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宇宙とかけまして生命と解く

ビチクソ感想文:『スターメイカー』オラフ・ステープルドン(ちくま文庫)

待望の文庫化。むちゃくちゃ読みたかった。以前、国書刊行会版を本屋の在庫一掃フェアで1冊だけ見かけて逡巡し、よし明日もあったら買おうと決意して、案の定次の日にはなくて悔しい思いをした。雪辱だった。すぐに手に入れて電車のなかで読みふけった。さっそく感想をはじめよう。

この世界はいったいなんなのか。宇宙もいつか終わるのか。終わるとして結局宇宙ってなんだったのか。そうやってすぐに意味を探ってしまう。あたまのいい人たちからは意味なんてないよといわれる。唯物的な世界がどこまでもあるだけで「そのこころは?」と聞かれてもオチなんてないよと。ある面ではそう言われてほっとするところもある。よかった、意味なんてないんだなと。個人の栄光も挫折も、人類の繁栄も絶滅も、あらゆる生命の希望も絶望も、ひとしく意味がないんだなと。ただ物質同士がぶつかったり、移動したり、ヒュンヒュンとんでったりして、こわれたりするだけなんだと。そんなふうに意識を研ぎ澄ましていくと、まるでじぶんが幽霊にでもなったみたいに感じる。あの世の目線から見てみれば、すべてはきっと美しくみえるのだろう。いわゆる観照というやつだ。観照がうまくいけば、世界は無意味だけど原理的に美しい。くりかえすが、それはなにか気持ちをほっとさせてくれるところがある。それは確かにそうなのだが。…

いやいやそうじゃない、わたしは幽霊ではなかった、今のところは。

本書でオラフ先生は尋常ではない想像力と観照力(そんなものがあるとして)を披露している。幽霊になって地球を飛び出し、宇宙に旅立ってしまう。過去も未来も超えていく。考えてみれば、わたしたちの意識、精神、こころ、魂、スピリットは、物質の制限を軽々と超えていくように思う。ぎょっとされたかもしれないが当たりまえのことで、想像の世界ではあらゆることが可能であり、自由である。わたしたちは有限の存在であるにもかかわらず、こころは無限のように感じてしまう。この無限のイメージを、どこまでも、たとえば宇宙の果てまで延ばしていくとどうなるか。時間の終わりまで引きのばしていくとどうなるか。そこでオラフ先生は「スターメイカー」に出会ったという。なんだ、そいつは。神なのか、いや神とはそもそもなんだっけ。

この本はSFではあるけれども、意識を無限に延長してみせようとする思考実験でもあり、宇宙の意味を問う形而上的な哲学でもある。じっさい読んでいる最中に、わたしが連想したのは、序文で紹介されていたバナールの『宇宙・肉体・悪魔』ではなく、『エネアデス』とかのギリシア・ローマ哲学の書物だった。ちなみにわたしは『宇宙・肉体・悪魔』は得意ではなく、本書もそんな感じのテイストだったら苦手だなぁと思っていたのだが、杞憂だった。本書は科学的な想像力の爆発というよりも、科学に対峙した結果、形而上学的な欲望が爆発したような小説だった。機械と融合を果たした超人類が永遠に生きる話ではなく、精神(本書では神霊)を限界まで探求する話だった。

本書を読んでわたしは自分がどうやら物心二元論者のようだと気がついてしまった。「ようだ」というのは論者というほど論じないからだが、だれかに「物心二元論者ですか」と聞かれたら「うん、そうだね」と答えるくらいには自覚が芽生えてしまった。そうか、だからマインドアップローディングとかのビジョンに積極的になれないんだなぁ。この小説の幻視のように、精神の自由を信じているからだとわかった。

世界観の話でいうと、オラフ先生のスターメイカーよりもプロティノス先生のヌースのほうがぶっ飛んでいるし、わたしの好みだが、それは解説で紹介されていたスタニスワフ・レムの本書への評価に近いのかもしれない。わかりやすくいえば、スターメイカーは形而上学的な面では食い足りないところがある。小説にたいしてそんな文句の付け方があるのかと自分でも呆れるが、おそらくレム先生も似たようなこと言ってるはず、と信じたい。…

だけど、物語としておもしろいのは、あたりまえだがオラフ先生のほうだ。奇妙な宇宙生命体がわんさか出てくるし、現代のSF小説では考えられないようなスピリチュアル全開の文体も格調高く、古典としての威風がある。

エピローグには胸がしめつけられる。目の前の現実と星々の長大な物語との落差にくらっときてしまう。いったいなにを読んでいたのだろう。わたしはこの地球でどう生きればいいのだろう。それでも、最後まで読めば、読者の胸に勇気とやさしさの火が灯る。それは銀河の星の瞬きよりも儚い光かもしれないが、私たちの生に意味を与えてくれる光なのだ。

文庫化してくれて感謝!

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