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わたしの人生は「だれか」が見ている夢

ビチクソ感想文:『時間と自己』木村敏(中公新書)

とんでもなく面白かった。名著。時間ってなんだろうという疑問に自分そのものだよと答える本。まったく正しい。じゃあ人間にとってどんなふうに時間は感じられているのか。精神科医である著者は精神病患者たちの内面に潜り込んでいくことで、ヒントを見つけようとする。
分析の過程で著者が導入する概念が鮮烈だ。分裂病(統合失調症)、鬱病、躁病(あるいは癲癇)のそれぞれの時間感覚を「祭りの前」(アンテ・フェストゥム)、「祭りの後」(ポスト・フェストゥム)、「祭のさなか」(イントラ・フェストゥム)と表現して検討を進めていく。読んでいると、どの感覚にも身に覚えがあってドキドキする。こころの病に苦しんでいる人たちへの共感のとびらが開かれていくようだった。著者いわく、精神病は人間なら誰しも持っている感覚が極端に先鋭化してしまったものだという。

さいごのあとがきの文章がまたスゴかった。生きていくことの不可思議さを、これほどクリアに、みずみずしい言葉で書けるものだろうか。ここにすべてを引用して書き付けたいのだけど、やめておく。ビチクソ文章のなかに入れ込んでしまうのが忍びないので控えたい。… でも本当に最高の文章。引用したい!!(というわけで記事のタイトルに少しだけ引用した)

感動した。もう一周しようかな。

時間の感覚が極端になってしまうとき、なにが人間の精神に調和をもたらすのだろうか。私は身体がカギではないかと思った。
考えてもしかたないと区切りをつけるのはおのれの身体感覚をおいて他にない。あるいは言葉が言葉として機能しなくなったとき、私たちは黙って身体の声に耳をすませる以外にない。ふっと動くからだ。ごろんと横になってしまうからだ。急に走り出したくなるからだ。なにかをやらないといけないとき、なにかをやりたいと思ったとき、私たちは身体になじませるように行動する。ときに挫折しながら、それでもしつこく言い聞かせるように、おのれの身体を行動に慣れさせていく。言葉に身体を慣れさせるのではない。身体をつかって身体に慣れさせていく。

じぶんが変わっていくと言葉も変わっていく。私たちは過去に向かって理解し、未来に向かって生きる。これはキルケゴールのすてきな言葉。

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