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フリカツday57 自分では氣付かない

おはようございます。
今日は、1月11日のフリカツを
振り返って行きたいと想います。

この日は3人の仲間たちが
話をしてくれました。

それぞれに、自分と家族のことを
話してくれたんですが、
3人の話を聴いていて感じたのが、
自分の変化や成長って、
自分ではなかなか氣付けないもの
なんだなぁと言うことです。


仲間の内の一人が
「旦那さんも、子どもも変わってて、
 どんどん家族で過ごしやすくなっている。
 だけど、自分は今でも時々カッとなって
 子どもを叱ってしまうこともあって、
 自分だけ成長してないな…」と
ぼそっと呟きました。

わたしはここで2つ感じたことがあって、

①母も人間なので、時々カッとなったり
 感情的になることもあるのでは!?と
 いうこと。
 そして、自分が悪いと感じたら謝る。
(もちろん理不尽な内容や叱り方ではなく)
②家族が変化している言っているが、
 仲間自身が変わり、行動しているからこその
 その家族の変化では!?ということ。

私から見ても、その仲間は見た目も
放つエネルギーも変わっているし、
その仲間の行動力から刺激を受けることも
多々あります。

だけど、
自分一人だと自分の伸びてきた部分でなく、
まだ足りていない部分に注目するもの

なのだなということが改めて分かりました。

きっと、性格や素質、これまでの経験で
このように感じやすい人、そうでない人が
いると想います。

わたし自身も、「まだ○○できていない」と、
足りていない部分に注目しがちだなと
自分を振り返ることができました。

よく《あるに目を向ける》という言葉を
見聞きしますが、
これは、人のことや目の前の事象を
表しているとわたしは想っていました。
例えば、
・わたしには笑って過ごせる家がある
・おいしいご飯を食べられている
・お帰りと言ってくれる家族がいる
などなど、例を挙げていけば
《ある》しかないことに氣付くのですが、
だけど、本当はそれだけじゃないなと。

自分の自分自身のことも同じだなと。
例えば
・わたしは変われていない
伸びしろがたくさんある。
 いくらでも変わっていける。

・まだ○○できていない
ここまではできている。
・運動が得意ではない。
運動以外はたいていできる。
のように…
自分の中にちゃんとある
《ある》の部分
をわたし自身は
見逃しているかもしれないと感じました。
人のものは分かるのに・・・

自分の中にあるもの、
自分の中で持っているもの、
新たに足さないと行けないのか、
そうではなく《ある》に
目を向けられていないだけなのか、

なにかを始めるときにも、
自分に自信がなくなったときにも、
一旦立ち止まってその視点で
自分を見つめ直してみようと
自分を立ち返ってみようと
改めて感じた朝でした。

だけど、
自分で気付けるのが一番なのは
重々承知なのですが、
やっぱり限界があるし、
少しずつできてきたとはいえ、
まだ意識の定着や広い視野では
見つめることができていない。
だからこそ、この仲間たちとの時間が
わたしにとっては貴重で、
いつも氣付きと学びの連続です。

リミットがあるからこそ
そこに向けるエネルギーを高められる。

この場に感謝しながら
仲間に感謝しながら、
しっかりと自分を構築していきたいと
想います。


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最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。   EMI

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