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何かを得るということは何かを失うことである

「何かを得るということは何かを失うことである」という相対性を忘却すると、何もかも手に入れたい、何一つ失いたくないとなって、結果的にゴミ屋敷のような世界の住人にならざるを得なくなってしまいます。

断捨離できない人には、脳的異常性が認められます。適当に、融通を利かせて、万事に執着しないという、この世を渡り切る「いい加減さ」が理解できていないか、思い込みが強すぎて、理解の枠が破壊されているのか。いずれにしても、脳に操られている精神(潜在意識)喪失者としか思えません。

例えば、「人間不信」と呟く人たちがおります。これも異常感覚者とみなされます。何かを得るということは何かを奪うということなのです。

好きな人と愛し合い、結婚した。しかし、その一方で、その人を好きだった、或いは愛していたという人は必ず存在します。そうであれば、結婚という祝福すべき事柄も、実は、誰かから、何かを奪ったという話になります。

このように考えてゆくと、平等思想、公平思想とは、所詮は「成り立ちえない美辞麗句である」ということになります。だから、共産主義思想は、いとも簡単に崩落し、「あれは成立し得ない平等思想」を餌にして、人を騙す悪魔の思想だということが簡単に露呈されてしまいます。

重要なことは、「この世は生物の世界である」ということを知ることです。如何に、偉そうな肩書をぶらさげていても、所詮は、「本能や感情、ホルモンに牛耳ぎゅうじられて生きている生物にすぎない」ということです。

ここを正しく理解できていれば、むやみやたらと人をリスペクトしたり、人をうらやんだりするような愚は犯さないでしょう。

例えば、10兆円の資産を築いている投資家ウォーレン・バフェット氏は「アドバイザーや格付け会社の助言には、まったく耳を貸さない。会計監査人の意見でさえ無視する」といいます。

世界の有能な人たちを集めた組織の見解など、何の役にも立たない。

そう断言する根拠は「集団の中から飛びぬけた投資実績は生まれてこない」からです。基本的に、民主的思考を否定しているということです。このことは、既に書いている、民主主義の腐った本性からも明らかです。

群れると誰であれ、衆愚の渦に呑み込まれ、衆愚の餌食えじきにされてしまう。これが弱者がマジョリティになっている世界の定めといえます。

日本でいえば、最高ランクの人材やそれ以上の人たちが群れる組織でさえ、実をいえば、「衆愚という粘土でこねあげた張り子の虎」にすぎない。大切なのは、「自分の考えだけ」なのです。

こうしたことは、日本がこれから向かう「ジョブ型雇用の世界」になれば、より顕著けんちょになるかもしれません。

ジョブ型雇用とは、「仕事に対して賃金を支払う」というシステムです。ジョブ型雇用は、「あらかじめ仕事の内容が決まっていて、それができる人材が採用され、賃金も最初から決まっている」というシステムで、ほとんどの国が採用しているシステムです。

これによって、「何年間か仕事に励めば、昇給する」という日本だけの正社員特殊型雇用は壊滅します。ジョブ型雇用では、仕事に対してお金が支払われますから、仕事が変わらなければ賃金も同じ水準が続くことになります。

より多くの賃金を求めるなら、新しいスキルを修得してステップアップすることが求められます。「学び続けなければ高賃金は期待できない」という、ある意味、公平なシステムです。

その結果、問答無用で、「働ける人=高賃金」「怠け者低スキル=低賃金」と色分けされるので、「あいつは無能なのに、ゴマすりが上手いから出世した」のような珍妙な屁理屈は封鎖されます。ちなみに、ゴマすりも立派なスキルです。

色眼鏡も綺麗ごとも一掃されるので、風通しのよい世界になるはずです。リッチとプアがより鮮明化され、生物色の強い世界になりますが、「この世とは生物の世界なのですよ」という「正しい認識」が高まれば、次のステップが期待できます。

再び、バフェットの話に戻すと、彼を批判する学者や金融の専門家に対して、彼はこう反論しています。「君達は優秀かもしれないが、じゃあ何で私が金持ちになったんだい?」。

それなのに、世間では、「あの人は○○大を出た優秀な人だ」などという。例えば、東大卒などという肩書は世界レベルでは通用しない。ましてや、「有名私大」などに至っては「何のおまじないですか?」というレベルにすぎない。

そもそも、大学などの肩書は完全雇用(メンバーシップ型雇用)を前提とした愚にもつかない肩書なので、これに揺れる世間とは、笑えるほど幼稚で発展性の乏しい世界といえます。

なので、「偉い人などは全くいない」と認識すべきなのです。偉くなったのは「環境」と「運」のおかげであって、個人的才能や能力といったものは後付け理論にすぎない。

ちなみに、「私が出世したのは運がよかったから」という人は好かれるそうです。逆に、「俺は頭がいいんだぞ」というセリフもたまに耳にしますが、経験上、実態は、ほぼ頭の悪い底辺であることは確かです。

「頭がいい」は、実質的に何のアドバンテージ(優位性)も保証するものではありません。特殊な世界におけるプロフェッショナル以外では、「頭が良い」は何の意味も持ちません。

そもそも、頭が良いという評価基準は物知りであるということなので、そのような知識は既存の知識、分かっている知識にすぎない。未知の世界には役立たない陳腐ちんぷな知識にすぎない。

なので、「頭がいい」に反応するのは良くないと理解しておきましょう。頭脳は第二次的な脳なので、その力は弱い。そのように確信して、大きな誤りにはならないはずです。


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