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命がけのかがやき

ビチクソ感想文2本。

『一九八四年』(ジョージ・オーウェル/ハヤカワepi文庫)
いわずとしれた古典。ずっと積ん読状態だった。読むきっかけはLex fridmanのポッドキャスト。英語で読むのは厳しいので、まずは日本語でと読み始めたら、第二部から異様なほど引き込まれた。はやく読めばよかったなぁと思う反面、このタイミングだったからこそ響いたのかもしれないなぁとも思った。さて、わたしにとってどんなタイミングだったかというと「人恋しさが募っていたタイミング」である。なんじゃそりゃ。説明する(いや別に説明しなくていいか…)。

第一部は、人々への統制が極限にまで高まったディストピア社会の丹念な描写がつづく。「二重思考」「思考警察」「二分間憎悪」など、いまや本書を読まずともどこかで聞いたことくらいはある気味のわるい概念たちが次々に登場する。「おーこれですね」という感じ。なかでも、いちばんおどろかされたのは「ニュースピーク」。しらなかった。巻末に長い注釈(「ニュースピークの諸原理」)があって、どういうつもりなのかと思った。この付録は一体いつの時点でだれが書いた設定なのか。第一部はさえない中年男ウィンストンの閉鎖的な日常がつづくので、けっこうダルいのだが、こうした独特な謎(長い注釈!)が加わって、ますますとっつきにくくなり、ブキミさがつのる。

だが、二部から変わる。ウィンストンとジュリアの命がけの逢瀬がはじまるからだ。息苦しさが極まった状況下での性愛描写にめまいがする。そうか、『1984』はこれが描きたかったのかと納得するどころか、ヘンに感情移入しすぎて胸が苦しくなるほどだった。読んでいるうちに彼らの青春(といってもいいと思うが)があまりにもまぶしく、うらやましくなった。
社会がいかにひどい状態でも、よろこびや愛はつくりだせるのかもしれない。性愛はそのスイッチの一つだ。現実の社会だって同じ。社会はいつだって窮屈で、人間を圧迫し、孤立させ、苦しめる。性愛が社会からのプレッシャーをはね返すきっかけになる。人間の可能性やゆたかさが性愛の裂け目からのぞいている。社会の息苦しさが増すほどにあやしく輝きだす。あまりに素朴でロマンティックすぎるだろうか。人恋しさが募っていたタイミングだったので、妙に感化されてしまった。

そして第三部。おどろいた。ほんとうに。暴力と拷問の執拗な描写に震撼した。すべてをすり潰していく圧倒的な力。わたしたちはなんて頼りなくて弱い生き物だろうか。あらゆる希望が叩きつぶされて本書は幕を閉じる。二部との落差にがくぜんとした。

『紛争地で「働く」私の生き方』(永井陽右 著/小学館)
たいへんな仕事をしているひとだ。命がけである。わたしたちはこのような人々に出会ったら大切にしなければいけない。著者はソマリアやイエメンなどでテロリストになってしまった若者の受入れと更生をすすめているNGOの創設者であり代表だ。紛争地のようす、そこに暮らす人々、峻厳な風景、危険地帯の移動方法など、簡潔で具体的な描写が読む者をひきつける。本書はそうした日本から遠く離れた異国のリアルなルポルタージュとしての価値がある一方、命がけの活動に身をささげる一人の人間としての率直なことばが読む者の胸をうつ。たとえば次のようなことばだ。

「好きでも得意でもないからこそ、やる」
「できるかどうかではなく、やるべきかどうかで行動する」

苦悩しながらも、歩みをとめない著者だからこそ、異様な迫力と説得力をもつことばだ。

話は変わるが(といっても私の中では変わってないのだが)、 さいきん、なんとなく手にとった自己啓発本の一節に「好きなこと、得意なこと、人の役に立つことの3つが重なるところに人間としてのよろこびがあって云々」という文章があって「そりゃそうだけどさ~」と暗い気持ちになっていたのだが、著者の「好きでも得意でもないからこそやるんだよ!」というメッセージにモヤモヤがふきとんだ。

生きていれば、多かれ少なかれ、これまで経験しなかったような、いろんな状況に直面する。ならば、こざかしいことを考えすぎず、動きながら、試行錯誤しながら、前へ進むしかない。「やるか、やらないか」だ。それによって傷つくこともあるだろうし、もしかしたらサイアク死んでしまうかもしれない。でも、やるべきだと思ったらやるしかない。ついてきてくれる仲間たちもいる。応援してくれる人たちもいる。そして、これからもそうした出会いがきっとある。

前著「共感という病」も感銘を受けたが、本書はさらに多くの人々の心に届くだろうと思った。


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