ドイツの歴史
古代(紀元前13世紀~5世紀)
この時代にはケルト人やゲルマン人などのさまざまな民族が文化や戦争を通じて交流しました。
前13世紀から前7世紀にかけて、ドイツ南部ではハルシュタット文化が栄えました。これはケルト人とイリュリア人の前期鉄器文化で、金属製品や陶器などの工芸品が特徴的です。
前7世紀から前2世紀にかけて、ドイツ北部ではヤストルフ文化が栄えました。これはゲルマン人の鉄器文化で、農耕や牧畜を営みながらも戦闘的な生活を送っていました。
前5世紀から前2世紀にかけて、ドイツ南西部ではラ・テーヌ文化が栄えました。これはケルト人の後期鉄器文化で、地中海地方の文化的影響を受けて芸術や宗教が発展しました。
前2世紀から4世紀にかけて、ドイツ東部ではプシェヴォルスク文化が栄えました。これはポメラニア文化とも呼ばれ、イリュリア人とスラヴ人の混交による鉄器文化で、馬具や武器などが見られます。
前2世紀から5世紀にかけて、ドイツ西部ではローマ帝国とゲルマン人の間で激しい戦争が繰り広げられました。ローマ帝国はライン川とドナウ川を境界線としてゲルマニアを支配しようとしましたが、ゲルマン人は反抗して度々侵入しました。
4世紀から5世紀にかけて、アジアからフン人が西進してきたことで、ゲルマン人の大移動が始まりました。ゲルマン人はローマ帝国領内に逃れてきて、西ローマ帝国の崩壊に大きく影響しました。
前期中世(6世紀~10世紀)
この時代にはフランク王国から神聖ローマ帝国へと政治的・文化的な変化が起こり、ドイツ人意識やドイツ語も形成されていきました。
6世紀から7世紀にかけて、ドイツ西部ではメロヴィング朝フランク王国が栄えました。この王国はゲルマン人とローマ人の混血であり、ローマ・カトリックを信仰していました。
8世紀から9世紀にかけて、ドイツ西部ではカロリング朝フランク王国が栄えました。この王国はカロリング家の王たちによって西ヨーロッパを統一し、800年にはカール大帝がローマ教皇から皇帝の冠を授かりました。カール大帝はアーヘンを宮廷として古典文化の復興に努めたほか、ドイツ東部や北部にも勢力を拡大し、ザクセン人やスラヴ人などの異教徒をキリスト教化しました。
843年にはヴェルダン条約によってカロリング朝フランク王国が三つに分割され、ドイツ東部と南部はルートヴィヒ1世の子ルートヴィヒ2世が支配する東フランク王国となりました。この王国はドイツ人の王国としての性格を強めていきました。
911年にはカロリング朝が断絶し、東フランク王国では選挙王制が始まりました。919年には非フランク人であるザクセン人のハインリヒ1世が国王に選出され、ザクセン朝が成立しました。彼は北方のノルマン人や東方のマジャール人などの外敵を撃退し、ドイツ王国の基礎を築きました。
936年にはハインリヒ1世の子オットー1世が国王に即位しました。彼は父の政策を引き継ぎ、ドイツ内外で権威を高めました。955年にはレヒフェルトの戦いでマジャール人を決定的に打ち破り、962年にはローマ教皇から皇帝の冠を授かりました。これによって神聖ローマ帝国が成立し、ドイツ王国はその中核となりました。
中期中世(11世紀~13世紀)
この時代には神聖ローマ帝国が内外で多くの問題に直面しながらも存続しようとしましたが、その結果として領邦国家が台頭しました。
11世紀から12世紀にかけて、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の間で叙任権闘争が起こりました。これは、教会の高位聖職者を任命する権利をめぐる争いで、皇帝は世俗的な支配権を主張し、教皇は宗教的な独立性を主張しました。この闘争は、1077年のカノッサの屈辱や1122年のヴォルムス協約などの出来事を経て、教皇の優位が認められることになりました。
12世紀から13世紀にかけて、神聖ローマ帝国内では領邦国家が台頭しました。これは、諸侯や都市が皇帝から様々な特権や自治権を獲得して自立的な支配圏を形成したことを指します。特に有力な領邦国家としては、ザクセン公国、バイエルン公国、ブランデンブルク辺境伯領、オーストリア公国などが挙げられます。
13世紀には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世がイタリア政策に専念し、ドイツの統治を怠りました。これによってドイツでは大空位時代と呼ばれる混乱期が始まりました。この時期には、諸侯や都市がさらに自立を強めて領邦国家化を進めました。また、北方ではドイツ騎士団がバルト海沿岸に進出してプロイセンやリヴォニアなどの土地を征服しました。
1273年にはハプスブルク家出身のルドルフ1世が国王に選出されました。彼はドイツの秩序回復に努め、諸侯や都市の勢力を抑えようとしました。彼の死後もハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を継承し続けましたが、その支配力は限定的でした。
