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まじめさが狂気をなぐさめる

ビチクソ感想文:映画『シン・仮面ライダー』

初日の夜に見に行った。まさか泣くとは思わなかった。

わたしなりにあらすじを書くとこうなる。

まず狂気の博士がいる。無差別殺人事件で妻をなくし、世の中から悲しみを消し去りたくてショッカーというあやしい組織に入る。ショッカーはなんだか知らないが人類の科学を大きく超えた技術をもっている。一人息子のイチローも自動的にショッカーの一員になり、なんやかんやあって、父親から手術を施されて、オーグメント(怪人)になってしまう。さらに狂気の父親はクローン技術で娘ルリ子をつくる。ルリ子もふつうの人間ではなく、スーパーコンピューターを超える計算機能が備わったサイボーグのような存在である。

と、ここまでの話はじつは映画で明示的に描かれない。前日譚のマンガを読んだり、本編をみてから想像すると、なんとなくわかってくるお話である。この時点でついてこれない人もいるかもしれないが問題ない。ようは「仮面ライダーがみんなのためにがんばる話」である。あらすじをつづける。

どうやら映画が描いている時点ではショッカーは分裂してしまっている。それぞれのオーグメント(怪人)が独自のプロジェクトを進めている。そんなショッカーの残党の一部、上述のイチロー勢力からルリ子は脱出を図る。組織を裏切るかたちだ。その目的は兄イチローの父親ゆずりの狂った計画を止めるためだと後々わかる。そして、組織にいた改造バッタ人間こと本郷猛を連れ出してバイクで逃走する。映画の冒頭はショッカーの追走をなんとかふりきる場面からはじまる。カッコいい。

なんとか逃げ切り、ルリ子と本郷は森の奥の隠れ家ですべての元凶である(といってもいいと思うが)狂気の博士・緑川博士と合流する。どうやら彼は正気を取り戻しているらしく(何があったんや)、息子イチローの計画を阻止するため、そしてみずから作り出したキケンなオーグメントたちを葬るため、本郷猛にそのしごとを託す。なんと身勝手な野郎だ。

本郷からしたら、気がついたら改造され、いつのまにやら洗脳され、そして洗脳を解かれ、いきなり逃走劇にまきこまれ、あげくの果てにルリ子に協力して世界を救えという任務を押し付けられ、はなはだ迷惑である。というか、一発殴ったほうがよいのではないか。

だが、洗脳を解かれた本郷猛はその本来の性格のよさを発揮する。すごくいいやつなのだ。ここにしびれた。クソがつくほどのお人好しのまじめ人間、それが本郷猛である。ここではまだその片鱗がみえる程度だが、彼の性格や態度がこの映画の大きなメッセージにつながっていく。

「あのとき、じぶんにチカラがあれば、あんなことは起こらなかったのに」――それが彼の悲しい記憶に刻みこまれた気持ちである。せつない。その性格と悲しい過去を織り込み済みで彼を怪物に仕立てた緑川博士はほんとうに人非人だ。

そうして、なんやかんやあって、ルリ子と本郷は日本政府と連携しながらショッカーの残党狩りをはじめる。ラスボスは兄イチローである。彼は「世の中からすべての悲しみを消すために人類の魂を吸い取って別次元に飛ばす」という意味不明な計画を実行しようとしている。しかし、鍛えられし庵野ファンからしたら「ふむふむ」と納得してしまうだろう。わたしもそのクチだ。「ふむ~」と唸ってしまった。ふむ~シン・ウルトラマンのゾフィーの狂気よりも共感できますね~ふむ~(早口)

みんなショッカーや緑川博士の被害者である。悲しみと狂気が連鎖して、次の悲しみを生む。本郷猛は仮面ライダーになって愚直にルリ子を守りつづける。かつてのじぶんにはないチカラがいまのじぶんにはあるからだ。

しかし暴力は暴力である。じぶんにだれかの生命を奪う権利なんてあるのか。本郷は苦悩する。そして、こうなってしまったじぶんの運命を受け入れ、彼自身が納得する道を探ろうとする。

はたして、彼と彼女に待つ結末とは。――

ここからは好きに感想を書く(もうだいぶ書いてる)。

冒頭のくりかえしだが、まさか「シン・仮面ライダー」で泣くとは思わなかった。主人公・本郷猛のやさしさとまじめさが絶望する人間たちの心を溶かしていく。そして本郷の生きざまにふれた人々が彼のしごとを継承していく。このパターンは好きである。

そもそもわたしは本郷猛のような人間によわい。まじめでやさしくて献身的な人が大好きだ。あこがれている。彼のような人間がいるから、この世界は生きていく価値があると思える。こういう人たちに出会ったら、わたしたちは大切にしなければいけない。心底そう思っている。池松壮亮の役の解釈はすばらしかった。

ポスターに銘打たれていたから「継承」がテーマというのは知っていたが、それは特撮文化に限定されるせまい話のことだと思っていた。が、そうではなかった。もっと大きく、人類の営みとしての「継承」について考えてしまった。

人間はやがて死んでいき、次の人たちになにかを託して去っていく。英語でいえば「ペイ・フォワード」。生命のしくみはそのようにできている。生物学的な遺伝子だけではなく「ミーム」も受け継がれていく。画像、映像、音、文字だけではもちろんない。物質的な媒体をきっかけに言語にならない記憶がその人のからだ全体に展開していく。過去と現在が入り混じった感情が何度もこころのなかに浸潤する。「魂」や「精神」が伝わっていく。継承とはそういうものだろう。

ときに緑川博士のようにサイアクなものを渡してくるものもいる。もしくは、考えたくないが、じぶんが緑川博士のようになってしまうかもしれない。だが、そんなとき、わたしたちは本郷猛のような存在に勇気と慰めを得る。

彼のような人間たちが、わたしたちを前に進ませてくれる。

わたしもいつのまにか受け取っていた。気がついたら、それを抱えていた。まぁそのまま抱えて死んでいくのもひとつの人生かもしれないが、古代からの「贈与」のしきたりに従えば、だれかから受け取ったならば、だれかに渡すのが筋なのだ。できるだけ気前よく、できるだけ立派なものを。そうやって世界は回っていく。流れを止めてはいけない。

漠然としているが、そういうことをわたしも意識していこうと思った。たぶん、この映画を見た意味があるとするなら、それだ。

ぶっ刺さりました。

あと1回くらい見てもいいなと思います(エヴァは7回見たけど)。


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