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習慣化の先にあるものって何?の話。

ここのところ、note を書く時間が取れていません。それどころか、読む時間もそこまで割けないで居ます。

理由は明確で、その行動が単に「習慣」から外れてしまっているからです。

今までの生活リズムの中では、私にとって note を読み書きする時間というのは、それなりに自動で組み込まれているものでした。

家で仕事をしており、デスクの上に、会社用PCと私用のPCを2台置いていたのです。しかも、Bluetooth のマウスとキーボードによってその2台のPC間をすることは簡単です。

ですから、仕事の休憩時間に、さっと私用PCに切り替えて note のサイトを開いてキーボードでドドドドッと打ち込んで記事を仕上げたり、フォローさせていただいている方の記事をじっくり読むことができていたわけです。

ですが、ここ最近は、出社の比率も増えてきておりますし、会社用PCと私用のPCのマウスとキーボードを分けて使うようにもなりました。会社に持ち運びしやすいようにするためです。

それによって、2つのPCの行き来もしにくくなり、次第に note に割く時間が減ってきたのです。

このことで強く感じたのは、習慣化とか仕組化というのは、それが一旦出来上がってしまうと人間が抗うことはなかなか難しいということです。

もちろん、習慣とは関係なく意思だけで何か思い立って行動をすることは不可能ではないです。不可能ではないですけど、そういった一度できてしまった「習慣」つまり自動化プロセスを少し調整するような、言わばイレギュラーなことをしようと思うと、結構負荷が高いんですよね。

以前は Bluetooth 接続のおかげでPC間の行ったり来たりはラクだったわけですけど、今では、別のPCにキーボードを付け替えて、マウスもつけ直して、PCを自分の目の前に置き直して・・みたいなことをしないといけないわけです。

正直それって「めんどくさい」んです。私は怠け者なので、面倒なことはできればやりたくない。

つまり、簡単に言ってしまえば、そうやって日常生活の習慣や仕組みを変えたことで、note を読み書きするハードルがグンと上がってしまったというわけです。ハードルが上がるとめんどうくさいのでやりたくないというわけです。

ただ、逆に考えると、私のような面倒くさがりにとってはこれは使えるなと思いました。

ひとたび習慣化や仕組み化してしまえば、それを「やらない」というほうが面倒くさくなるわけです。「やり続けること」のほうが何も考えなくて良いのでそもそもラクなので。

今、私は語学とか筋トレとかを継続してやっているのですが、あとは他にも未知の領域の勉強にも手を出そうとしています。これは「続けよう」と思うと非常に面倒くさいんですけど、一度サイクルができてしまうと、もう「やらない」ほうが気持ちが悪くて仕方がない。

たとえるなら脂っこい食事をとった後に歯磨きをしないとか、夏の暑い日に外を歩き回って汗ベトベトになったにもかかわらずシャワーを浴びないとか、そういう「やらない気持ち悪さ」があるわけです。

そしてもう一つ、面倒くさがりでありながら飽き性でもある私は、たとえ習慣のサイクルができたとしてもいつそれに飽きてしまうか分かりません。そこでモチベーション維持のために何か策を講じる必要があります。

すぐに考えつくのは、何か勉強するとか鍛えるとかであれば、何かしらの理念だとか目標だとかそういったものがあるほうがモチベーション維持には有効だとは思います。

ですが、私にとって今継続している語学だとか筋トレだとかそういったものにゴールは無いです。つまり期待していない。報われると思っていない。何か目的があるわけでもないです。

じゃあ何でそんなことをやるんだ、と。

それは、やっているのが楽しいから。そうやって何かに興じている自分が気持ち良いから。それだけです。

そりゃ、外国語ペラペラになったらカッコ良いし、ムキムキの身体になったら素敵だとも思いますよ。

でも、それを目指さない。私は元来怠け者で、面倒くさがりで、意志薄弱で、そして何より飽き性です。

つまり、上手くいかなくてすぐに嫌になります。堪え性が無いのです。そんな私が何かデカイ風呂敷を広げて物事に取り組んだところで、いつかキツくなったら適当に辞める言い訳を見つけて放り出してしまうことでしょう。やる必要が無い。やっても意味無い。そうやって諦めるのです。

ですから、何か走るにあたってエサとなるニンジンをぶらさげるだけではダメなのです。ニンジンが欲しいから走るのではなくて、走ることそのものに楽しみを見出さないと、私は続かない。40年近く生きてきて、ようやくそのことに気付きました。

だから「これだけ走ったら美味しいニンジンにありつける」とか「走れば走るだけ速くなったり足が鍛えられるぞ」とか、そういうのは私にとってすべて「邪念」でしかないです。ただただその作業を「快楽」と見なしたうえで、その快楽を満たすために行動するだけです。

ある意味それは不純な動機です。だって、目的が無くて手段のためにアクションを起こしているわけですから。もう自己満足。マスターベーションです。もはや。

ですけど、そういう「楽しみ」を習慣化にすると、もうやめられないわけです。

ハードルを極限まで低くして、さらに敢えて目的を設定せずに手段を楽しむ。これがポイントです。面倒くさがりの飽き性の人にはオススメです。

まあ成果が出るかというと分かりませんけど。というか、成果を求めないので多分成果なんて出ないんじゃないかと思います。どちらかというと、好きこそ物の上手なれではなく下手の横好きですよね。

さて、話は戻りますが、こういう習慣化や仕組化は、日常の中に組み込むのに最初は苦労しますけど、それが慣れちゃえばラクです。思考停止状態でそれを行うことができますから。

というわけで、note に関してはその反対で、残念ながら私にとっては習慣のサイクルから外れてしまいました。なので、これからも更新頻度は下がっていくことでしょう・・。とか言いながらもう2500字くらいは一気に書いてしまったので、書くことは嫌いではないのかもしれません。ただなぁ、好きだけどかなり時間使うのでちょっと勿体無いんだよなぁ。着地点フワフワしててよく分からない話ですみません。いつものことか。おしまい。

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