13世紀末から14世紀初頭にかけて、神聖ローマ帝国では金印勅書やラントフリーデなどの法令が制定されました。これらの法令は、諸侯や都市の特権や自治権を認める一方で、皇帝の最高裁判権や貨幣鋳造権などの権利を確保することで、帝国の分裂と再統合のバランスを図ろうとしたものでした。
後期中世(14世紀~16世紀)
この時代には神聖ローマ帝国が宗教改革によって分裂し、ドイツ人意識やドイツ文化が形成されていきました。
14世紀から15世紀にかけて、神聖ローマ帝国は内外で多くの問題に直面しました。内部では、諸侯や都市が皇帝に対抗して領邦国家を強化し、帝国議会や金印勅書などの法令で帝国の分裂と再統合のバランスを図ろうとしました。外部では、百年戦争やオスマン帝国の侵攻などの脅威に対処するために、皇帝はイタリアやブルゴーニュなどの地域に関心を向けました。
16世紀に入ると、神聖ローマ帝国は宗教改革によって深刻な危機に陥りました。1517年にマルティン・ルターが95ヶ条の論題を発表してカトリック教会に抗議すると、ドイツ各地でプロテスタント運動が広がりました。皇帝はローマ教皇と同盟してルター派を弾圧しようとしましたが、諸侯や都市は宗教的自由を求めて反抗しました。1546年から1555年までのシュマルカルデン戦争では、プロテスタント側がフランスやデンマークなどの支援を受けて皇帝側に対抗しました。戦争は1555年のアウクスブルクの宗教和議で終結し、諸侯や都市は自らの領域内で宗教を決めることが認められました。
宗教改革の影響は文化や社会にも及びました。プロテスタントは聖書をドイツ語に翻訳して普及させることで、ドイツ語の統一と発展に貢献しました。また、プロテスタントは教育や福祉などの事業にも積極的に取り組みました。一方、カトリック教会も対抗改革を行って自らの改革と再生を図りました。この時代には、アルブレヒト・デューラーやハンス・ホルバインなどの画家が活躍しました。
前期近世(17世紀〜18世紀)
この時代には三十年戦争やハプスブルク家の台頭があり、ドイツは分裂と混乱に陥りました。
17世紀前半には、神聖ローマ帝国は三十年戦争に巻き込まれました。これは、プロテスタントとカトリックの対立に加えて、フランスやスウェーデンなどの外国勢力が介入した宗教戦争で、帝国内のほとんどの地域が荒廃しました。戦争は1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)で終結し、皇帝の権威は大幅に低下し、諸侯や都市はさらに自立を強めました。
17世紀後半から18世紀にかけて、神聖ローマ帝国はハプスブルク家の支配下にありました。ハプスブルク家はオーストリアやボヘミアなどの領土を持ち、スペインやネーデルラントなどの外国領土も継承しました。しかし、ハプスブルク家はフランスやオスマン帝国などの敵対勢力と幾度も戦争を繰り広げることになり、その負担は帝国内の諸侯や都市にも及びました。
18世紀後半には、神聖ローマ帝国内でプロイセン王国が台頭しました。プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯領を基盤として、強力な軍隊と中央集権的な行政を築き上げました。プロイセン王国はオーストリアと覇権を争い、シュレージエン戦争や七年戦争などで対立しました。また、ポーランド分割にも参加して領土を拡大しました。
後期近世(1806年~1871年)
この時代には神聖ローマ帝国が消滅し、プロイセン王国が主導する形でドイツ帝国が建国されました
1806年には、ナポレオン・ボナパルトが神聖ローマ皇帝フランツ2世に帝位の放棄を迫り、神聖ローマ帝国は解体されました。その代わりに、ナポレオンの傀儡となったフランツ2世はオーストリア皇帝として存続しました。
1813年から1815年にかけて、ナポレオンに対する反仏同盟が結成され、プロイセン王国やロシア帝国などの諸国がナポレオンを破りました。これによって、ドイツの諸邦はフランスの支配から解放されました。
1815年には、ウィーン会議が開催され、ドイツの諸邦はドイツ連邦という連合体を結成しました。しかし、ドイツ連邦はオーストリアとプロイセンの対立や諸邦の利害の衝突などで統一的な行動ができませんでした。
1830年代から1840年代にかけて、ドイツでは自由主義や民族主義の思想が広まり、ドイツ統一や憲法制定などの要求が高まりました。1848年には、フランス革命の影響を受けてドイツ各地で革命運動が起こり、フランクフルト国民議会が開催されました。しかし、この議会はオーストリアやプロイセンなどの大国の反対や内部の分裂などで失敗に終わりました。
1850年代から1860年代にかけて、プロイセン王国はオットー・フォン・ビスマルクを首相として登用し、ドイツ統一を目指す強硬な政策を展開しました。ビスマルクはオーストリアと対立しながらも同盟を結び、デンマーク戦争や普墺戦争などで領土を拡大しました。また、南ドイツ諸邦とも密約を結びました。
