この世とは暴力なくして生きてゆけない世界である
例えば、対人恐怖症という症状に犯されている人たちがおります。比率はMAX50%です。この世で生きるということは暴力に曝されることから逃れられないということでもあります。
例えば、組織内において日常的に行われている会議や講義なども、多かれ少なかれ暴力性をはらんでいます。「人と人が接する」という時点で、互いに「自我」がぶつかり合うので、そこに暴力性が生まれるのは必然なのです。
つまり、生きるということは、常に、暴力と向き合うということなのです。
生物の世界は、食べる者と食べられる者で成立しているので、他者との接触は多くの場合、生きるか死ぬかという究極の暴力と遭遇することになります。ほとんどの生物は、そのような過酷な世界の中で生きているわけです。
すなわち、生物は、ジェリーフィッシュレイクの中で光合成によって生きているタコクラゲのような、隔離された特殊な世界でない限り、暴力のない世界では生きてゆけないのです。
人と人が出会うと暴力が出現する。
これは事実です。
だからこそ、「交渉」というものが成立しているのです。
「暴力をどう効率的に行使するか」が交渉術といえます。交渉がうまい人は、自分が暴力性を帯びたことをやっているという自覚を持っています。そういう人たちは、例外なく人当たりはソフトです。それが「術」だからです。
「うわべ良い人は全て詐欺師である、嘘つきである」というのと同じです。
何らかの目論見があるから演技しているわけです。これは普通の行為です。あなただって、好きな人や大切な人と会う時は、好かれようとして演技していますね。これも交渉術の一つです。
例えば、好きになった人から嫌われると、激しく怒ったり、落胆したりしますね。これは暴力、これも暴力なのです。
好きという最も好ましい行為にさえ、暴力性が秘められているのですから、この世において「暴力」から逃れることは不可能なのです。
だからこそ、感受性が強すぎると相手の優しさでさえが耐え難い暴力として身に迫ってきたりします。
「親切にされること、優しく見つめられること、抱きしめられることはことごとく苦痛でしかなかった」と述懐する人さえ現れてきます。
すなわち、誰であれ、「自己の領域に入り込んでくることを受容できない」と主張する人たちが現れたりするのです。
こうなると重度の病とみなされます。
人が造った社会の中で生きて、人が造った様々なサービスを享受しながら、人の愛さえ苦痛だなんて、まさに正気の沙汰とはいえないのですが、そこまで発信できる人さえ誕生し得るのが、この世という世界の実態なのです。
不安一つを取り上げても、それが全くとりとめのない無為で、かつ、エンドレスな感情であることが理解できるはずです。
例えば、相方の年収の話をすれば、年収が幾らになれば安心できるのかという法則は存在しません。「これだけ稼いでいるから大丈夫」などという法則は成立しそうで、しないのです。
結婚相手の年収が低いと「低いから不安」といい、それ相応の年収を稼いでいても、「いつまでその年収を維持できるのか不安です」といい、年収が高ければ、「無駄な浪費や浮気をしないか不安です」という。
確かに、高年収の人は、よほど見た目がひどい人でない限り、90%以上の確率で浮気します。なぜなのでしょうか。答えは、お金を稼ぐ行為も浮気という名の性行為も、共に、本能だからです。
しかも、お金と性は二大本能なので、お金を稼ぎながら清廉潔白な生き方を試みるというのは大きな矛盾に至ります。
つまり、一方で相方の高収入を願い、他方で相方の浮気を否定することは矛盾しているのです。多くの人は、このような矛盾を平気で犯し、かつ、本気になって実行しようとします。全く、この世には奇妙な人たちが数多く蠢いているといえます。
この他にも、外国人から見て変と感じられる行為を、日本の女性は平気で行っています。その事例をあげると次のようなことです。
(1)働かず依存的になる。
相方の年収に執拗にこだわることも原点が依存性の高さとみなされます。お互いに独立して、共存的な生き方をしている外国人からみれば、とても許容できない甘さ、狡さに感じられるはずです。
(2)夫と子供を所有物のように支配する。
この傾向も強いですね。例えば、座り小便を強要するとか、お小遣い制で夫を拘束するとか、子供に勉強を強制するとかがそれです。
個人的には、よくこんな不出来な女たちと結婚していますね、それなら独身の方が気が楽でしょうと思うのですが、外国人の目にもこの異常性は看過できないらしく、「日本の女性の多くに精神疾患や人格障害がみられる」と考えているようです。
精神障害というより、思考があまりに自己都合的で未成熟な女性が、日本人には多すぎるということでしょう。
ちなみに、「絶対に結婚してはいけない女性の条件」という記事があり、そこには4つの条件が記されていました。
・依存心が強い。
・浪費癖がある。
・ヒステリー。
・完璧主義者。
これはヤバすぎます。このような愚かなことをしながら、平穏を願っているのであれば、その願いは叶わないでしょう。
当たり前の話です。しかし、当たり前を正しく理解できない人が多すぎます。自ら矛盾の種を作り、その種によって苦悩している。まさしく、自縄自縛の行為です。
永遠に幸せになれない行為を日常的に積み重ねながら、なおかつ、平和と安定と平穏を願う。正気の沙汰とは思えない行為を、延々と賽の河原の石積みのようにやっている。これは地獄絵図です。ここを理解しないといけません。
誰もが願っていること、誰もが不安に思っていること自体が地獄絵図そのものなのです。
その願いや不安を拡大してゆくと、「誰でも楽して面白おかしく生きてゆきたい」と願っているということになります。或いは、「本能と感情のままに生きてゆきたい」とも思っています。これが、タダ乗り、フリーライダー、ずるがしこい生き方、寄生虫的な生き方の根源です。
誰もが、できるならそうしたいと願っていることなので、誰が何と言おうと、このような利己的思考がなくなることはないでしょう、絶対に。
この世における平和と平等、公正な理想郷は夢幻であり、それを実現させようと頑張っている個体は「狂気」とみなされるし、そのようにみなして、否定したり、排斥したりしなければならない。
このように考えると、皆が平等になれると謳う共産主義思想などは端から「ありえない邪悪な思想」といえますし、実際、そうなっています。
誰もが平等に公正公平に生きることができる世界は成立不能の夢のような話にすぎません。
楽したい、得したいという願望を持っている限り、絶対に平等公正公平な世界は実現しません。
その一方で、誰もが公平無私になってしまったとしたら、もはや「欲望」自体が湧いてこなくなり、最終的に進化が終わり、同時にその世界も衰退の果てに滅び去ることでしょう。これが進化なのです。「三次元仮想空間とは、進化の法則に貫かれた修羅の世界である」ということなのです。
なので、この世では「ある程度いい加減がちょうどいい」と理解しておかないと、不平不満が満ち溢れ、愚痴の山で自分を埋め尽くして身を滅ぼしてしまうかもしれません。
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