描く事と鋳造は似ている

 知識として知っているのは日本刀の作り方なので、日本刀を例に出す。
 日本刀は材料を集めて、熱して、混ぜて、叩いて不純物を出す。不純物を取り除いて最後に残ったものが刀になる。何回も熱して叩いて折り畳んで熱して。何回もやる。
 描く事も根本的には同じだ。自分の描いたものを見る。実際の理屈と比べる。どこかで違和感に気付く。違和感を覚えた部分が不純物だ。理屈を覚えながら何回も描く。不純物を取り除いて何度も描いて洗練していく。
 「崩れた絵」と「崩した絵」は違う。崩れた絵には不純物が多い。他人が見たら違和感を覚える。一般的に下手と言われる絵のことだ。でも絵描きはその不純物ごと己の絵を愛している事もあり、他人に言われるとカチンとくる。正直気持ちはわかる。そのいびつな形ごとその時のその絵描きの表現力だからだ。己の全部だからだ。そして不純物を取り除くのを嫌がる絵描きは、変化を嫌がる人たちは開口一番こうだ。「私の絵はこれでいい。これが個性だ」
 それは違うと思う。それは崩れた絵であって、上手い人の、不純物を取り除いてなおかつ自由に形を変えた「崩した」絵と純度が違う。貴方はもっと純度の高い、さらなる先に行けるのにそれを自分の気持ちと他人の言葉で阻んでいる。阻まれている。とてももったいない。そう思う人が今まで何人もいた。
 純度を高めるのはいいことだ。でも純度を優先してしまい、己の「良い」感覚を置いてきてしまう人もいる。他人から見た「良い」を優先してしまう。それもいけない。どうして? そりゃ、その人の核のない、芯のない表現は人の心に響かないから。
 芸術は難しい。純度も良さもどちらも持っていなければならない。大事なのはその人の中でのバランスで、その人の中にしか正解がない。そしてみんなが正解を見つけられるとは限らない。
 古今東西、人類が生まれてから今まで表現は常に在った。何万年経ってもきっと表現に正解はない。ないからこそ多分みんな作るんだと思う。自分の中の「良さ」とその良さに気付いてくれた人たちが、もしくは違和感を抱く人いてようやく表現になる。
 もう交流を絶ってしまった人にこんな人がいた。「私は世界に一人だけになっても絵を描くし、それで良い。それで楽しい」私はそれは違うなと思った。見てくれる人がいないとその表現はきっと完成しない。いつまでも未完になるんじゃないかと思う。
 私なら、例えば無人島で一人でずっといて絵を描いて、何か作って、可能なら海へ流す。誰かに届けば良いと思う。受取り手のいない独り善がりの表現なんて虚しいだけだ。作るスピードは一方的だけど、誰か一人でも受け取ってくれる人がいなかったらそれはなかった事と同じだと思う。本質的には無かったことにならないだろうけど、無いも同然だと感じる。
 一人と独りは違う。人間はやっぱりどうしても独りにはなれない。そう言う構造だから。社会性によって増えた生物が人間だから、独りにはなれない。
 ただ放流するだけで良いと思っている人たちはきっと、孤立を知らないのだ。孤立は孤独とは違う。受取り手のなさを知った時、人がどこにもいないと知った時どれだけ気が狂うのか彼らは知らない。(ここまで読んでいる人はじゃあお前は知ってるのか? と疑問に思うだろう。素直に言うと、少し知っている)
 私の作品はまだ歪だ。自分の「良い」感覚には程遠いものを作っている。昔に比べたらそれなりには近付いたけど、まだ遠い。これからも理想はきっと遠のく。遠のいて近付いてを繰り返すのだろう。繰り返したいのだ。これからも。
 不純物を取り除きながら私は「良い」と見つめ合うと思う。私の「良い」と貴方の「良い」がもしどこかで出会ったら私は嬉しい。私の「良い」が貴方の「悪い」だと悲しいけど、無いよりはいい。

 読んでくれてありがとう。

#日記 #エッセイ

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