1870年から1871年にかけて、ビスマルクはフランスとの間に戦争を引き起こし(普仏戦争)、プロイセン王国はフランスに勝利しました。これによって、南ドイツ諸邦もプロイセン王国に加わり、1871年1月18日にプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として戴冠しました。これによってドイツ帝国が成立し、ドイツ統一が実現しました。
近代(1871年~1945年)
この時代にはドイツ帝国からナチス・ドイツへと変貌したドイツが二度の世界大戦を引き起こしました。
1871年には、プロイセン王国が主導する形でドイツ帝国が成立しました。初代皇帝となったヴィルヘルム1世と首相ビスマルクは、ドイツの統一と安定を目指して内政と外交に努めました。ドイツは工業化と植民地化を進めて経済的に発展し、ヨーロッパの列強の一角となりました。
1888年には、ヴィルヘルム2世が皇帝に即位しました。彼はビスマルクを解任して自らの権力を強化しようとしましたが、その結果としてドイツは周辺国との対立を深めていきました。特に海軍力の拡張やモロッコ問題などでイギリスやフランスと衝突しました。
1914年には、第一次世界大戦が勃発しました。ドイツはオーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国などと中央同盟を結んで戦いましたが、1918年に敗北しました。敗戦後、ドイツはヴェルサイユ条約によって多額の賠償金や領土割譲などの厳しい条件を受け入れることになりました。
1918年には、ドイツ革命が起こりました。皇帝制が廃止されて共和制が導入され、ドイツ国(通称:ワイマール共和国)が成立しました。しかし、この共和国は政治的・経済的・社会的に不安定であり、左右両極端の勢力や外国からの干渉に悩まされました。
1933年には、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を握りました。彼は独裁的な政治体制を確立し、反対派や少数民族を弾圧しました。また、軍備増強や領土拡大などの野心的な外交政策を展開しました。
1939年には、第二次世界大戦が勃発しました。ドイツはイタリアや日本などと枢軸国を結んで戦いましたが、1945年に敗北しました。敗戦後、ドイツは連合国によって分割占領され、東西ドイツに分裂することになりました。
現代(1945年~)
この時代にはドイツが東西に分裂し、再統一し、欧州統合への参加や社会・経済・文化の発展などを遂げました。
1945年には、第二次世界大戦が終結し、ナチス・ドイツは崩壊しました。ドイツは連合国によって分割占領され、東部はソビエト連邦、西部はアメリカ、イギリス、フランスの各占領地域に分かれました。
1949年には、西側占領地域が連邦制を採用してドイツ連邦共和国(西ドイツ)を成立させ、東側占領地域が社会主義制を採用してドイツ民主共和国(東ドイツ)を成立させました。こうしてドイツは東西に分断されることになりました。
1950年代から1960年代にかけて、西ドイツは経済復興を遂げて「経済奇跡」と呼ばれる高度成長を実現しました。また、欧州石炭鉄鋼共同体や欧州経済共同体などの欧州統合の動きに参加しました。一方、東ドイツはソビエト連邦の衛星国として計画経済を行いましたが、西ドイツとの経済格差や政治的抑圧に不満を持つ人々が多く脱出しました。
1961年には、東ドイツ政府が西ベルリンとの境界にベルリンの壁を建設しました。これは東から西への人口流出を防ぐための措置でしたが、東西ドイツの分断を象徴するものとなりました。
1970年代から1980年代にかけて、東西ドイツは相互承認や交流などの「東方外交」を進めて関係改善を図りました。また、両国とも環境問題や社会福祉などに取り組みました。
1989年には、東欧革命の影響で東ドイツで民主化運動が起こりました。11月9日にはベルリンの壁が開放され、東西ドイツ市民が歓喜の抱擁を交わしました。
1990年には、東西ドイツが再統一しました。新たなドイツ連邦共和国は欧州連合やNATOの一員として国際社会で活躍するようになりました。
1990年代から2000年代にかけて、ドイツは再統一後の課題や世界情勢の変化に対応しながら社会・経済・文化の発展を続けました。コール首相やシュレーダー首相などが政権を担いました。また、2002年からはユーロを導入しました。
2005年から2018年まで、メルケル首相が政権を率いました。彼女は欧州債務危機や難民問題などの対応で欧州の指導者としての役割を果たしました。また、気候変動対策や再生可能エネルギーの推進などにも取り組みました。
2018年からは、シュテーゲン首相が政権を率いています。彼はコロナウイルス感染症の対策や経済再生などに努めています。また、中国やロシアなどとの関係や欧州統合の深化などにも注目されています。
以上がドイツの歴史のまとめです。
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