した経験もあるらしい祖父は「男は喧嘩が強ければ皆が一目置いてくれる。頭がよくても誰にも相手にされなければ正しいことも通らない」とよく言っていました。似たような言葉は牛と闘って勝ったという伝説がある大山倍達も残していますし、空手の練習に励むと誰もがパスカルと同じ結論に至るのかもしれません。

だから祖父はぼくに空手をやって欲しかったそうです。リプライなどをみてると同じように親や親類に習い事を指示されて期待通りに功績をあげた人もいれば、その経験がトラウマのようになっている人もいるようでした。

因みにぼく自身は特にそれがトラウマになったわけでもなく、それによって人生が豊かになったわけでもありませんでした。第二次性徴がくるころには半ば無理矢理とはいえ空手をやめることができましたし、つい「フラバ」という強い言葉を使ってしまいましたが、エヴァをみて「こういうこともあったなあ」と思い出した程度で今となっては殆ど忘れていたことです。

勿論、「練習に行きたくない」というと途端に不機嫌になり、せっせと準備をしていると機嫌が良くなる祖父はオペラント条件づけで言うところの強化や弱化を行っていたつもりかもしれませんし、二回目に「練習に行きたくない」といったときには「お前がやると決めたことだろ。言葉には責任を持て」とまるでミサトさんのようなことをいわれたのは事実なのですが。

ただ、リプライツリーにもあるようにいくつになってもこういうことは大なり小なりあるものだとおもいます。
自分よりも上の立場の人間の指示をきっかけに何かを選択する。そしてそれを決断することによって生じた結果の責任を取らされる。まさにエヴァンゲリオンのシンジ君です。
しかし、こうしたことから完全に自由になれる人間はいないでしょう。だとしたらぼくたちは人生のなかでどれだけ多くの「決断」を「自由」に行うことが可能なのでしょうか。

今回のツイートが拡散されて届いたリプライを読みながら改めてそう思いました。
もしかしたらぼくたちは自分でおもっているほど多くのことを決断できるわけではないのかもしれません。
ただ、だからこそぼくは、自分の決断でしたと言えるものをつくっていきたいなと思っています。

例えば、誰に指示されて書いているものでもない長文をインターネットにあげることによって。

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