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中野くん、サンプラザはもう消えたよ

のぼせ上がっている頭を冷ますために走る。いまできることは何もないと心身にわからせるために一歩ずつ踏みしめる。ランニングは趣味じゃない。だけど、なぜか縁があって市民マラソン大会に4度も参加した。今年も走ったし、来年も(可能なら)走ってみたいと思っている。今年は沿道の応援で爆風スランプの「Runner」を歌っている方がいて、感動しすぎて泣きながら走った。「ランナー」で泣くなんて思ってもいなかった。

あたまのなかのおしゃべりが辛くなってきたとき、走りつづけることで、余計なことばが汗や呼吸になって風のなかへ消えていく。ことばがことばの佇まいを取り戻していくように感じる。ゴチャゴチャとわたしを圧迫するものではなく、軽やかで、素朴で、詩のようなリズムで、わたしの身体を喜ばせてくれるものに変わる。――「木きれい」「足痛い」「いい感じのペース」「あ、鳥」「風つよ」「緑まぶしい」「コンクリートにさくらの花びら」

クリント・イーストウッドの『ハドソン川の奇跡』という映画があって、トム・ハンクス演じる主人公のパイロットが夜中に一人で大都会をランニングする場面がある。ひたすら走るだけ。不時着で乗客の命を脅かした責任を問われる裁判プロセスの一場面として挿入される。追いつめられる主人公。訴えられて言われるがまま。打つ手が思い浮かばない。とりあえず走りこむ。映画全体を通じてなぜか印象に残っていて、まさか近い将来じぶんもそんな感じになるとは想像だにしなかった。

さすがに裁判で追い込まれるほどではないけれど、だけど、それなりに似たようなことはいろいろあるわけです(急に敬語)。仕事でなくても、生きていくことは、いろいろなことに追い込まれる連続みたいに感じる。大元をたどれば「死」が迫っているということかもしれない。もう二度と会えないかもしれないとか、もう二度とこのような時間はないかもしれないとか、いろいろ考えすぎて追い詰められていく。考えたところで、しかたがないのに。

かげりのない少年の
季節はすぎさってく
風はいつも強く吹いている

走る走る 俺たち
流れる汗もそのままに
いつかたどり着いたら
君にうちあけられるだろ

爆風スランプ「Runner」より

マラソン帰りの新幹線。あらためてスマホで「ランナー」を聴き直したら、それほどでもなかった。イヤホンから流れてくる「ランナー」はまったくちがう歌に聞こえた。あのとき、わたしの身体は雨にさらされて、足もヒザも限界を超えていた。もう今年はゴールできないとあきらめかけていた。あたまのなかは、そんな言葉でいっぱいだった。

だけど、わたしの身体はちがった。ふいに足が前に動きはじめて、感覚がもどりつつあった。もうダメだと思っていたのに「まだ行ける」と足が訴えてきた。わたしの身体はあきらめていなかった。ごめん、ありがとう。だれがだれに言っているのか分からないけど、涙がでるほどうれしかった。

沿道の雨のなか、特設ステージの上でサンプラザ中野くんのコスプレをした人がランナーを歌っていた。何十年前の曲だろう。ちゃんと聴いたことなんて一度もなかったのに、なんでこんなに泣けてくるんだろう。

平均時速100キロで移動しながらスマホをいじりつづけて「ランナー」の誕生秘話を読んだ。ますます感動とは関係なかった。歌ってそういうものなんだなぁと思った。

以下は、わたしからのアンサーソングです。あまりにも感動したので、詩ができあがりました。ご笑覧ください。

中野くんよ、たどり着いたのか
中野くん、サンプラザはもう消えたよ

いつかの話、いつかの歌、いつかのケンカ、いつかの友情、いつかの栄光
打ち明けられたのか、あの日の秘密を

時間が経つことは距離が生まれること
遠くからなら、もう聞こえないから、安心しなよ

声をふりしぼっても
わたしにも聞こえない
あなたにも聞こえない

耳を澄ませて わたしだったなにかの言葉たちが
なつかしく、かなしく響く、その日がきたら
どんな風が吹いてるだろう

わたしは笑っているのだろうか
遠くまで来られたことに
あなたから離れてここまでやってきたことに

何もかも忘れて、この手の中にある温かな水を口に運ぼう

やさしい言葉が、溶け出した時間からしたたり落ちていく
わたしのたいせつな記憶と、苦い思い出とともに

すくっては口に運び、ゆすぎ、吐き出し、忘れよう

中野くん、たどり着いたのかい



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