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異言語は異世界

先日、ひょんなことから日本語を勉強している異国の方たちによる日本語スピーチ大会を見学する機会をいただいた。退屈しちゃうかなと思ったら大間違いだった。刺激を受けた。
思えばこうしたイベントに参加したのははじめてだった。昔、趣味はスキューバ・ダイビングという人が「海のなかはふつうに異世界」と語っていたが、それにならえば異言語はふつうに異世界だと思った。

異世界を経験することは非日常を体験することだ。じぶんが何者なのか、わからなくなる感覚。世界の輪廓がゆらいで、それなのに物事がより鮮明に感じられる瞬間。そこでわたしたちは、心の奥底に隠れている、じぶんじゃない自分(だれか)を発見する。世界の根っこに触れる。もちろん、そんな時間は長く続かない。わたしたちは日常に帰還する。だけど、そのとき、ふだんの景色も以前とは異なって見えてくる。――

てっとり早く異世界を経験するなら海外に行くことだろう。異なる言語、異なる文化、すべてが日常とかけ離れている。外国の環境に身を置くことは、異世界体験にほかならない。だけど一般的に海外にしょっちゅう出かけることは難しい。異世界は遠いのだ。コロナ以降はとくにそんな印象をもつ。
スキューバ・ダイビングもなかなかハードルが高い。トレーニングや免許が必須だろう。金と時間かかりそうだ、あと体力も。よくしらんけど。

だが、それにくらべて異言語を学ぶこと、異言語を話すことはどうか。海外渡航やスキューバよりもたいぶ取り組みやすいんじゃなかろうか。

大会では15人くらいのスピーチを連続で聞いた。会場と現地(オンライン)から交互に発表があった。会場でのスピーチは、すでに日本に留学している人や会社勤めの人たちだった。一方、現地からZoomで発表した人たちは一度も日本に来たことがないようだった。
流暢な発音の人にはもちろん感心した。しかし、しどろもどろでムチャクチャな日本語をまくしたてるオンラインの小さな画面の姿にもっと感動した。聞こえてくるのは日本語なのに何を言っているのかわからなかった。ショックを受けた。霊感を与えられた。みんな必死に伝えようとしている。日本語の魅力にとり憑かれている、というよりも、異言語を話すという経験自体に魅せられているのだろう。なぜなのか。それは異言語が異世界体験にほかならないからだと思った。

はっとした。じぶんをふり返ってしまった。義務教育や受験勉強で触れてきた英語(あるいは第二外国語)に対し、こんなふうにトランス状態になったことはあっただろうか。――ない!!
そもそも異言語を学ぶことが強烈な異世界体験の一つだということを理解してなかった。「まぁ世間的にやれといわれるし、やっとくか~」みたいなテンションだった。はっきりいえば退屈な日常の一部だった。なんと鈍い感性だろうか!

異言語学習がなぜ異世界体験といえるのか。こんなふうに説明できるかもしれない。海外にいくこと、あるいは(スキューバ・ダイビングのように)美しい景色やむき出しの自然に触れにいくことは、じぶんの身体を非日常な環境に置く行為である。たいして、異言語を学ぶことは、非日常な環境をじぶんの内面世界に創り出す行為だ。
異世界体験の本質は、内面から湧き上がってくる異世界感覚にほかならない。ふつうその発生の順序は「外→内」だろう。だが異言語学習はそこを「内→内」でアプローチする。
もちろん、異言語を学ぶ上では、異言語の環境をできるだけ身体の外につくることが重要になる。しかし「だったらさっさと語学留学にいきなさいよ」という結論になるだろう。そうではなく、むしろ異言語学習の心髄は異言語環境に直接身を置くことにあるのではなく、異国に行かずにどこまでトランス(変化)できるかというチャレンジにこそあるのではないか。そして、異国に直接飛び込めなくても、異言語はすさまじいパワーをその学習者たちに与えてくれる。それを日本語スピーチ大会でまざまざと感じた。

わたしも外国語を勉強したいと思った。まずは英語だろうか。デタラメでもいいから、とにかく外国語をまくし立てていきたいと思った。

異世界に触れるため、そして、わたしと世界をもっと実感するために。

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