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ひとが変わるとき

ビチクソ感想文:映画「生きる LIVING」

人が変わるとき、その人自身は変わったと自覚しているだろうか。していないと思う。自然とそうなってしまったのだから「変わった」なんて自覚するのは、だいぶ時間が経って自伝でも書きはじめたときだろう(自伝を書く人がどれくらいいるのかしらんが)。だから「変わった」と感じるのは、もっぱら周りの人間たちなのだ。

そもそも「あいつは変わった」なんて上から目線で他人を批評するのはどうなんだ? 「おまえだって変わったよ」といわれて「そうじゃない」といえる人間なんて滅多にいない。だけど理屈や道徳はしばらく措こう。わたしはわたしのやりきれなさを率直に書くべきだし、ここはそういう場所として書いている。

――しばらく見なかったうちにアイツは変わってしまった。ひさしぶりに会ってみたら、かつての輝きを失い、不機嫌でつまらない人間になってしまっていた。じぶんに他人を判断する資格なんてない。悲しくなってくる。怒りのような感情もわいてくる。そして反省がはじまる。人付き合いを見直すべきだと思いはじめる。笑ってしまう。気にし過ぎだろうか。そうして、ふと、わたし自身が変わってしまったのだと気がつく。

思い出を否定することはない。人生の目的があの人とは変わってしまっただけなのだ。みんなそれぞれの時間を生きている。同時代に生きているなんて大ウソだ。場所は共有しているが、わたしたちはそれぞれ異なる時間を旅している。タイムマシンは必要ない。わたしたちは日々ふつうに「時間」を超えてコミュニケーションしている。

もちろん、逆もある。しばらく見ないうちに「え!?」と目をみはるくらい立派になっている人がいる。笑っちゃうくらいチャレンジしつづけて爽やかな笑みを絶やさない人がいる。そんな「変化」を目撃したとき、やりきれなさはまったく感じない。むしろ嬉しくなる。じぶんのなかの創造性が刺激されるようで、いてもたってもいられなくなる。

『生きる LIVING』は、そんな「変化」の感動に満ちた映画だ。

あらすじはこうだ。前半だけ紹介する。
主人公のウィリアムズは役所の市民課の課長だ。日々、市民からの大量の陳情をたらい周しにして、ファイルの山に埋もれさせていく(それでいいんかい!)。いわゆるブルシット・ジョブをスマートにこなす英国紳士だ。仕事になんの誇りもやりがいも感じない。職場は退屈極まりないが平和でもある。まぁこれも現代社会における労働のイチ側面にちがいない。

最近、課には若い職員も増えて、彼ら彼女らの目はまだ淀んでいない。仕事への期待、人生への夢に燃えている。ウィリアムズは見てみぬふりをする。そして今日も定刻通りに仕事場に来ては時間通りに帰っていく。それくらいしか守るものがないからなのかもしれない。

だが、ある日、ウィリアムズは病院からがんの宣告を受ける。残された時間は半年ほどだ。彼はショックを受ける。同居する家族にも話をすることができない。暗い部屋のなかで黙想するうちに亡くなった妻が笑いかけてくる。かわいかった息子が駆け寄ってくる。現実に立ち返ると目の前にはすでに彼ら自身の人生が始まってしまった息子夫婦がいる。打ち明けなければいけないのに、なぜかためらわれる。ウィリアムズは生きることに迷いはじめる。通勤するふりをして地方都市に出かける。食堂で出会った劇作家に連れられて、慣れない遊びにふける。バーでふるさとの歌を歌い涙ぐむ。ストリップ劇場で酔いが回ってテントの外で吐く。帽子をあたらしく買い直す。

そして、きょうも無断欠勤だ。職場から離れた駅でぶらぶらしていると、偶然にも、同じ課の若い女性職員に見つかってしまう。彼は思い切って食事に誘う。――

あらすじはここでやめる。ここからのウィリアムズの変化には心をわしづかみにされる。なにが彼を変えたのか。

わたしが一番感動したのは彼の告白だ。彼がほんとうは何に憧れていたのか、訥々と言葉にする。そして、そこから彼は変わる。

さいしょに書いた。「変わった」というのはあくまで周りの反応で、本人は気づいてないのだと。だがウィリアムズの場合は厳密にいうとそうじゃなかった。彼は明確に自覚した瞬間があった。そして、その自覚が彼をさらに前に進ませる。そのパワーが周囲の人たちに影響し、やがてスクリーンを超えて観客の胸を打つ。

情熱的になにかを創造しようと苦闘をはじめるとき、その人のいのちが輝きはじめる。やりきれなさだとか、腹立たしさだとか、そんなことを感じているヒマはない。

とっっっても いい映画でした!


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